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4/5TAMAコミ新刊『バスクチーズケーキ契約の命日』サンプル

こんにちは!
4月5日TAMAコミに参加します!
◤エ07 にろて屋◢
でお待ちしています。
今回、出るはずの新刊が急に消滅したので何もなしで行くつもりだったんですが……
新刊はどこからかやってきました。どういうことなのか私にもよくわかりません。
しかもへんなタイトルってわかってるのに他になにも思いつかなかった。
めんぼくない。
いつもBLを書いているので、今回は男女ふたりの話でやや毛色は違いますが、楽しんでいただけたら嬉しいです!
どうぞよろしくお願いします。

A5/62P/¥500- 男女のもだもだ恋愛? 小説

バスクチーズケーキ契約の命日

丹路 槇

 新卒で大学職員になって四年、なんだか先が見通せなくなって仕事を辞め、辞めたけど雇い主だけ別の法人に変わりその場で再就職して三年。今は医学部附属病院の循環器内科で教授秘書をしている。新人職員の時に恐れていた異動もないし、昇給昇格もないから上も下もなくってめっちゃ楽。それ以外の感想がない。もしかしたら二十代のうちに自分にとって人生最大の選択を最高の形で済ませてしまったかもしれない。既定路線からのエスケープ感はすごいけど、そういう目で見るひともどんどん辞めていくから、たった三年でそもそも私が元職員って知ってる大学の人間は半分くらいになったんじゃないかな。
 浅見麻美、二十九歳。適度にいい生活なので、あとはただ、ちょっと顔が綺麗な恋人がそのうちにできたら百点です。どうぞよろしく。
 顔がいいといえば、彼、キムのことはけっこう前から知っていた。事務仕事で使う文房具や消耗品をわりとまとまった量で注文するには大学の本部にある事務局へ行く必要があって、私とキムはそこにある管財課のカウンターの前で何度かすれ違っていた。私が発注伝票を提出する時、たいてい彼は納品された紙ワイパーのボックスを腕に抱えるだけ持って、おそらく彼の勤務している部署へ戻るところ。顎より上まで積み上げたキムワイプの箱を器用に運んでいる男だった。だからあだ名はキム。
 彼はいつも黒い襟付きシャツに黒のチノパン、細身のスニーカーを履いていた。スニーカーも黒。なんか葬式みたいだよね。職員証のストラップは片腕を通してたすき掛けにしている。どこかの教室の研究生か助教の先生だと思っていた。いちおう、すれ違う時に、してるのかどうか分からない、髪を耳にかけているのと同じタイミングだから勘違いかもしれない程度の、会釈をしている。されたって困るだろうからって、いや私挨拶なんてしてませんけど? みたいな顔で行き過ぎていた。彼から反応が返ってくることもなかった。
 だから、キムが私との初対面として記憶しているのは、たぶん五月のことだと思う。金曜日の午後で、その日はなんでか事務所に職員がほとんどいない日だった。私は総務課へ予め連絡しておいた宅配の発送のために伝票を書いていて、翌日午前指定の荷物を預けるところだった。中身はプチプチで厳重梱包したプロジェクター。週末の関東支部会の学会のために準備物品を送っておくのだ。ホテルで借りるとたった数時間なのに平気で三万とかぼったくってくる。医局の若い先生に運んでもらおうか悩んだけど、忘れられたり壊されたりしたらそれも嫌だから、プロに頼むことにした。帰りはたぶん他の荷物と一緒に学会の事務局のひとが教授室へ送り返してくれるから、そっちの方が安心。
 そこで、私が伝票を書き終えて白衣の胸ポケットにボールペンを挿す頃、キムが総務課の窓口にやってきた。今日はキムワイプを持っていないし、取りに来たわけでもないらしい。手には一通の白い封筒を持っている。
 彼は、カウンターの横に置いてある、大学構内の各部署、各研究室の名前が書かれた学内ポストをひとつひとつ熱心に眺め始める。手に持った封筒の行き先を探している。左上の棚に貼られた「医学部生化学」から、右下にある「大学医師会事務局」までの、およそ四十ほどの入居でひしめくマンションの中に、彼の探している表札はないらしい。キムは途方にくれる。そうそう、キムの顔は芸能人みたいなとびきりの美男ってわけではないけれど、なんだか女子が好きそうな顔をしている、ということははっきり分かる。顔の線が漫画っぽいというか、バランスが絶妙で大衆の趣向を巧みに捉えているっていうか。なにって具体的にはうまく言えないけど。インフルエンサーとかモデルさんにいそうかなって思う。たぶんこれは私も好きな顔。付き合う? って聞かれたら、付き合う。とりあえずやってみよう精神が売りなんでね。
 で、キムはその場に立ち尽くしたままだったけれど、まだ諦めない。見落としがあるんじゃないかって、もう一度探してる。解剖、病理、生理、薬理、公衆衛生、法医、歯科理工、毒物、薬物動態、感染制御……。今度はゆっくり、丁寧に確認してるけれど、やっぱり行き先のポストはなさそう。
 彼が諦めて肩を落とすタイミングに声をかける。
「あの、お探しの部署って?」
 キムは声がする方へにゅっと首を向け、猫背で顔が前に飛び出た状態のまま驚いて目を見開き、白い封筒を落としそうになった。封筒は彼の手汗を吸ってなんとかその場へ留まっていた。キムはぽかんとした顔をして「お疲れ様です」と言った。
「お疲れ様です、あ」
 封筒を盗み見ると、宛先は感染症学寄付講座だった。これは病院の地下だなぁ、と封筒を指さして私が言った。
 医療系の大学は、研究室が基礎と臨床に分かれている。めちゃくちゃざっくり言うと、基礎は人間の健康の体、その構造とか免疫、再生の機構を研究する。この大学は動物実験の所管も基礎にある。対して、臨床はその名の通り、病気のひとの床に沿う研究ということ。臓器や専門分野が診療科や外来の名前になっていることが多い。治験も臨床。なので感染症学寄付講座は、大学の総務課じゃなくて、病院の地下にポストがあるのだ。惜しい、キム残念。
「これ、よかったら預かりますよ」
 私が手を差し出す。キムは反射的にそれを渡そうとして、すぐに遠慮に負けたのか、ぐいっと引っ込めた。
「大丈夫です、場所だけ教えていただけないですか」
「入院棟の地下二階です。私、これからそこに行くんです。じゃあ一緒に行きましょう。先生がお忙しくなければ」
 総務課から伝票の控えを受け取り、白衣の腰にある大きい方のポケットに畳んでしまう。じゃあやっぱりお願いしていいですか、と彼が封筒を差し出すのを待ったが、キムは先を行く私を慌てて追いかけてきた。
「地下二階、ご用があるんですか」
「はい、私、循内の秘書をしていて。医局のポストがそこへあるので、朝と午後に一度ずつ立ち寄って、教授宛ての郵便を確認します」
「なるほど」
「先生は、普段はあまり病院にいらっしゃらないです?」
 彼は質問に答えなかった。変なことを聞いてしまったか、本館を出てキャンパスがやや騒がしくて聞き取られなかったのか、よく分からなかった。まあいっか、聞き直すほどのことでもない。
 駐輪場の脇を通ってから、病院のスタッフ通用口から中へ入る。あっちは大学、こっちは病院、狭い敷地の中にあれもこれもと建てられている。ずいぶんへんな組織だ。しかも、どこもかしこもすごい人がいる。医師、看護師、薬剤師、技師、それぞれの職種になるために学ぶ学生、病院には患者さんたち。
 スタッフエリアにある、地下行きのエレベーターに乗る。ドアが閉まって中に私とキムだけになると、彼はストラップから職員証を手繰り寄せて私に見せた。
「あの、はじめまして」
 左側には茶髪の証明写真、右には幽谷知浩と書いてある。
「ユウコクさん?」
「カスヤです」
「へえ、初めてお聞きしました。私も、はじめまして」
 白衣の胸ポケットにクリップで留めた職員証が裏返っていたので、元に戻した。浅見麻美の顔は大卒の就活中に撮った伊勢丹製の証明写真のままだ。
「アサミ、マミさん」
「そこは、アサミアサミって読むくだりですよ」
 二十年以上擦り続けて、恥も旨味も分からなくなった自己紹介を口にしたところで、エレベーターが開いた。
 入院棟の地下二階は物品管理室になっていた。医療材料や注射、生理食塩水の点滴などのほかに、調剤が不要の錠剤やチューブの外用薬が保管されている。ここには医療材料の卸しが物流ターミナルを作っていて、院内の物品供給を注文数だけ受けるという仕組みらしい。つまり、病院は大量の在庫を抱えなくてもいい、卸しは在庫があれば最短最速で納品できるしまとめ買いしてもらえる利がある。お互いに美味しい商売だね。
 それであらゆるモノが院内を血液のように巡るので、郵便や宅配も同じように院内各所から集められ、各所へ分配される仕組み、っていうことでここに院内の部署ポストがあった。循環器内科は医局員が多くて届く荷物がたくさんあるのでスペースは二部署分もらってる。感染症寄付講座は、民間に出資してもらって開設された期間限定の講座だから、右端にブックエンドを挟んだ仕切りの半分だけスペースをもらっていた。キムを近くまで引っ張っていって、ここですよ、と指さした。私はチビだから感染症のポストまでは手が届かなかったけど、キムは余裕だった。
「ありがとうございます」
 黒シャツの男が、はじめてのおつかいを成し遂げたお兄ちゃんみたいな目をして、頬を薄く染めていた。なにこれ、かわいらしいな。
「いえ、こちらこそ先生を連れ回しちゃって」
 私は軽く会釈してから、循環器内科のポストの前に行く。 教授室、准講室、医局となんとなく中身を分けながらエコバッグに郵便物をしまっていく。二の腕に下がった安っぽい素材のバッグがみしみしと生地を伸ばして耐える。キムがその取っ手を私の腕から取った。
「あれ?」
「荷物運びます」
「うわ、いいんですか。医局でも言われたことないですよ」
「臨床の先生たちは、お忙しいですから」
 たぶん随分前にもらった製薬会社のノベルティグッズであろう、錠剤が模様みたいに描かれた変なエコバッグを、黒シャツの男性が私のために教授室まで運ぶことになった。病院を出て、調剤薬局の通りと逆の方向へ道を渡って別棟へ行く。地下一階地上五階建てに臨床教授たちの個室がひしめく建物にはオートロックがかかっている。四桁の暗証番号で開錠。循内の板倉教授室は二階の角部屋だ。着任した教授は、診療科のメジャー・マイナー、その歴史と医局の力によってどの部屋に入居できるかが決まる。まさに白い巨塔でしょ。実際、私は入職してすぐ、2004年版白い巨塔をばっちり履修している。当時の先輩が言ってた通り、あれこそ我が職場の縮図って感じ、大変勉強になった。あと唐沢寿明の顔面が好きだった。まあ、既婚者は私の射程圏外だけど。
 図々しく教授室の前まで来てもらったら、たまたま教授が外来と回診の合間に部屋へ戻っていた。いつもは私が「戻りましたー」って言っても顔をあげるか返事すらしない板倉教授が、黒シャツの男を見つけておっと小さな声をあげた。
 私が紹介する前に、キムは肩から鞄を下ろして深々と頭を下げた。
「先生、ご無沙汰してます。幽谷です」
「本当に久しぶりだね。最近は? 教室はどちらだっけ」
 教授の反応が良かった。キムはこの大学の卒業生っぽいというのがすぐに分かった。
「形態解剖です」
「古塚先生のところか。どう、講師には楽になれそうなの?」
「今はポスドクで、実習の手伝いを」
「ええっ、せめて助手にしてもらいなさいよ。なんだ、学位持ってて勿体無いなぁ。それで、あの、先生はお元気」
「はい」
「そう。また遊びに来てくださいね」
 この会話で、キムにはおそらく元教授の父親がいて、それが板倉教授にとっては随分上の先輩で、つまり息子はもし本来は当人に実力があったとしても、この大学には七光り枠でいるということまで理解した。あーやだやだ、長くなるとこういうのが一瞬でなんでも分かるようになっちゃう。
 で、たぶん板倉教授は当時の〝幽谷派〟まではいかないまでも、賛同者のひとりだったのだろう。分かってて私のところについてきたな。キム、案外やなやつ。
 荷物を受け取り、愛想笑いでドアの外へ送り出す時、黒シャツの男はなぜか食い下がるような目で見てきた。
「マミさん」
 だから、アサミアサミだってば。あと女子を下の名前で呼ぶなっつの。
「総務の横でまたお会いできた時、ちゃんとお礼します」
 いいよもう、へんな気の回し方しないでも。しかも、やっぱり今まで管財課で私とすれ違ってる数回のすべて、彼がまったく気づいていないことが確定した。まあ、白衣着てる補助員なんて学内にいくらでもいるしね、チビ以外に特徴もない、マスクしててもブスが和らがない、風景に埋もれる顔面しか持ち合わせてませんし。
 でも、そんなふうに声をかけてくれるのは、やっぱりちょっと嬉しい。最近はまだましだけど、職員やめて秘書になってから半年は、まじで話し相手が板倉教授しかいない寂しい女だったので。
 部屋を出ると、キムは迷うことなく通路を左に進み、エレベーターではなく階段で一階へ降りていった。ここの建物の中もどこに誰の部屋があるのか分かるくらい、絶対何度も出入りしているみたいだった。

 それからキムに認知された私は、週に二回くらい、大学の構内や敷地内の道で会った時に挨拶をする仲になった。昼に学食で見かけた時に向こうもひとりだったから一緒にテーブルで食事もした。まあ、おのおのトレーを持ってきて向かいに座っただけだけど。
 あの日のお礼をキムはちゃんと憶えていて、ランチ後に病院の外来棟へ行くと、テナントのカフェでコーヒーをご馳走してくれた。J大みたいにスタバが入ってればよかったのにって言ったら、ブラックはこっちのチェーンの方が美味しいよ、だって。そんなに味変わるものかなぁ。私がいっつもラテばっかり飲んでるから知らないだけかも。
 教授室での独り言が大好きな板倉教授によると、キムの父である幽谷教授は二代前の歯学部長だったみたいで、数年前まで産学連携センター長を務めていた、ふつうに偉いひとらしい。でも理事とか評議員ではこの法人に残っていない。息子は医学部に進学して、でもずっと医者になりたくないって言ってて、試験は首席なのに実地の診療参加型臨床実習クリニカル・クラークシップでは、指導教授からの評判はイマイチだった。ぜったい臨床医にならないって本人も思ってたしみんなもそうだろうなとは察してたんだけど、たぶん父親やまわりの大人たちの意向とかいろいろあって、研修医が終わったあと、彼は整形外科に入局した。
 私にとっての整形外科医は、テニスサークルとかサーファーとかそういう感じ。外科の先生って賑やかで明るくて声が大きいひとが多い気がする。完全に偏見だけど。だから人あたりの良い先生ばかりで喋りやすいし、指示も受けやすいし、私が職員だった頃は、整形の先生はけっこう好きだった。うーん、キムとはまったく逆のイメージ。
 キムが大学病院にいた時、私は管理課の配属だったはずだけど、そのあたりのことをまったく憶えていない。もし認知してればぜったいカスヤって読めた。だって人命救ってる医者が、幽霊の谷って、すごい苗字だしぜったい忘れたりしない。
 本当はキムはそこで数年間の専門研修プログラムを履修して整形の専攻医になるべきだったんだけど、彼は学部在学中から科目履修していた大学院にそのまま進学して、論文のための基礎研究に没頭し、退職して学生に戻った。早期修了で博士を取得したのが今春だったみたい。だからドクターにも教員にも見えない、リサーチャーって感じのオーラでふわふわしてたんだな、って納得した。
「けっこう学生にモテる先生になると思うんだよね、彼は」
 板倉教授は長い独り言を終わらせることなく好物のスルメソーメンを噛んでいる。へえそうですか、と相槌してしまうと会話になっちゃうので、私は無言のまま興味の視線だけ向けておく。
「基礎なんていくらでも教員の枠はあるんだから、ポスドクなんて見習い扱いの飼い殺ししないでさ、さっさと専任講師にしてあげればいいのにねぇ。それで准教授、教授ってちゃんと階段順に整列させとかないと、とつぜん上が、思いつきでどっかから友だち連れてきて、外の先生がいきなり教授になっちゃうんだもの」
 そういうのやっぱり都合悪いものなんですか。同窓同期で固めておきたいとか、政治として。
 聞きたいことを聞かないまでも、なんでも喋る教授の秘書になって私はラッキーだ。無口で内情を何も語らない医者の小間遣いなんかしてたら、毎日歯に挟まったまま取れないものに囚われて、仕事の楽しさが五億分の一になっちゃう。
 教授は追加のスルメソーメンを折り畳んで口の中へ突っ込んだ。
「まあ僕らとしては、人事やるならだいたい基礎の教授と仲良くしていたいよね。特にオペとかカテやるのはさ、腕はいいが論文は書けないって。研究も自科で指導してくださいっていったってね、無理あるよ。僕は公衆衛生だとか解剖の先生んとこ、医局員出して博士にしてもらうのがいちばん安心だなぁ。研究に向き合うことは素晴らしいことなんですよ。ゆっくり真剣に指導してもらってね、成果上げて、原著論文何編か持っておくっていうのは、若手中堅ならまあ大事ね。任期とか昇任とか、面倒だったら街の中核病院に行けばいいんです。あー、僕もあと五年だから、もうできることなんてほとんどないんだけどねー」
 それから、第二病院の院長あてのメールで変なところがないか見ておいて、と言われる。メーラーを更新すると下書きに赤いボタンがついたのでメッセージを開いた。三か所見つけた誤字を直して上書き保存する。
「問題ありませんでした。宛先を追加して送信しますか?」
「うん、お願いね」
 アドレス帳に登録してあるアカウントから、第二病院の院長、病院の事務長、院長秘書をToとCcに入れて送信した。教授がスラックスのポケットから財布を取り出して、明日の来客用に菓子を買ってきてほしいと言って紙幣を渡してくる。了解、駅前の商店街にある和菓子屋でどら焼きをご所望ですね。いつも十五分くらいで戻ってこられるけど、しばらく部屋を開けろって意味だと分かってるので、ゆっくり散歩して三十分後に帰室するようにしている。まあ私にとってもちょうど良い頃合いだった。凡人にとって週明け月曜日って朝から出勤しているだけで本当にすごく偉いことだから、夕方の時間を消化試合にしてくれるのは大変にありがたい。
 オートロックのエントランスを出る。ちょうど学生が授業を終えてキャンパスから続々と駅へ向かう時間帯だった。ありゃ、タイミング失敗したな。信号待ちでいろんなひとの間に挟まれたり、知らないひとたちの雑談を立ち聞きするみたいになってしまうあの感じがちょっと苦手だった。かといって部屋に引き返すわけにもいかない。ついてなかった、残念。
 交差点で足を止める。赤信号で橋を断ち切られた対岸の、和菓子店の目の前にキムが立っていた。いつも通り黒の上下で大きな手提げを運んでいる。学校の外までお遣いはちょっと珍しい。無言で正面を見ている彼をしばし観察した。青信号。キムが大股で横断歩道に出る。大学生の集団が近くの人間にぶつかりながら大騒ぎしていた。私はそれに巻き込まれないように持ってきた鞄を胸の前で抱えて前列が完全に移動を始めるまで待つ。
 集団との距離をじゅうぶんに取ってから、やがて前を歩き始めた。キムはすぐ数歩先に来ていた。
「マミさん」
 耳を掻くような仕草かと思ったら、イヤホンを外して挨拶してくれたみたいだった。遅めの休憩だったのかな。私も先へ進む足を緩めて、ほぼ見上げるみたいにして「おつかれさま」と返す。
 私たちは敬語で話すよりも友人のように言葉を交わす回数の方が増えていた。入職の年は私の方が二期上だけど、彼と私は同い年だった。
「昼? 遅いね」
「休憩と、洗濯も。そこのランドリーね、解剖の行きつけだよ」
「行きつけうける」
「マミさんはもう帰るの?」
 話しながら、彼は渡りかけた横断歩道を、私に合わせてまたもとの方へ戻っていた。はじめの時もそうだけど、彼はなんでか、私にくっついてくるのが楽しいみたいで、すぐにおしゃべりを始める。へんなやつには違いないんだけど、まあかわいらしい。
「教授の茶請けの買い物だよー」
 面倒で手短に用事を伝えると、彼は頬の上に皺を作って笑う。
「うわ、笑われた」
「ごめん、マミさんよく、父みたいなボキャブラリー? で話すから。茶請けとか、なになにするくだり、とか。語彙が父だよ。父の子みたい」
 和菓子屋の前までついてきた男は、そのまま店の中までついてこようとしていた。そして私も、そのまま彼が好きにしている時間を邪魔するつもりはなかった。だから続きの話をしたんだもの。
「父の子って、そりゃあなたでしょ。でもあれ? お父さんもしかして、少し上の世代ってことよね、もう退官されてるし。じゃあさ、キムが学生の時……」
 それで失敗した。私はじぶんの脳内で勝手に呼んでいたあだ名を、なんとご本人に堂々と披露してしまったわけなんだよね。キムって。キムだよ? だってしょうがないじゃん、あんな頻繁に大量のキムワイプ抱えて運んでたら、ほかにあだ名のつけようがない!
 咄嗟に「あっ、ごめん」って言ったけど、口から出てしまった事実を抹消することはできなかった。タトゥーだよね、負の歴史だよ。なんで私は大学内ではわりとビッグネームの二世とたまたまちょっと会話できるようになって、タメ口きけるところまできた程度で油断して、今それを言った? あほなの? あーほんと愚かすぎる。アサミアサミは秘書失格です。とりあえずここらで土下座しとくか。しかもこんな日に限ってスカートにストッキング。足がぼろぼろになっちゃうよね。ままよ、どうとでもなれ。
 けど、私よりもっと深刻に落ち込んでいて、顔色優れなく、今すぐにでも謝ってしまいたそうなひとが目の前に立っていた。キムの顔面は紙みたいに白かった。死んだひとの顔のよう、って思うのはさすがに不謹慎か。でも毎日病院のそばにいると、一般の人みたく明け透けな言動を憚る、とかできなくなるんだよね。
 で、キムが倒れそうだった。慌てて私がもう一度謝り、鞄の中のハンカチを差し出した。
「ごめんなさい、そんな酷いこと言ったって思わなくて……気分悪い? ベンチで休もうか」
 ハンカチは受け取らず、キムは小声で「なぜ」とだけ口に出した。
 うーん、もう買い物はいいかな。茶菓子は明日の出勤前に買えばいいことにしよう。というか正直、私はこのままでも帰宅できちゃう恰好ではあった。キムは肩にリネンを背負っている。それは研究室に運ぶから大学へ戻っておいた方がいいよね。
 私たちはふたたび信号が青になるのを待って、今度は大学へ向かって道を引き返した。私はとにかくよく事情が分からないまま謝りまくった。大学の本館へ行って、キムが研究室に寄る間、私は地下の食堂で待つことにした。スマホの電波が通じない場所だったけど、たまたまPHSピッチをポケットに入れたまま出かけていたので、教授に電話してそのまま帰ることを伝えた。道で倒れたおばあちゃんを助けたら、自分も足を擦りむいてストッキングがぼろぼろで、っていう嘘の理由を、教授はあっさり受け入れた。茶菓子は明日の朝でいいかと聞いたら、要らなくなった、だって。ほんとにもう。
 キムには、適当に時間を潰すから残っている仕事があったら少ししてきて大丈夫、と伝えていた。十分くらいして本当に戻ってこなかったので、鞄から文庫本を取り出して読んでいた。毎日通勤時間が片道二十五分だから、文庫本は何か月も同じものを読んでいて一向に読み終わらない。休憩時間や週末にも夢中になって本を開けばいいけどそれをしない私に問題があるのか、この本に私を夢中にさせる魅力が足りないのか。栞を挟んだページを開いてからその場で目をつむり、このまま少し寝てしまおうかと思った。自動ドアの音がして、キムが現れた。
 その時はじめて、彼から煙草の匂いを感じた。自分が吸うくせに他人のヤニを臭がる大人は多いけど、私は実家がそうだったからか、煙草の匂いは嫌いじゃなかった。どちらかというと、嗅ぐと落ち着く。成人してから私も吸ってたけど、職員を退職した時に止めてそれからしばらく買ってない。純粋に、経済的な理由で。嗜好品は少ない方がいいからね。
 今のキムは、私と喋る前にいったん素面になるために時間が必要だったのだろう。数年前に撤去されて構内に喫煙所がなくなったから、裏の駐車場の隅でこっそりんできたのかもしれなかった。いや、彼がどんなに心を鎮めてきたところで、こっちがこれからなにを話されるかなんてまったく想像できてなかったけど。やっぱりあのくだらないあだ名から生まれた他の大きな誤解から、単に私が謝らされるんだと思っていた。しかしあだ名ひとつで、とも思う。なんであのさらっと言ったふた文字が、見事に聞き取られちゃったのかね。まあ、聞き取れちゃうか。
「待たせてごめん」
 キムが口を開いたので、さっと立ち上がった。
「研究に没頭して三時間忘れられる、くらいまでは経験済み。今の長さはトイレと同じくらいかな」
「とても心強い秘書さんだね」
 帰り支度をすませたはずの彼は、黒のジャケットとボディバッグを手に提げただけで来ていた。こういう時にもう分かっちゃうんだけど、タクシーに乗せられるんだなと思った。行き先は銀座のバーですか? 高輪の料亭ですか? 令和の時代に絶滅したって世の中のひとは思ってるだろうけど、まだまだぜんぜんいるからね、私の職場には。キムもいちおう月並みに二世ムーブしてくるわけか。っていうかそういう風に育てられるとその他の選択肢とか知らないのかも。
 キャンパスを出て附属病院の外来棟正面のロータリーに出ると、いちばん先頭に停まっていたGOタクシーに乗った。十分も経たずに目的地に着き、停車した道の前でふたりは降りた。見たことのある景色だなと思って周りを見ると、少し先に大学の校章を発見。そうだここは歯科病院の真裏なのね。青い屋根のヴィンテージマンションが建っていて、そこのはす向かいにある、ちょっとおしゃれな煉瓦造りの一戸建てへ連れていかれた。
 表札代わりにかかった小さな看板を見ると、スペイン料理屋だった。あ、ここも知ってる。学生の時に流行った有名なおひとり様グルメ漫画で読んだよ、私。
 キムは悪びれもせず「億劫な時はいつもここで晩ごはん」と言って、私を案内した。 

 本題の前にこれだけ言ってもいい? パエリアが世界でいちばん美味しいのはここ。「スペイン食堂涌井」です。ぜったい。スペインに行ってもここより美味しいところはないよ。え、で仕事帰りに晩飯が面倒になるとここで食べちゃうって言ってたやついたよね? なんなの? そもそもすごい立地なんですよ、ここ。城南の昔からある高級住宅街の中でさ。緩やかな上り坂のほとんどてっぺんにあるの。そこの優雅なスペイン料理屋を残業帰りのコンビニみたいに使うな。って薄給の委託秘書が勝手に思うわけ! どうせさ、私は講座の研究費から絞り出された人件費から頂戴する月給を糧にしているわけでもうこれ以上なにも望みませんって身分だけど、キムだってポスドクっていったら助教ですらないぎりぎりの正規雇用でしょ? あーむかつく。やっぱり坊だ、坊。で、またへんな語彙って笑われちゃうのね。
 茶請けの買い出しの時、私が彼をなんでそんなに狼狽させてしまったのかいっさい分からないけど、本心は、早く問題を解決していつもの仲に戻りたかった。私はパエリアを少し(と思ってたのに美味しすぎてかなり食べた)と白ワインをいただいて、本題を切り出さないキムを黙って待った。黙ってるだけで、けっこうガン見したけどね。キムはワインをひと口含むと、泣いているのをごまかすみたいに洟をすすった。
「僕の名前をどうして知ってるのか、聞いてもいい?」
「なんのこと?」
 思ってもみなかった問いに、へんな声が出た。
「前の苗字のこと」
「どういう、え、『キム』って名前なの?」
 彼は目を丸くして「知らなかったの」とつぶやいた。
「知らない知らない、前から私が幽谷くんのこと、心の中で勝手にキムって呼んでただけだもん」
「そうなの? キムとは?」
「キムワイプのキム」
「ぶっ、うそ」
「だって! あんなにいつも山の量をせっせと運んでるからさぁ……!」
 彼はちょっとだけ声を出して笑い、それから「ああそう」と言って、目尻に薄い涙を滲ませた。
 お店のママさんがきて、チーズケーキにはコーヒーでいい? と聞かれたので、迷った末に私は紅茶で、と答える。大皿からさらにパエリアを取り分け、ムール貝の殻を先に除けた。店内には親子連れもいたが、とても静かだった。たぶん、私とキムがいちばんうるさい客だと思う。
 なので、パエリアの咀嚼を終えて口が自由になったキムは、ここから先は静かに話すという意味で、眉をひそめて手のひらをテーブルに近づける仕草をした。こちらも反射で肩を縮めた。
「僕は、幽谷家の養子なんだ」
 ああ、よくある。医者と政治家はそういう家が多くない? まあ彼のところは実家が歯医者だけど。幽谷先生も後継ぎのつもりでしかるべき時に縁組したのだろう。まあそれで親とは別の学部に進学して今は解剖医やってるっていうのがちょっと変わった跡取りだけど。
「本当の親は、たぶんもう日本にいない」
 へえ、なるほど? 私の瞬きが止まった。なんだかちょっと事情が複雑。
「子どもの僕には知らなかったけど、持ち物の中にメモが残ってたみたいで、きっと彼らは……一時的な滞在者だったんだろうって言われてる。でもポストから養護施設に入ったから、詳細は分からない。今は本名が幽谷知浩だけど、はじめの六年間は、僕はキムだった」
 だから驚いたんだ、と言って、彼は視線を落とした。
 唐突な告白から改めてキムを観察したけれど、確かにコリアンルーツっぽい顔立ちだね、とかは思わなかった。タヌキ顔かキツネ顔かっていったらキツネっぽいとかそういうことかな。ちなみに私はがっつりタヌキ顔、っていうか縄文時代のヒトの再現イラストっぽい顔。キムが教えてくれた前の名前については、表面だけしか分かっていない私が言うのはおこがましいが、よくない思い出があって本人には楽ではない告白なのが伝わった。あんな往来で、顔面蒼白になるまで動揺するなんて、いったい何事かと思ったけど、こりゃ大事だよ。なるほど、軽々しく口外しちゃいけないということをじゅうぶん理解した。
 じゃあ、これから私の弱みを探し出して、脅して口封じするしかないよね。それか、こちらが眩んでぶっ倒れちゃいそうなくらいの口止め料を積んで、一生どこにも漏らさないように監視し続けるか。
 これがきっかけで、全身黒ずくめの長身美男に寝ても覚めても見張られてるなんてなんか素敵じゃん。これで当面は目の保養の供給は安泰だね。
 次の展開にわくわくしている私に、彼は少し戸惑っているようだった。
「えっと、なんで楽しそうなの?」
「え、ううん、べつに。ちなみにこのことを誰かに喋りたいなって思ってる顔ではないよ。そういう一時的なものに楽しみをおぼえる年は終わったんだわ」
 遠慮の一口として大皿に残った最後のパエリアは私が食べることになった。だって世界一美味しいんだもの。キムは数日おきに食べられるかもだけど、私は次がいつなのか分からないし。しっかり噛み締めよう。ああ、幸せだった。
「さすがだね」
「もう若くないし、ぼちぼち考えることもありますよ」
「じゃあ、僕からマミさんに頼みがある」
 食事が終わったのを見計らって、チーズケーキと紅茶が給仕された。キムの方は縁の分厚いカップで表面にぷつぷつ油が浮いている、普通に美味しそうなブラックコーヒーが置かれた。え、いいな、香りから誘われる感じ。それなら私もホットコーヒーにすれば良かった。
 ちょっと羨ましそうに見ているのがバレたのか、彼に「よければこちらもどうぞ」と持ち手をくるりと回して差し出された。妙なところ、軽いよね。それで代わりに、私から何を差し出させようとしてるの?
「僕と結婚してください」
「わーお、意外」
 思わず声が出た。あまりに正直な感想に、キムはまた頬に皺を作って笑った。しかも今度は「あはっ」て声まで出てた。
「なにそれ、案外子どもみたいだよね」
「僕はマミさんに同じことを思った」
 気障なご厚意に甘えてコーヒーを受け取り、彼に紅茶を恭しくお渡しした。元歯学部長のひとり息子は、私の手から紅茶のソーサーを受け取ると、それをすぐにテーブルに置いた。彼の手が私の手を包んだ。背が高いっていう印象よりも、じぶんと比べて長い指と大きな掌に驚いた。そして、白いな。血の気がないわけじゃないんだけど、芯が燃えている時の蝋燭みたいな色だなと思った。肌が透けて皮下の筋肉とか血管が見えそう。
「幽谷くん、あなたの名前、ほんとに似合ってるなって思ったの、はじめ」
「死人みたいな顔してるから?」
「死人、ではないと思う。 外に発するものが無くても綺麗なものってあるじゃない。静物、そう、静物みたいかな。キムワイプ運ぶ時、淡々と、ロボではないけどすごく綺麗に動いてるひとがいるって思ってた。すっきりしてていいじゃんって。だからキムって呼んだの。悪口じゃないことは言っておきたい。本当に」
「それは、ありがとう」
 ケーキを食べよう、と言ってキムの手を解いた。触っていた手を視覚で確認する時、じぶんの耳がすごく熱くなってるのに気づいた。美味しいご飯とワインに浮かれて調子乗りすぎよ、アサミアサミ。大した量も飲んでないのに、かなりお酒が回ってる。
「でもバレたくないだけで結婚、人生賭けすぎじゃない?」
 次に立ち上がる時に気をつけよう、と思いながら、膝に両手を並べて置いた。目の前のバスクチーズケーキはあたたかい色で私に微笑みかけているのに、なんでか私はまだそれに口をつけてない。なんのお仕置きなの、これ。食べるとキムの話を断る返事の代わりみたいになってる。そんなはずないのに! もう、食べますって言って食べていいかな。
「すごく正直なことを言うと、父が生きている間だけはどうにかしたい。そのあとはいいんだ。だから結婚も、そういう意味では有期契約でのお願いになります」
「結婚、契約なんだ」
「だって、マミさんは僕を犬みたいに可愛がりたそうではあるけど、好きってわけじゃないだろうし。なんというか、恋愛に理想があるのかなと思って」
 フォークはテーブルの左側に置かれていた。右利きの私が左手で食べても問題はない。そこまで不器用じゃない。でも分かった、もう食べたいなんて思わないから。早くこの話を終わらせよう。
「回答の猶予は?」
「『ごちそうさま』までには、お願い」
「じゃあ、ごちそうさま。いーよ、幽谷くんと結婚する」

《後略》


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
4月5日TAMAコミ開催情報のリンク貼っておきます。
おしながきなどのお知らせはもう少しお待ちください^^

サークルリスト▽

それではまた! 26

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