ベランダの横顔
細身で無口な君は、いつもベランダから外を見ていた。教室の後ろの左の隅っこ。やわらかな風が、白いカーテンをふわりと揺らす。カーテンの隙間からのぞく横顔が、時々憂いを帯びていたのを覚えている。
春になると、中学の旧校舎を思い出す。私たちが2年生まで過ごした旧校舎は、築何十年で古かったことや市の方針もあり、違う場所に建て替えられることが決まっていた。そのことを噂で知ったのは、2年に上がったばかりの頃だった。まだこの校舎に1年分しか思い出はないのだけれど、自分たち以外の、ここで何十年も積み重ねられてきたであろう当たり前の日常みたいなものが、突然ぷつっと終わりを迎える。そう思うと、何とも言えない寂しさがあった。
「ねぇ、いつもここから何を見てるの?」
つい声をかけてしまった。その日、いつにも増して君が気持ちよさそうにベランダにいたから。
「ん? 外、だけど」
キョトン、という漫画のオノマトペが聞こえてきそうな表情で振り向くものだから、なんだかおかしくて笑ってしまう。
「外の何を見てるのかなーって、思って」
「んー、何を見てる、か……」
手すりに片肘をついて考え込む君の横顔を、じっと見つめる。
「遠くの木とか、花とか、校庭で走ってる人とか…かな。あんま深く考えたことなかったわ」
長い前髪がサラリと揺れる。出席番号が後ろの私は、いつも君の背中ばかり見ていたから、こんな風にくしゃっと笑う人だなんて、知らなかった。
「今日は、すげぇあったかいしなー」
君はそう付け加えると、柔らかな陽射しを全身で浴びるように両手をあげてぐーっと伸びをした。その様子が、まるで陽だまりでごろんと寝そべる猫みたいに自由で、羨ましくなる。
「…いいなぁ」
心の中で呟いたはずが、つい声に出てしまった。
「ん? ごめん、聞き取れなかった」
「ううん。なんでもない!」
君はもう一度軽く伸びをしてから教室に入ってくると、突然私の髪をワシャワシャと撫で回した。
「じゃ、部活行ってくるわ」
そう言ってスクールバッグを引っかけたかと思えば、数秒後にはスタスタといなくなってしまった。この気まぐれさも、やっぱり猫みたいだ、と思った。
窓の隙間からこぼれる風が、教室の後ろに規則正しく並ぶ書道の半紙を捲る。希望という文字が、一斉に揺れる。上手く言えないけれど、この光景はなんだかとてつもなく尊いものに思えた。
部活が休みの日や、日直で最後まで教室に残る日は、私もひとりベランダに出ることが増えた。ここから外を眺めると、自然を全身で感じられてすごく心地が良い。それから、今まで気に留めていなかったような色々な音も聴こえてくる。
私が通っていた中学校は、お世辞にも都会とは言えないけれど、田舎と表現するのも少し違う、ちょうど良い場所にある。校庭の周りを囲む木々は、春の陽射しを浴びながら生命力を養い、雨の後には水滴を反射してキラキラと光って見えた。校舎の二階のベランダから校庭まではそれなりの距離があるのに、そよそよと葉擦れの音色が聞こえてくるのだから不思議だ。耳をすませば、遠くに鳥の声も聞こえる。何の鳥だろう。
校庭には、陸上部やテニス部、サッカー部、ソフトボール部、野球部らの声が響き渡る。吹奏楽部のトランペットもはっきり聞こえるから、今日は外練なのだろう。
私はバドミントン部でいつも体育館に篭っており、ランニングの時間以外はほとんど室内。シャトルが影響を受けないように、真夏でも窓とカーテンを締め切っているせいで、外の世界とは無縁な日々だ。練習が終われば外は暗くなっていて校庭の様子を見ることはなかったし、太陽や木々がこんなにも日々表情を変えているなんて知らなかった。
日直の仕事が終わり、早く部活に行かなければという思いと、もう少しここで外を眺めていたいという気持ちがせめぎ合い、いつも後者が少し勝る。校庭から聞こえてくる部活の音と、春から梅雨にかけての時期独特の、少しゆらいだ気温とにおいが入り混じる。もしかしてこれが青春か?なんて、ちょっと感傷的になってしまう。
「なに、見てんの?」
「わっ!」
誰もいないはずの教室で突然声をかけられたものだから、驚いて声が上擦ってしまった。君は自分の机の近くで、何やら探し物をしていた。
「ちょっと、忘れもんしちゃってさ」
「あっ、そうなんだ」
うん、という返事と、ガサゴソとプリントが擦れる音がやけに響く。
「こんな時間に、なんで残ってんの?」
「日直の仕事、今終わったの。これから部活行くとこ」
「そっか。日直だったな」
「うん」
教室で見る野球部のユニフォームは、ベランダから眺めるよりずっと泥だらけに見えた。靴下やスパイクまで真っ黒だ。そういえば、昨日の夜少しだけ雨が降ったっけ。
探し物はもう見つかったようで、君は額の汗を拭いながら、私の隣に立つ。
「結構いいでしょ? ここ」
「なんか、いいね。部活の声とか、木とか、風とか……」
「いろんな音が聞こえるんだよな」
「うん。ベランダに一歩出るだけで、こんなに感じるものが多いなんて、知らなかったな」
「だよなー」
「でも、この景色もあと1年で見られなくなっちゃうのは、ちょっと、寂しいかも」
突然恥ずかしいことを言ってしまった、と焦って君の横顔を覗くと、さっきのリラックスした表情のままで、少しホッとした。
「あと1年もないんだな」
「うん。3年になって新しい校舎にいるなんて、全然想像できない」
「だな。でもまぁ、1年後には色々変わってるんだろうな」
「変わる?」
「環境とか、クラスとか。それに、俺らも、みんなも、成長するだろ」
「そっか。でも、だからこそ…というか。変わらない場所があったらいいのに、って」
ベランダの手すりに身体を預けたまま、私たちはしばらく無言で校庭を見下ろしていた。さっきと同じ音が、風が、香りが、確かにここにあるのを感じた。
「もし、ここがなくなってもさ、」
君の声に反応して左を振り向くと、ぱちりと目が合う。
「そん時は、新しい場所を探せばいいじゃん。ここより良い場所があるだろ。きっと!」
真っ直ぐすぎて眩しい言葉は、揺らいでいた心をふわりと包み込んでくれるようで、何だかくすぐったい。
君は頬に流れる汗をユニフォームの裾で拭うと、猫みたいな目で笑いながらでこう続けた。
「休憩終わり。ほら、ぼけっとしてないで、部活行くぞ」
「あっ…うん!」
2人で手分けしてベランダと窓の鍵をささっと閉め、教室を出る。
「それじゃ」
「うん。じゃあね」
どちらからともなく手を振る。私は体育館に、君は校庭へ。別々の方向に進んでも寂しくなかったのは、明日も会えるとわかっていたからだ。
さっきまでのセンチメンタルな心は、どこか晴れやかな気持ちで上書きされていた。
桜の蕾が膨らみ始める少し前、新しい校舎が完成した。旧校舎は、新校舎への移転が終わったあと、すぐに取り壊されてしまうという。それもあってか、急遽春休みの間に1日だけ解放され、学校中の壁に自由に落書きをして良いという日が設けられた。
私は友達と一緒に、マーカーを数本持って校舎の中をひとつずつ回った。美術室、音楽室、体育館、別館、廊下。ここでこんなことあったよね、この授業が楽しかった、なんて話しながら校舎を周るだけでも楽しかったけれど、白かったはずの壁にカラフルな色で文字やイラストがびっしり書かれていたのには驚いた。自分や友達の名前、将来の目標、似顔絵、好きな人への告白や先生へのメッセージ……あまりにたくさんの想いが溢れていて圧倒されてしまい、優柔不断な私はどこに何を書いて良いかわからず、結局何もせずに校舎を回り切ってしまった。
「あっという間に回っちゃったね」
「うん。なんだか急に寂しくなってきちゃった。先生に会いに行ってこようかな。りりはどうする?」
「私もちょっと行きたいとこあるから、行ってきていい?」
「わかった。じゃ、終わったらまた集合しよ!」
友達と下駄箱で別れ、私は2年の教室へ向かった。
教室の後ろの左の隅っこ。ついこの間までここで揺らめいていたはずの白いカーテンは、既に取り外されてしまっていた。その代わり、窓の外には空が大きなパノラマのキャンバスみたいに広がっていて、気づけば私はその青に吸い込まれるようにベランダへ出ていた。
両手を広げて、大きく伸びをする。胸いっぱいに、息を吸う。目を閉じて、香りを感じる。やっぱり、ここはとても心地がいい。けれど、一年前のあの頃とは、何だか少し違う気がした。校庭から、部活の音は聞こえない。葉擦れの音も、吹奏楽の音も、鳥の声も、聞こえない。同じ場所にいるのに、自分もまるで違う人になってしまったような、不思議な感覚。時間が経つと、自分も環境も、感じるものも変わってしまうのかも、と思うと少し寂しくなる。
机や黒板、後ろの壁まで、隙間がないほどびっしりとメッセージが書かれた教室とは対照的に、ベランダにはまだ誰もメッセージを残していないようだった。私は手すりの内側の泥を親指でぐいっと拭い、空色のポスカで「私はこの景色を忘れない。」と書き記した。
微かに梅の香を纏った3月の風が、ぶわりと吹き抜けた。
カラカラ、と教室の扉が開く音がした。
「なに、見てんの?」
振り返ると、猫目の君が笑っていた。
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