ミルクコーヒーとクロワッサン
パン屋の朝は早い。
朝5時に起床。
30分で準備をし、軽くメイクをして家を出る。
「おはようございます!」
「おはよう〜」
「今日もよろしくね」
「お願いしまーす」
先に仕込みを始めているベイク担当のスタッフと店長に挨拶し、ロッカーの鍵を受け取る。白いブラウスにブラウンの制服とネクタイ、髪の毛を縛った上に帽子をすぽっと被り、名札をつける。爪の先まで丁寧に手を洗ったら、準備完了。
連絡事項が書かれたボードを見ると、かぼちゃやさつまいも、栗など、秋の食材をふんだんに使ったパンの写真がずらりと並んでいた。
「新作、全部おいしそうですね」
「今年の秋は、自信作が多いよ。朝から出ないパンもあるけど、1つずつ覚えてね」
「わかりました!」
私がアルバイトを始めた頃の店長は言葉遣いがやわらかく、まさに“パン屋の店長”というイメージにぴったりな男性だった。初心者の私にも優しく、1つ1つの仕事を丁寧に教えてくれた。朝の時間帯は他にもベテランスタッフが多く、頼もしかったのを覚えている。
濃厚なバターの香り。
規則正しく並ぶ焼きたてのパン。
キリッと香るコーヒー。
リラックスできる音楽。
オレンジのあたたかな照明。
時間がゆったりと流れるパン屋さんの雰囲気が、幼い頃から好きだった。
私が働いていたパン屋は、店内に20席ほどの小さなイートインスペースがある、いわゆるカフェベーカリーだった。パンだけでなく、ドリンクの提供も行う。コーヒーマシンやドリンクの仕込みがあるため、朝番は少し忙しい。ホットコーヒー用とアイスコーヒー用の豆が違うということすら知らなかった私にとって、どの作業も新鮮で面白かった。
初めは、パンの種類と名前を覚えるのに苦労した。バゲットやメロンパンなど、一般的なパンの名前はわかるものの、総菜パンや創作パンは、レジで瞬時に名前を判断できるようになるまで時間がかかった。
アルバイト初日は、店長から白い紙とペンを渡され、陳列されたパンとその名前をひたすら書き込んだ。アルバイトが終わった後も頭の中でイメージしながら、テスト勉強のように暗記をする。定番商品と売れ筋を覚えれば、あとは定期的に入れ替わる季節パンをその都度覚えれば良いので、最初さえ乗り越えればあとはそこまで難しくない。
朝は、つくりたてのバーガーセットやサンドウィッチ、ホットドッグ、それからトーストセットの注文も多かった。しばらくして、授業の都合でアルバイトに入るのが夜の時間帯だけになってからわかったことだが、セットメニューは朝の時間帯の方が圧倒的に多く出る。サンドイッチやホットドッグは、調理スタッフがいる夕方までしか作れないため、夜は売り切れのことも多いのだ。
「あと3分で開店です。シャッター開けます」
店長の声を合図に、私たちは制服の襟を正し、背筋をピンと伸ばす。
「今日もよろしくお願いします」
「お願いしまーす!」
朝7時、オープン。
お店は駅ナカにあるので、通勤通学する人たちの後ろ姿を見ながらゆったりとスタートを切る。その日は、クロワッサンを3個以上購入するとお得になるフェアが始まったばかりで、いつも以上にクロワッサンが売れた。
濃厚な発酵バターの香りは、贅沢な朝の香りそのものだなあと感じる。銀のトレイにのった三日月のそれらは、朝の時間とは思えないほど、飛ぶように売れていった。
「店長、今日はクロワッサンがよく出ますね」
「うん。先にポスターを出しておいてよかった。これから総菜パンの仕込みに入るから、ちょっと裏に入るよ。表はまかせるね」
「わかりました!」
パンの名前やセットメニューにドリンク、清掃作業。一通りの作業を覚え、少しずつ慣れてきたとはいえ、まだアルバイトを始めて数ヶ月だ。不安はあったものの、難しい作業はないので問題ないだろうと思っていた。
「すみません。こちらのパン屋さんは、店内で食べられますか?」
声をかけてくれたのは、深いブルーのジャケットを羽織った、ご年配の男性だ。
「はい、可能です。今は比較的空いていますので、すぐにご案内できます」
「ありがとう。それじゃ、パンを選んできますね」
「はい。ごゆっくりお選びください」
「ご丁寧に、ありがとう」
年齢はうちの祖父と変わらないくらいに見えるが、ピシッとしたジャケットと黒い大きなバッグを抱えている姿は、バリバリ現役の仕事人に見える。棚に並べられたパンをひとつひとつ見ながら嬉しそうに微笑む様子を見ていると、こちらまで心がほっこりする。この人はきっとパンが好きなんだなと、ひと目でわかる。
「すみません、お嬢さん。このお店のおすすめを教えてください」
「はい! お店が初めてでしたら、クロワッサンがおすすめです。今ちょうどフェアをやっていて、3個以上購入するとお得になります。が、おひとりで3個は……ちょっと難しいですよね」
「ははっ。1人で3個は、ちょっとわんぱくですねぇ」
「失礼いたしました。セットメニューですと、つくりたてのサンドイッチやホットドッグのセットもおすすめですよ」
「お、それはいいですね。それでは、サンドイッチセットをお願いします」
「承知いたしました。ドリンクメニューは、こちらにございます」
「わかりました。ありがとう」
若者の私に、こんなにきれいな言葉を使ってくださるお客様がいるんだ、と驚いたのを覚えている。トレーとトングを受け取ると、もう一度、ありがとうと言われた。
「ちょっと質問があるんですが、」
「はい。なんでしょう?」
「ミルクコーヒーを頼みたいのだけれど、メニューにありますか?」
ミルクコーヒー、という言葉を、この時初めて聞いた。アメリカンコーヒー、ブレンドコーヒー、エスプレッソ。ミルクを使ったコーヒーメニューだと、カフェラテ、カフェオレ、カプチーノしかない。名前からして、ミルクを使ったコーヒーであることは確かなのだろうけれど、どんなメニューか確信が持てなかった。
「ごめんなさい。私、まだコーヒーの知識が浅くて。詳しいスタッフに確認してきてもよろしいでしょうか?」
「いえ、面倒な質問をしてしまってごめんなさい。では、コーヒーにミルクが入ったものはあるでしょうか?」
「コーヒーにミルクを合わせたメニューですと、カフェオレがございます。いかがでしょうか?」
「では、あたたかいそちらと、サンドウィッチのセットをお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
私は、自分の知識の浅さに申し訳ないと思う気持ちと、一方で奥で忙しそうに動いているスタッフたちに声をかけるのが難しそうな状況もあり、内心少しほっとしていた。お代を受け取り、お皿に作りたてのサンドウィッチを乗せ、ホットカフェオレとお手拭きを準備する。
「お待たせいたしました。もしよろしければ、お席までお持ちします」
「ありがとう。では、お願いします」
男性は、外が良く見える窓際のカウンター席に腰かけると、にっこりと笑い、どうもありがとう、ともう一度声をかけてくれた。
「それでは、ごゆっくりお過ごしください」
時計を見ると、8時を回っていた。
駅構内には足早に歩く人たちが増え、店内も混み始めていた。奥からは、「クロワッサン、焼きたてでーす」と、ベイク担当のスタッフの声が聞こえる。朝よりも濃厚なバターの香りをふわりと感じ、男性にもやっぱりクロワッサンをすすめればよかったかな、と少し後悔する。そう思ったのも束の間、テイクアウト用レジの列が更に混み始め、私はひたすらレジ打ちと品出しに没頭した。
その日のアルバイトを終えたのは、11時。
昼のピークを迎える少し前に主婦さんとバトンタッチし、大学へ向かう。
電車の中で、「ミルクコーヒー」について調べてみた。
カフェオレはドリップコーヒーとミルクの割合が1:1なのに対し、ミルクコーヒーはミルクの割合の方が多いことがわかった。あまり割合に決まりはないようだ。いわゆるコーヒー牛乳のようなものだろうか。さらに色々なカフェメニューを調べてみると、昔ながらの喫茶店では「ミルクコーヒー」として今も提供されているらしい。
あの男性が、もしミルク感の強いドリンクを希望していたのだとしたら、別案としてミルクティーやホットミルクの提案も良かったのだろうか。エスプレッソではあるが、ミルクの割合が多いカフェラテという提案もあったかもしれない。
正直、コーヒーよりもパンへの興味の方が強く、コーヒーメニューの違いについて考えたことは今までなかった。コーヒー好きな人にとっては当たり前なのだろうが、調べれば調べるほど奥深い世界であることがわかった。もこもこしたフォームミルクが乗ったカプチーノは、マイルドな見た目だが、カフェラテより苦さが強いようだ。そこにチョコレートソースを加えると、カフェモカになるらしい。
そのあと大学についてからも、気がつけば休み時間のほとんどを、コーヒーについて調べる時間に充てていた。
それから、私はもう1つのアルバイトと大学の試験に追われ、次にパン屋のアルバイトに入れたのが2週間後になってしまった。フェアで忙しい時期にシフトに入れなかったことを店長に謝ると「試験お疲れさま。今日からまた別のフェアが始まるから、頼りにしているよ」と、相変わらず優しい言葉をかけてくれた。
2週間ぶりの朝バイト。早起きは少し大変だけれど、この発酵バターの香りを嗅ぐと、そんなこと一瞬で忘れてしまうくらい幸せな気持ちになれる。
前日にコーヒー豆の納品があったようで、山になったそれらをストック倉庫に整理しながら、2週間前よりもその豆たちに愛着が湧いていることに気づき、我ながら笑ってしまう。店長から渡された新メニューのレシピ表を見ると、先週からマロンラテが始まっていた。マロンシロップを入れたカップにカフェラテを抽出し、ホイップクリームにマロンソースをトッピングするレシピ。これは絶対においしいに違いない。今日は定番パンのほか、朝から秋の新作パンも多めに並べるらしい。ベイク担当のスタッフに焼く前の生地を見せてもらいながら、レジのボタンの位置と色をさっと覚える。
午前7時。今日もパン屋の1日が始まった。
この日は朝から駅構内の人が多く、昼ご飯用だろうか、テイクアウト利用が多かった。レジ打ちをしながら、食パンをスライサーで8枚切りと6枚切りに切り分ける。トーストセット用に厚めにスライスした食パンは、別の場所に分けておく。焼きたてのパンたちは丁寧に袋に入れるが封はせず、ステッカーと成分表示シールを貼る。カウンター内では、セットメニューのサンドウィッチやホットドッグの仕込みを進め、コーヒーのストックを作る。
そんな風にバタバタと過ごしていたら、後ろから、ふと声をかけられた。
「お嬢さん、おはようございます。今日も、良い朝ですね」
声だけですぐにわかった。あの時の男性だった。
「おはようございます! あっ、あの……」
急なことで、つい慌ててしまった。男性は少し首をかしげながらも、言葉の続きを待ってくれている。
「私、謝らないとって思っていて……」
「謝る?」
「先日いらっしゃった時に、ミルクコーヒーについてよく知らずに、曖昧なご案内をしてしまったこと、大変申し訳ございませんでした」
男性は、驚いた表情で手を左右に振りながら、とんでもない、という様子だった。
「私、帰ってからたくさん調べました。あいにく、ミルクコーヒーと同じメニューは当店にご用意がないのですが、メニューについて以前より詳しくご案内できると思います」
「私の方こそ、メニューにないものを注文してしまって申し訳なかった。あの後、忙しそうで帰り際に声をかけられなかったんですが、あのコーヒー、とてもおいしかったです」
その言葉を聞いて、ずっと心にひっかかっていた小さなしこりのようなものが、少しずつ溶けていくような気がした。
「そう言っていただけて、ほっとしました。秋メニューも始まったので、もしよかったら紹介させてください」
「ありがとう。ぜひ、お願いします」
その時間はちょうどお客様が少なかったこともあり、並べられたパンを見ながら、秋の新商品を中心に、定番メニューやドリンクメニューについて説明した。男性は、どうしようかなぁと数分悩んでいたけれど、これにしますと選んでくれたのは、クロワッサンとなると金時パン、カフェラテだった。
「お嬢さんと話していると、全部食べてみたくなります」
「ありがとうございます。良かったら、また感想を教えてくださいね」
「わかりました」
男性は、嬉しそうに微笑むと、前回と同じ窓際のカウンター席に着席した。
「では、ごゆっくりお過ごしください」
私は小さくお辞儀をして、レジカウンターに戻った。
そのあと、8時過ぎの時間は再びテイクアウト利用が立て込み、食パンのスライス作業とバゲットの袋の準備、品出しにレジ打ちと、いつも以上に忙しなく動き回っていた。この日は朝のサンドイッチセットが8時半に売り切れてしまい、外のポスターをはがそうと店の外に出たのと同じタイミングで、男性が声をかけてくれた。
「なると金時パン、絶品でした。クロワッサンも、バターの風味が素晴らしかった。カフェラテはミルクの風味が強く、カフェオレと甲乙つけがたいくらいでした。お嬢さんのおすすめは、間違いないですね」
嬉しそうに一気に話す男性を見ていると、自然と笑みがこぼれてしまう。
「そのお言葉だけで、今日も頑張れます。もしよろしければ、またお立ち寄りください」
「ありがとう。また来ます。お嬢さんも、良い一日を」
「はい!」
私はシャンと背を伸ばし、深いブルージャケットの背に向かって、ありがとうございます、と深くお辞儀をした。
濃厚なバターの香り。
規則正しく並ぶ焼きたてのパン。
キリッと香るコーヒー。
リラックスできる音楽。
オレンジのあたたかな照明。
そこに、さらに”優しいお客様”という、私がパン屋さんを好きな理由がひとつ加わった瞬間だった。
「クロワッサンとブリオッシュ、焼きたてでーす」奥から聞こえるスタッフの言葉を受けて、お店の外で私も呼びかける。
「発酵バターのクロワッサンとふわふわのブリオッシュ、焼きたてでーす!」
手元のスマホからふと顔を上げたサラリーマンや学生たちと、ぱちりと目が合う。少しだけ緩んだ表情で、店内にひとりふたり、と入ってくる。
今日も、しあわせな1日になりそうだ。
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