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「日本保守党」の熱狂に潜む「日本教」の正体――飯山陽氏への豹変が映し出す、我々の「不都合な多様性」

1.羽田空港の「出待ち」という異様な予兆

2026年1月6日、飯山陽氏は自身のYouTubeライブにおいて、ある不可解で、かつ「恐ろしい」体験を回想した。

一昨年、日本保守党(以下、ニチホ)から衆院補選に出馬した彼女が、熊本での講演を終えて羽田空港に降り立った時のことだ。そこには「ニチホ」の熱烈な支持者たちが待ち構えていた。彼らは飯山氏を見つけるやいなや、「どこへ行くの?」「車で送っていくよ!」としつこく言い寄り、彼女を付きまとったという。

飯山氏は、いつものように公共交通機関を使いたいと願ったが、あまりの執拗さに身の危険を感じ、空港内に一時間も身を隠さざるを得なかった。「あの時、彼らの『やばさ』を知った」と彼女は語る。

しかし、この物語にはさらなる続きがある。かつて、親愛を込めて(あるいはストーカーのように)彼女を追い回した同じ人々が、今やネット上で言葉の限りを尽くし、彼女を攻撃しているのだ。飯山氏が、国政政党となったニチホの言動に対し、公党としての正当性を問う批判を行った途端、彼らは一斉に掌を返した。

愛から憎悪へ。この極端な振れ幅の正体は何なのか。


2.山本七平が喝破した「日本教」という血縁社会

このエピソードを聞いて、私は戦後日本最大の思想家の一人、山本七平と小室直樹の対談『日本教の社会学』の結びを思い出さずにはいられなかった。

「行動の基準はまさに心情、その規範が維新の志士的で、目ざすものが、すべてを血縁のごとく見なす、いわば擬制の血縁集団であれというなら、契約も組織も何もなくなって、一種、家族的空気の支配する社会が理想ということになってしまうでしょう。これは、簡単にいえば、日本教的世界を完成せよということになります」

山本七平の言う「日本教」とは、教典や神がいる宗教ではない。日本人が無意識に従っている「空気」や「心情」を規範とする共同体原理のことだ。そこでの理想は、血の繋がりを超えた「疑似的な家族」になることである。

ニチホの支持者たちが羽田で飯山氏を「出待ち」し、「車に乗せていくよ」と迫った時、彼らの脳内では何が起きていたのか。それは、自分たちが支持する政治家を「公人」としてではなく、自分たちの「身内」、あるいは「家族の一員」として所有していたのではないか。

父親が娘を迎えに行くような、あるいは兄が妹を気遣うような、歪んだ「親愛」。そこには他者としての敬意や適度な距離感はない。あるのは「身内だから何をしても許される」「身内だから境界線は不要だ」という、日本教特有の「甘え」である。


3.「村八分」という名の骨肉の争い

しかし、この「日本教的家族」は、一度でも身内のルール(空気)を乱す者に対して、世界で最も残酷な集団へと変貌する。

飯山氏が公党としてのニチホを批判した瞬間、彼らにとって彼女は「愛すべき家族」から「家名を汚した裏切り者」へと転落した。日本教の世界に「論理的な批判」という概念は存在しない。あるのは「味方か、敵か」「身内か、身外か」という二分法だけだ。

かつての過剰なまでの親愛は、そのまま同量の憎悪へと反転する。これを「村八分」と呼ぶ。 彼らが執拗にネットで彼女を攻撃するのは、それが「正義」だからではない。一度は「身内」と認めた存在が自分たちの心地よい空気を壊したことに対する、原始的な報復感情なのだ。彼らが自ら名乗り、顔を晒してまで近づいてきたのは、まさに「身内感」の証左であり、だからこそ裏切られた(と彼らが感じる)時の攻撃性は、骨肉の争いのごとく苛烈を極めるのである。


4.「男装の麗人」と日本の多様性のカラクリ

ライブの後半、飯山氏は自民党の小野田 紀美氏が燕尾服(男装)で伊勢神宮を参拝したことに触れ、「日本は古来、多様性に寛容だ」と述べた。男性が女装し、女性が男装することに対し、日本社会はイスラム圏などの一神教の世界と比較して、驚くほど大らかであるという。

ここで私たちは、ある重要な事実に気づく。なぜ日本は多様性に寛容なのか? それは、私たちが「進歩的なリベラル精神」を持っているからではない。これもまた「日本教」のなせる業ではないか。

イスラム教やキリスト教の世界では、創造主である神が定めた「摂理(オーダー)」が絶対である。男は男らしく、女は女らしくあることが神との契約であり、それを乱す多様性は「神への反逆」とみなされる。

一方、日本教には絶対的な神がいない。あるのは「身内」という境界線だけだ。 「身内」であり、仲間であると認められてさえいれば、その人間が男装しようが女装しようが、あるいは白を黒と言い張ろうが、「まあ、あいつはああいう奴だから」で済まされてしまう。この「甘さ」こそが、日本における多様性の正体なのだ。


5.結論:私たちは「身外」の多様性を愛せるか

しかし、この日本教的多様性には致命的な欠陥がある。 それは、「身内ではない者」や「村を追い出された者」に対しては、一切の多様性も、寛容さも、人権すらも認められないということだ。

身内であるうちは「甘え」として許容されていた個性が、一歩外へ放り出された瞬間、徹底的に叩き潰すべき「異物」へと変わる。ニチホの支持者が飯山氏に見せている姿は、まさにこの「多様性の剥奪」の瞬間である。

私たちは自問しなければならない。 私たちが誇る「日本の寛容さ」とは、単に身内同士で傷を舐め合っているだけの「馴れ合い」ではないのか。自分たちの空気(教義)に従わない者を、瞬時に非人間化して攻撃する不寛容さと背中合わせの、偽りの多様性ではないのか。

「日本教」という閉ざされた村の中に安住し、都合のいい家族ごっこを繰り返す限り、私たちは本当の意味での「公(パブリック)」を持つことはできない。飯山陽氏が直面している「怖さ」は、特定の政党支持者の特異な行動ではなく、私たち日本人の根底に流れる、血を分けた「不寛容な優しさ」の現れなのである。

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