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核議論のタブーと「百田組」の熱狂に潜むもの——なぜ日本人は「言葉」と「人格」を切り離せないのか❓

はじめに:議論を阻む「見えない壁」の正体

先日、イスラム思想研究者の飯山陽氏がYouTubeライブで行った配信を視聴し、私はある「問い」を抱くようになった。彼女が論じていたのは、現代日本における言論空間の歪みである。その配信をきっかけに私の思考が向かったのは、日本人が古来より抱え続けている**「言霊(ことだま)という呪縛、そして「言葉と人格の未分化」**という根深い病理についてであった。

なぜ、この国では特定の議論が「不謹慎」の一言で封殺されるのか。なぜ、正当な事実の指摘が「誹謗中傷」へとすり替えられてしまうのか。

本稿では、国家安保の根幹である「核兵器保有議論」のタブーから、現在ネットを騒がせている「百田組」界隈の対立に至るまで、共通して横たわる日本人的な「非言論性」の正体を、社会学的な視点から解き明かしてみたい。

1.「核議論」を圧殺する「非核五原則」という空気

先日、官邸筋による核保有検討の「個人的見解」がメディアで報じられた際、地上波メディアの反応は凄まじいものがあった。「戦後日本の歩みを否定するのか」「唯一の被爆国としての倫理を忘れたのか」……。そこにあったのは、冷徹な安全保障上のシミュレーションではなく、聖域を汚した者への猛烈な「宗教的断罪」であった。

日本には「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則がある。しかし、実態としての日本社会を支配しているのは、そこに**「語らせず・論じさせず、考えさせず」を付け加えた、いわば「非核五原則」**とも呼ぶべき同調圧力ではないだろうか。

この「議論すること自体が悪である」という風潮は、SNSのコメント欄に溢れる「議論の必要性」を説くリアリストたちの声とはあまりにも乖離している。この乖離を生んでいる正体こそが、日本人の精神構造に深く根を張る「言霊思想」である。

2.「言霊」が支配する、日本教という名の深層心理

かつて社会学者の小室直樹氏や山本七平氏は、日本には「日本教」という無意識の宗教が根付いていると指摘した。その教義の中核にあるのが言霊だ。

西洋的な近代的知性において、言葉(ロゴス)は現実を分析し、操作するための「道具」である。しかし、言霊思想における言葉は、現実そのものを引き寄せる「呪術」となる。

  • 「核」と口にすれば、核戦争が起きてしまう。

  • 「平和」と唱えれば、平和が維持される。

この呪術的思考の最たる例が、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の発信に見られる。彼らは「日本は唯一の被爆国だから、核を持ってはならない」と主張する。その心情には最大限の敬意を払いつつも、論理的に考えれば一つの違和感に突き当たる。

本来、核廃絶の「主語」になるべきは、今まさに核を保有し、軍拡を進める米国やロシア、中国ではないのか。 「日本が核について語ることをやめれば、世界から核が消える」という発想は、まさに言霊のたまものである。「自分が汚らわしい言葉(核)を口にしなければ、現実の汚れ(核兵器)も消滅する」という、あまりにも内向的で主観的な思考停止がそこにある。

3.小室直樹が説いた「言葉」と「人格」の分離

ここで、小室直樹氏がかつて強調した重要な概念を引きたい。 彼は、**「『お前は嘘つきだ』と言うことと、『お前の言ったことは事実と違う』と言うことは、似て非なるものである」**と説いた。

「お前は嘘つきだ」〜人格呪い・誹謗中傷・言霊的攻撃
「お前の言ったことは違う」〜情報客観的指摘・論理的検証

近代的な民主主義社会においては、後者の「情報の検証」が不可欠である。どれほど偉い権力者であっても、その発言に矛盾があれば指摘される。それは人格の否定ではない。

しかし、日本人の多くは、この二つを混同する。言葉と人格が未分化なため、自分の発言への批判を、自分という人間そのものへの攻撃(呪い)として受信してしまうのだ。この「人格と言葉の癒着」が、現在のネット上の対立、とりわけ「百田組」界隈の騒動に鮮明に現れている。

4.「百田組」界隈に見る、言霊の亡霊たち

作家・百田尚樹氏を支持する「百田組」と呼ばれる方々と、彼らの矛盾を指摘する飯山陽氏との間には、決定的な「言語の断絶」がある。

飯山氏は、イスラム思想史を専門とする学者である。学者の職能とは、文献を精査し、文脈(コンテクスト)を読み解き、論理の整合性を検証することだ。彼女は常に具体的で客観的な事実を突きつける。 「以前、あなたはこう言いました。しかし、今の行動はそれと矛盾していませんか?」 「この資料に基づけば、その主張は成り立ちません」

これはまさに、小室氏の言う「お前の言ったことは違う」という情報へのアクセスである。

ところが、百田氏を熱烈に支持し、言霊の森に住む人々にとって、これは「教祖への人格攻撃」として変換される。彼らにとって、百田氏の発する言葉は単なる情報ではなく、彼の人格そのものと一体化した「信じるべき言霊」だからだ。 したがって、論理的な矛盾の指摘は、彼らの耳には「お前たちのリーダーは悪人だ」という誹謗中傷として届く。

結果として、事実に基づいた反論はなされず、「恩知らず」「裏切り者」「言葉がキツい」といった、論理とは無関係な感情論・情緒論ばかりが飛び交うことになる。これこそが、日本人が抱える「非言論性」の悲劇的な顕現である。

5.「亡霊」を解き放ち、近代的な言論へ

核保有の議論を「不謹慎だ」と封じるオールドメディアの姿勢と、お気に入りのインフルエンサーへの指摘を「誹謗中傷だ」と憤るネット住民の姿勢。対象こそ違えど、その根底にあるのは、言葉を客観的な道具として扱えない言霊である。

私たちは、いつまでこの「言霊」という亡霊に怯え続けるのだろうか。 核を議論することは、平和を捨てることではない。 リーダーの矛盾を指摘することは、その人物を抹殺することではない。

むしろ、言葉を人格から切り離し、冷静にその内容を解剖することこそが、私たちが「情緒の奴隷」から脱し、真の「近代市民」へと脱皮するための唯一の道である。

おわりに:真の対話への一歩

百田組界隈の熱狂と混迷は、決して対岸の火事ではない。それは、私たち日本人が「議論」という名の知的な営みを、いかに情緒や言霊によって濁らせてきたかを示す鏡である。

言霊の呪縛を解き、ロゴス(論理)の光の下で、あらゆるタブーをテーブルに乗せること。 主語を明確にし、事実に対してのみ反論を行うこと。 この当たり前のことが当たり前に行われるようになった時、日本の言論空間は初めて、本当の意味で呼吸を始めるのではないだろうか。

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