琥珀糖の処方箋(『茶房ココノカ』)
都会の騒がしさを、誰かが大きな消しゴムで消してしまったかのような、静かな路地裏。
そこにある「茶房ココノカ」の手焼き扉を押し開けると、カランコロンと、乾いた音の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、店主のココノカさんが顔を上げた。
吸い込まれそうな瞳が、夕暮れの時の光を反射して、とろりとした飴色に透き通っている。
二十七歳の吉田華子は、カウンターの端の席に腰を下ろした。
履き慣れた綾織のデニムパンツの膝をさする。
大学病院で週六日勤務。
新米内科医としての毎日は、白衣に染み付いた消毒液の匂い。
終わりなき緊張感。
この二つに埋め尽くされている。
「お疲れ様です、華子さん。今日は少し、お顔が曇っていますね」
ココノカさんが、温かい緑茶と和菓子を差し出しながら微笑んだ。
その優しさに、ふわりと顔を出した。
華子の胸の奥にある、ずっと蓋をしていた「かつての自分」が。
幼い頃の華子は、教室で一度も手を挙げられないほど内気な少女だった。
心の中では「芸能人になりたい」という鮮やかな夢が鳴り響いていた。
けれど、それを言葉にする勇気なんて、どこにもなかった。
中学生になり、鏡の中の自分と向き合う時間が増えた。
ファッション誌のページをめくる指先だけが、外の世界とつながる鍵だった。
高校生になれば、その熱は「モデルになりたい」という爆発寸前の願いに変わる。
けれど、ここは医師の家系だ。
父との喧嘩は、数えれば五十回を超えただろう。
「お前に何ができる。医師として生きるのが、お前にとって正解だ」
父の言葉を飲み込むように始めた受験勉強。
けれど、机の上で広げるのは参考書ではなく、いつだって最新のファッション雑誌だった。
当然のように訪れた、浪人生活。
そんなある日、テレビの画面越しに出会った一人の医師が、彼女の運命を静かに変えた。
その人は、一人の患者の歩幅に合わせ、根気強く、ただ隣を伴走していた。
決められたレールを走るだけだと思っていた「医師」という仕事。
誰かの人生に寄り添ってて、泥臭い。
けれど、何よりも美しい「表現」に見えた瞬間だつた。
「……私、あの時初めて、本気で誰かになりたいって思ったんです」
華子は、飴色の瞳を見つめながらポツリと漏らした。
一日十五時間の猛勉強。
2018年、東京の医大への進学。
夢を叶えて医師になった今も、華子はまだ、密かに「ミス日本」のオーディションを受け続けては、落選の通知を受け取っている。
「先生という仕事も大切。でも、あの頃の私が欲しがっていた『光』も、まだ諦めきれなくて」
ココノカさんは、華子の手元に小さな琥珀糖を置いた。
「華子さん。お医者様が患者さんに寄り添うのは、相手の『色』を見ようとすることでしょう? あなたはモデルの夢見て、自分を磨き続けてきた感性は、きっと誰かに痛みを察する力に変わっているはずですよ」
華子は、キラキラと光る琥珀糖を口に含んだ。
内気だった少女も、父と戦った高校生も、そして今、白衣の下にデニムを忍ばせて戦う新米医師も、全部つながっている。
「どんなに落ちても、それは『なし』っていう意味じゃないんです。今のあなたに、新しい色が加わっている最中なだけ」
店を出ると、路地裏に夜の帳が下りていた。
明日もまた、週六日の勤務が始まる。
けれど、華子の足取りは軽かった。
デニムパンツの擦れる音が、新しい季節を刻むリズムのように、静かな路地裏に響いていた。
完
