尻尾がゆれる家で
その家には、一人の青年と一匹の大きなトラ猫が住んでいました。
青年の名前はハルさん。猫の名前は「おはぎ」。
おはぎは、この家の主のような顔をして、一番日当たりの良いクッションを陣取っています。
「おはぎ、聞いてくれよ。今日、大事な会議でプレゼンしたんだけどさ、緊張して噛みまくっちゃって……」
ハルさんは仕事帰りのどんよりした気持ちを抱え、床に寝そべるおはぎの隣に座り込みました。
おはぎは、ハルさんの深刻な悩みなどどこ吹く風。
「ふぁ〜あ」と大きなあくびして、前足で顔を洗うのに忙しそうです。
「……それでさ、部長がすっごい怖い顔で僕を見てたんだ。もう明日会社行くのが怖くて……」
ハルさんが一生懸命に落ち込んでいると、おはぎが不意に立ち上がり、ハルさんの膝に「ドスン」と飛び乗ってきました。
そして、喉をゴロゴロと鳴らしながら、ハルさんの顎をザリザリした舌でひと舐め。
「……痛いよ、おはぎ。でも、ありがとう」
ハルさんは、おはぎの温かくて少し重たい体温を感じながら、その柔らかい毛に顔を埋めました。
お日様の匂いと、少しだけホコリっぽい、安心する香りが鼻をくすぐります。
五分後。
おはぎが膝から飛び降りて、空っぽの餌皿を「カラカラ」と音を立てて鳴らしました。
「あ、ごめんごめん。今すぐご飯にするね」
ハルさんは立ち上がり、キッチンへ向かいました。
冷蔵庫を開けようとした時、ふと立ち止まって首をかしげます。
「……あれ? 僕、さっきまで何をそんなに悩んでたっけ?」
振り返ると、おはぎは「早くしろ」と言わんばかりに、尻尾でトントンと床を叩いてます。
その無邪気な姿を見ていると、プレゼンの失敗も、部長の怖い顔も、なんだか宇宙の彼方の出来事のように思えてくるのでした。
「ま、いっか。おはぎが元気なら、それで。……で、僕、なんの話をしてたっけ?」
ハルさんが笑うと、おはぎは「にゃーん(なんのはなしです家?)」と短く鳴いて、嬉しそうにカリカリを頬張り始めました。
悩みを食べ、今を愛でる。
猫と暮らすこの家では、昨日までの後悔は、いつの間にか窓の外に溶けて消えてしまうのでした。
完
