画廊に行くようになって気がついたこと その71
言葉というのは、論理的に扱えば扱うほど不便になるもので、言葉が指し示すものが、ある枠組みにはめられると、そうでないものと対立するとか、相容れなくなりがちですが、実際には指し示されたものが互いに交流したりします。
風景画というものは、万人に対してそこにあるという意味では、主観の外部にあるものです。
では、そこにあるままに写しとったとしたら、それは、いわゆる〈客観〉といわれる世界のものなのでしょうか。〈写しとられた〉姿は、誰が、どこから、いつ見たのかという、〈客体〉をみる〈主体=作者〉のあり方が前提になっています。
表現は、その単純化や誤魔化しを利用して成立させているのですが、これを言葉で説明したり証明することは、大変難しいことです。
美術表現は、定義を厳密にせずに指し示すものを曖昧に表すことで、表現されたものの構造を鷲掴みに表せるようにも思います。
船山佳苗さんは、風景画の個展をしましたが、二つのものをひとまとまりにしているような感じでした。

足元と、向かわんとするものがあたかもひとつにされているようです。
主観を支えるものと、志向性が一緒になっていますが、その対立は、90度絵を回転するとさらに新たになります。

この点に留意して思い出したのが高村光太郎の「道程」でした。
科学、哲学の領域を超越する可能性を示唆するところに美術や詩、韻文の面白さもあるやもしれません。
