『望んだもの、与えられたもの vol.9-11』-創作大賞2025(エッセイ部門)応募作品-(6/9投稿)
BLUEの応募作品マップはこちら💁
はじめに
作品のコンセプト
『望んだもの、与えられたもの』
一見すると「願ったものは与えられなかった」と語りながら、実は「本当に必要なものは与えられていた」
「人の願いと、人生が与えるもののズレ」 の両極の現実を一度は素直に受け止める事ができた時、その深い洞察の先に新たな価値観への扉が開くのではないか🤔💭
洞察を通して、人間の視点から見れば「不足」や「欠落」と感じることも、視座を高め、より広い視野から見れば「成長」と「気づき」のために必要なのかもしれない🤔💭
それはまた、人は「力」や「成功」を求めるけれど、実際に与えられるのは「弱さ」や「失敗」だったりする。でも、その「ズレ」が、人生の深みを作っていくのかもしれない🤔💭
このような詩(うた)をストーリー仕立てのエッセイにまとめ『望んだものと、与えられたもの』 の対比が鮮明となるようにメイキングしてみたい🤗
メモ📝
2025/6/5現在、『望んだもの、与えられたもの』をテーマにしたエッセイは、ちょうど20作品を数える。
区切りとして、ショートエッセイを応募することにしました☺️
作品のイメージアート

女性の姿:「静謐のなかで人生の答えに手を伸ばす」瞬間をとらえた姿。
彼女のふたつの掌は何を感じようとしているのか――それはまさに「欲したものを手に入れようとする右手」と「与えられたものを静かに受け取る左手」の二面性を象徴している。
着物の織り模様には、星雲のような銀河や波紋が広がり、人生の軌道──すなわち、希望・選択・錯綜・回帰──の複雑なレイヤーを内包する宇宙の布帛(ぬの)が描かれている。
髪飾りの白い花は、「願い」を象徴すると同時に、「散ること」への覚悟も帯びた二面性を象徴している。
背景に浮かぶ光輪と螺旋は、「この世界の外からの視座」を示す。
私たちは常に主観という点の中に生きているけれど、実は、その背後にはもっと大きな軌道、与えられたカイロスの時間が流れていることを、彼女の後ろに広がる幾何学が静かに語っている。
✍️コンセプトとアートのリンク
このアートは、本構想の物語──
「望んだものではなかったが、必要なものだった」
というメッセージに、視覚的な奥行きを与える強力なメタファーとして作成した。
求める掌と、受け取る掌
華やかな着物と、内に秘めた瞑想的なまなざし
願望としての花と、散る運命を受け入れる美しさ
動的な背景と、静的な存在感
すべてが、「ズレ」という余白の中にこそ人生の真理が宿るというテーマに収束する。
✍️『異質なものとの調和力』との関連性
『望んだものと、与えられたもの』
経(たて)糸と緯(よこ)糸を組み合わせ
織り成すのが染織(布)、これが布帛(フハク)
このテーマで言えば
望んだものを経糸とするならば
与えられたものは緯糸
このたて糸とよこ糸が組み合わさって
織り成されるのがエッセイ(物語)
望んだものと与えられたもの(望んだものではない)
の両極の『ズレ』が、エッセイを通して織り成す
つまり、両極の『ズレ』は『ニコイチ』☯️だ
すなわち、BLUEの価値観『異質なものとの調和力』そのものなんだ☺️
(参考記事)
💎掲載作品💎
『望んだもの、与えられたもの-時間と後悔』 vol.9
時間は、誰にとっても平等でありながら、最も残酷なものだ。どれだけ願っても、過去には戻れない。失った時間は、決して取り戻せない。だからこそ、人は後悔する。
その通りだ。
失った『時間』をいくら望んでも、与えられるものは『後悔』だ。
「もしあの時、違う選択をしていたら?」
「もしあの時、あの言葉を言わなかったら?」
「もしあの時、あともう少しだけ勇気を持てていたら?」
無数の「もし」が頭をよぎるたびに、僕たちは立ち止まり、後ろを振り返る。
でも、後悔の本質は「時間が戻せないこと」ではなく、
「戻せたとしても、今の自分には何もできないかもしれない」
と思ってしまうことにあるのではないだろうか?
時間とは、僕たちを成長させるものでもある。
もし過去に戻れたとして、当時の自分に今の知識や経験が備わっているわけではない。あの時の自分は、あの時の自分なりに考え、最善を尽くしていたはずだ。
この考えの設定は、下記の囲みで言えば、②に相当するだろう
タイムリープの設定として、今の記憶を持ったまま過去に戻れる場合と、今の記憶を持たずに過去に戻る場合の選択肢が与えられたとしてみよう☺️
①今の記憶を持ったままやり直すタイムリープ
選択と学習の自由意志を持つやり直し
➡️『シュタインズ・ゲート』のように、「記憶を持ったまま過去に戻って、運命を変えようとする」タイプで、「前世の記憶を持った転生」の設定に近い
②今の記憶を持たずに同じ人生を歩み直すタイムリープ
人生がもう一度繰り返されるが、それを認識できない
➡️これは「運命は固定されているのか?」というテーマに発展しやすいタイプで、ニーチェの「永劫回帰」(同じ人生を永遠に繰り返す)の設定に近い
(参考作品)②今の記憶を持たずに同じ人生を歩み直すタイムリープ
ならば、①の今の記憶を持ったままやり直す『シュタインズ・ゲート』の岡部倫太郎のように過去に戻って運命を変えてみてはどうだろうか🤔💭
それでも、BLUEの場合、前世の記憶を持った転生を果たせたとしても、後悔は消えないと思う。
今🈁で「あの時の自分に戻れたら、もっと良い選択できた筈‼️」という記憶と共に過去に戻っても、いざ、あの時の場面に遭遇したら、気持ちが揺らぎ、結果として以前の自分と同じ選択をしてしまうのではないだろうかという不安が拭い去りきれない。
今の記憶を持たずに過去に戻るなら、尚更、過去を変えることなど土台無理ゲーだ
ならば、僕たちはどうすればいいのだろう?
過去に戻れないなら、未来を変えるしかない。
後悔を「経験」に変え、それを糧にして生きるしかない。
未来の自分が、今日という日を振り返ったときに、「あの時、最善を尽くした」と思えるように。今この瞬間を、無駄にしないように。
恐らく、今、過去に対して後悔しているのは、あの時選択した『結果』ではない。
結果はどうであれ、本気で目の前の課題に向き合って、脳に汗かいて💦、鼓動が最大心拍数を刻み、『もうこれしかない‼️』『どう転ぶかわからないけど、今の自分と十分対峙した』と思えるまで自分を追い込めたかどうかが、後悔の分岐点なのかも知れない🤔💭
この没頭感と考え抜いたという自己受容、そして、自分で選択するという主体的責任感、これらを身体全体で感じながら手に取った選択肢だったとしたら、結果がどう転ぼうと、それを運命として、笑みを浮かべて受け入れることができたのではないか。そこに後悔という文字は浮かばないはずだ。
翻って、今🈁から過去の自分にタイムリープした時の後悔は、『本気で悩まなかった』『課題から逃げていた』という自分の姿勢・生き様に対してだと改めて思う
ならば、その姿勢・生き様は、わざわざ過去に土俵を移さずとも、いまのあるがままの自分に🆗を出して、気持ちを入れ替え、今🈁の土俵に上がればリベンジする機会は容易く得られるのではないか?
過去を変えることはできない。
でも、未来はまだ書き換えられる。
だからこそ、僕は今日を生きる。
そして、今日を生きた証が未来を形造るんだ。

『望んだもの、与えられたもの-知識と無知』 vol.10
知識を求めれば求めるほど、無知を思い知らされる。知らないほうが幸せだったと思うこともある。
科学においても、一つのことが明らかになるたびに、その先に広がるさらなる未知の存在を知ることになる。
ニュートン力学がすべてを説明できると信じられていた時代、光の波動性が見出されたとき、人々はその完全性を疑わなかった。しかし、量子力学という新たな扉が開かれることで、古典力学の限界が露わとなり、世界はより複雑なものとして再認識されることとなった。
知識とは、一見、世界を照らす光のように見える。しかし、それが照らすものが多ければ多いほど、影もまた深くなる。無知の闇が完全に消え去ることはなく、むしろ知識が広がるほど、その暗闇の輪郭が明確になっていく。人は、すべてを知り得ないことを思い知らされる。これは、科学者が存在し続けるエビデンスにもなっている。
科学とは、神という存在を持ち出さずに、どこまで世界を理解できるかを突き詰める学問だ。
しかし、科学がその粋を集めても理解が及ばない時、人は限界を知る。そして、その空白を埋めるために、空想したり、宗教や哲学に頼るようになる。たとえば、生命の起源、意識の本質、宇宙の果て。これらは科学が探求を続ける領域でありながら、完全な答えを得るには至っていない。
どの時代においても、その時点の科学で説明しきれない現象は、宗教や神話が肩代わりとなり、その空白を補完してきた。雷は神の怒りであり、病は呪いの結果であると信じられていた時代。
やがて科学が進歩し、それらは自然現象として解明された。しかし、新たな疑問が生まれ、またそれに対する説明が求められる。
科学と宗教は、しばしば対立関係にあるように見られる。しかし、それは本質的に異なる役割を持ちながら、互いを補完し合う存在なのではないか。
それは、異質なものとの調和力、ニコイチ☯️の関係と呼べるのではないか。
科学は論理と実証を基盤とし、確かめられるものを追求する。一方で、宗教や哲学は、確かめようのないものに意味を与え、人が生きる上での指針を示す。
量子力学の不確定性や宇宙の始まりの問題など、科学が未解決の領域に足を踏み入れるたび、人々はそれをどう捉えるべきかを考え、時に哲学や信仰に頼る。
知識を得ることは、新たな可能性を切り開く。しかし、それと同時に、知ることの苦しみも伴う。現実を直視し、自分の無知を知ることで、人は次なる探求への衝動を得る。
知識の探求とは、終わりなき旅なのかもしれない。そして、その旅の中で、人は新たな希望を見出し、また新たな絶望と向き合うのだ。
この世界には、まだ解明されていないことが無数に存在する。科学が進歩することで、未来には今では想像もつかない新たな知識が得られるだろう。しかし、そのたびに、新たな未知の領域が広がり続ける。
知ることは、無知を認めること
知ることは、無知の自己受容だ
その謙虚さを持ち続けることが、知の探求者にとって最も重要な姿勢なのかもしれない。
求めた知識の先に、果たして何が待っているのか。それは、知り得る者にしか分からない。だが、その問いを抱き続ける限り、人は知を求める旅をやめることはないだろう。

『望んだもの、与えられたもの-善と悪』 vol.11
善だと思ってやったことが、誰かにとっての悪になることがある。そもそも善悪とは、絶対的なものなのだろうか?
私たちは、小さい頃から「善は良いこと、悪は悪いこと」と教えられる。
しかし、その境界線は曖昧で、状況や立場によって容易に反転する。
アドラー心理学では、「それがその人のためになるかどうか」によって善と悪が決まるとされる。つまり、行為そのものではなく、その結果が重要だという考え方だ。
しかし、この定義には盲点がある。ある人にとって善である行為が、別の誰かにとっては悪になることがあるのだ。歴史を振り返れば、同様の例は無数に存在する。
たとえば、科学技術の発展は、多くの人々にとっての「善」だった。
医療の進歩により人々は病から救われ、交通機関の発達で世界は近くなった。しかし、その一方で環境破壊や倫理的問題を生み出してきた。
遺伝子操作技術の発展は、病気の根絶という希望をもたらす一方で、「生命の選別」という新たな道徳的ジレンマを引き起こしている。
また、戦争の歴史を振り返れば、さらに善悪の相対性が浮かび上がる。
ある国の正義のために戦った兵士は、別の国から見れば侵略者である。戦争は多くの人にとって悲劇だが、それをきっかけに科学や医療が進歩する側面もある。
善悪は、表裏一体である。コインの表と裏のように、切り離せない関係にある。行為の結果がどのように評価されるかは、時代や価値観、個々人の立場によって変わる。
人類の歴史の中で、絶対的な悪とされるものは存在するのだろうか。
大量虐殺や人権侵害など、誰が見ても「悪」とされる出来事はある。しかし、それすらも当時の価値観のもとで正当化されたケースが多い。過去の帝国主義は、当時の支配者にとっては善であり、「文明化」という名のもとに他国を侵略した。だが、現代の視点からすれば、それは明らかに悪とされる行為だ。
では、私たちはどうすれば善悪を見極めることができるのか?
その答えの一つとして、「共感」がある。他者の視点に立ち、どのような影響を与えるのかを考えることで、善悪の境界をより明確にすることができる。相手の痛みを感じ取ることができれば、自分の行動の意味をより深く理解できる。
また、視点を広げることも重要だ。特定の価値観に縛られるのではなく、多様な視点を持つことで、善悪の相対性を理解しやすくなる。善と悪は固定された概念ではなく、時代や文化、状況によって変わる流動的なものである。
結局のところ、善悪とは、固定されたものではなく、互いに影響し合いながら形を変えていくものである。それを理解したうえで、私たちはより良い選択をすることが求められるのかもしれない。
私たちは「善」を望み、「悪」を避けようとする。しかし、与えられたものが本当に善なのか、あるいは悪なのかは、私たちの解釈次第なのだ。そして、それをどう受け止め、どう活かすかによって、私たち自身の在り方が決まっていくのだろう。

【了】
