考察、推し活、サイコパス──「視野を狭める」が正解になる時代の病理
なぜ今、私たちはこれほどまでに「推し活」に救いを求めるのだろうか。その切実な背景と、現代社会が抱える病理の正体を、朝井リョウの小説『イン・ザ・メガチャーチ』は見事に描き出している。
本作に登場する女子学生・澄香の姿は、現代の若者が置かれた閉塞感を象徴するようだ。彼女は大学生活に馴染めず、かといって社会問題に目を向けて立ち上がるほどの気力も持てない。自分の留学準備さえままならない無力感と、強迫観念のような劣等感の板挟みになり、心は限界を迎えていた。
しかし、ある男性アイドルグループの「推し活」に没頭した瞬間、彼女の地獄は終わりを告げる。客観的に見れば、彼女の問題は解決どころか悪化し、人生は破綻に向かっている。だが、推し活をする前のあの息苦しい「正気の日々」よりも、彼女ははるかに「幸福」になった。
作中、彼女はこう独白する。
推し活を嗤うような人たちはこの気持ちを知らないまま生きているのだと思うと、それがどれだけ正しさに支えられているとしても、その芝生は青くも見えない。
そもそも正しいとか正しくないとか、そういう問題じゃないのだ。
彼女を救ったのは、アイドルそのものの魅力だけではない。複雑すぎる世界や将来の不安といったノイズを遮断し、あえて「視野を狭める」ことによって得られた、人工的なシェルターの安らぎだ。
この澄香のような生存戦略は、真鍋厚が『令和ひとりカルト最前線』で指摘する現代のサバイバル術、「サイコパスモード」と多くの共通項を持っている。
ここで言う「サイコパスモード」とは、必ずしも冷徹な米国企業のCEOのような、他者を踏み台にして成功する強者の振る舞いだけを指すのではない。真鍋氏が述べるように、どのボタンを押してもろくな結果にならない「クソゲー」と化した現代社会において、精神を保つために必須となる「防御壁」のことでもある。
まともな感受性を持っていれば、SNSを通じて流れ込む世界中の悲劇や、解決不能な社会構造の歪みに押し潰されてしまう。だからこそ、自分の心が傷つくのを防ぐために、他者への共感や罪悪感、社会からのノイズに反応するスイッチをオフにする。
彼女が推し活を通じて得た幸福の実感は、現実の変わらなさを乗り越えるために、自らの認知の方を書き換えて感覚を麻痺させるという点で、サイコパスモード的な処世術と極めて親和性が高い。彼女は「あえて見ない、感じない」ことを選ぶことで、ようやく呼吸ができたのだ。
この「視野を狭める」をさらに加速させうるのが「考察」という思考様式だ。
三宅香帆が『考察する若者たち』で看破したように、現代のコンテンツ消費は「批評」から「考察」へとシフトしている。
考察には「正解」がある=報われるゴールがある。
批評には「正解」がない=報われるゴールがない。
令和。それは、物語を楽しむことにすら「報われること」を求めてしまう時代なのではないか。
批評には正解がないだけではない。かつての「批評」は、作品を社会や歴史という広い外部の文脈と接続し、批判的な視点も交えて論じる営みだった。自分の信じる対象の正しさを疑い、ひいてはそれを選んだ自分自身をも疑う行為を含んでいた。
対して「考察」に、後戻りはない。そこには作者が用意した「正解」があり、パズルを解けば必ず「報われる」。疑うという苦痛を伴わず、正解に向かって没頭できる「考察」は、すでにある快楽を増幅こそするが、妨げることはない。
つまり、『イン・ザ・メガチャーチ』における表現を借りれば、批評は「視野を広げる」が、考察は「視野を狭める」と言い換えることもできる。
この習性は容易に搾取されかねない。『イン・ザ・メガチャーチ』の仕掛け人・国見まことは、まさに「考察するファン」を手玉に取る。
国見はある時、アイドルのデビュー曲の予約枚数が目標を下回っている事実を、あえてポジティブな文章で公表した。同レーベルの先輩グループより明らかに少ない数字にもかかわらず、だ。ファンは即座にその数字の意味を「考察」し始めた。「運営には任せておけない」「私たちが買い支えなければ」──。
国見は、ファンが深読みし、勝手に危機感を募らせて購買に走るよう、冷徹に計算して情報を餌として撒いたのだ。
私たちが「正解」を求めて視野を狭めている間、国見のような「完成されたサイコパス」は、その熱狂さえもコントロール下におく。
もちろん、多くの人は推し活も考察系コンテンツも、健全な範囲で楽しんでいる。それが趣味の範疇を超え、過酷な現実から逃れる唯一の「生存手段」になってしまったとき、その危うさが顕になるのだ。
ずっと我に返ったまま生きるには、この世界は殺伐としすぎていますし、人間の寿命は長すぎますから。
だが、国見を単なる悪と断じることはできない。国見がこれほど完璧なシェルターを提供できるのは、国見自身もまた、「正気のままでは生きられない現代の地獄」を誰よりも深く理解しているからではないか。国見もまた、生存戦略として「感情を持たない管理者」という役割を演じ、サイコパスと化すしかなかったのかもしれない。
ここに、現代人が直面する巨大な「囚人のジレンマ」がある。
今やナイーブに「正直者」「素面」で生きようとする者が、かえって「損をする」「貧乏くじを引く」時代になった。(中略)要するに、サイコ的な振る舞いで乗り切ったほうがサバイブしやすい世界になっている。
社会全体を見れば、全員が痛みを感じ、手を取り合う「正気」の世界のほうが、長期的には健全で幸福なはずだ。しかし「正直者」「素面」で生きることは、今や「損」なのだ。感情を捨てた「サイコパス」に搾取されないためには、自分もサイコパス化するしかない。
「視野を狭めたほうが幸せだ」「サイコパスになったほうが生きやすい」。この認識が一度広まってしまえば、社会のサイコパス化は止まらない。正気を保ち、社会の痛みに向き合おうとする人間が、最も生きづらく、淘汰されかねない世界。私たちは今、その分岐点に立っているのではないか。
