雑記|フライング涙と誰かの子
映画『ルックバック』を劇場で観ていた時だから2024年かな。
客の入りは6割位だっただろうか。ガラガラでもないがパンパンでもない。
私の後ろの席におじさんが座っていた。
お前もおじさんだろ!というツッコミは置いといて、まあ、とにかくそのおじさんが、わりかし早い段階でクスンクスン言い出したのだ。
いやいや、早くね?って思った。だって、全然悲しいシーンじゃないのだから。
でもこれ後になって思ったのだけれど、その人、おそらく原作かなんかを先に読んで知っていたか、または2周目以降という可能性もあるなと。
つまり、この後の展開で何が起きるかを分かった上でのフライング涙だったのではないか。
そういう意味では(いやちょっと違う意味だけれど)、私にもある。
映画『この世界の片隅に』を観ていた時だ。もう何年前? 2016年公開だから10年前か。
ルックバックおじさんほど早くはなかったけれど、私も終盤、わりかし早い段階でひとりで泣き始めた。周り誰も泣いてないのに。クスンクスンていうかダーーー😭←笑
涙が溢れてどうしようもなかった。
原作を読んだからではない。読まなくても分かる。この後何が起きるかを全ての日本人が知っているからだ。
にしても泣くのが早かったけれど。
映画は希望を残して終わる。あえて言葉にするなら「世代」とか「継承」とか……陳腐な言い草だったかな。あえて言葉にしない方が良かった。
それはともかく、私は血の繋がっていない誰かの子を自分の子として育てるという「物語の類型」に理由もなく惹かれてしまう。
理由もなく、というのは体験に根ざしているわけではないといった程度の意味だが、この際それはどうでもよろしい。
一見、そのような行動は人間だけに与えられた崇高な精神を示すかのように思われるけれど、どうもそうではないらしい。犬が子猫を、あるいは猫が子犬を育てる例など枚挙にいとまがない。と、YouTubeは教えてくれる。
そのような行動の謎を解明したいわけではないし、そこに惹かれる心理に名前を付けたいわけでもない。頼むから言語化しないでくれ!とも思う。
そうではなくて、こういうことだ。
最近、身寄りのない誰かの子を引き取って育てるという物語を(たまたま)立て続けに何本か読んだ。そのことがきっかけで過去に観た映画を思い出したのだ。身寄りのない子を引き取って育てることになるだろうと予感させる細部を持った物語である。私はその映画を観て泣きまくったことを思い出した。そしたら同じように映画を観てひとりで泣いていたおじさんを思い出し──
まるで時間を巻き戻すように逆から書いてみたまでのことなのだが、これは先回りなのか後戻りなのか。
ともあれ、配信で『ルックバック』を観れるから今日あたり観返してみようと思う。
という話。
オチたかな? オチてる? 閉じたよね。
(おわり)



