36年の時を経て重なり合う衝撃 パナマ侵攻とベネズエラ
全身を走ったデジャヴ
2026年1月3日。
昨日、ベネズエラ情勢をめぐり、「米軍が関与した可能性があるマドゥロ大統領拘束」と伝えられる速報が世界を駆け巡りました。
その一報に触れた瞬間、私は全身に鳥肌が立つような感覚を覚えました。
それは単なる驚きではありませんでした。
「1月3日」という日付、そして「軍事力が国家元首の身柄拘束に関与したとされる展開」。
それらが重なったとき、私の脳裏には、かつて体験したパナマ侵攻の記憶が鮮明によみがえったのです。
中米・中南米とアメリカの関係史の中で、何度も現れてきた重い局面の“連なり”を、再び目の当たりにしているように感じました。

1990年1月3日の記憶
私の手元に、1枚の古い写真があります。
1990年1月3日、当時の勤務上の前任者がパナマ市内で撮影したものです。
この日、米軍によるパナマ侵攻(ジャスト・コーズ作戦)の最終局面として、マヌエル・ノリエガ将軍が投降し、米軍に拘束されました。
私がパナマに赴任したのはその1年数か月後のことでしたが、街のあちこちには、侵攻の激しさを物語る痕跡が、なお生々しく残されていました。
暴かれた真実と、チョリージョの炎
赴任して2年が過ぎた頃、日本から送られてきた1本のビデオテープを視聴しました。
1993年6月に放送された NHKスペシャル
『暴かれた真実 1989年 米軍パナマ侵攻』です。
パナマ湾を見渡せる自宅アパートでその映像を見たときの衝撃は、今も忘れられません。
画面の中では、私が暮らしていたアパートのすぐ沖合、パナマ湾の上空を、ミサイルが尾を引いて飛んでいく様子が映し出されていました。
その先にあったのが、最下層の人々が密集して暮らしていた「チョリージョ地区」でした。



現地の同僚や関係者から、私は何度も、あの深夜の出来事について話を聞きました。
一瞬で火の海に変わった街。
逃げ惑う民間人。
米国側は「正義」や「解放」といった言葉を用いて作戦の正当性を説明しましたが、その過程で、推計では2500人から4000人規模とも言われる多くの市民が命を落としたとされています。
その現実を、私は赴任中の3年間、現地の人々の証言として繰り返し耳にしてきました。
催涙ガスに包まれた「歓迎」
侵攻から2年半が経った1992年6月11日。
当時の米大統領、ジョージ・H・W・ブッシュ氏が初めてパナマを公式訪問しました。
市内は親米派と反米派に分かれ、すべての学校が臨時休校となりました。
私は自宅のベランダから、大統領専用車が通過する様子を、ヘリコプターの轟音とともに見ていました。

歓迎セレモニーが行われた広場の外では、激しい抗議行動が起きていました。
侵攻によって家族や住まいを失った人々の怒りが噴き出した結果でした。
群衆を制止するために放たれた催涙ガスは風に乗り、壇上のブッシュ大統領自身も目を押さえて避難する場面が生じました。
私が見ていたのは、その場限りの混乱ではなく、侵攻が残した深い傷の一端だったように思います。
皮肉なことに、その後スピーチが行われた米軍基地の格納庫は、かつて被災者の避難キャンプが設営されていた場所でもありました。
2026年1月3日、再び重なる「韻」
そして昨日、再び「1月3日」という日付が世界のニュースに刻まれました。
トランプ政権下で行われたとされる、ベネズエラに対する軍事的関与。
「麻薬テロリズム」という名目。
特殊部隊による限定的な作戦と伝えられる身柄拘束。
日本と米国、双方の報道を見比べる中で、個人的には、強い既視感を覚えました。
それは出来事が同一だからではなく、語られ方や構図に、どこか似た輪郭を感じたからかもしれません。
歴史の韻をどう受け止めるか
1990年と2026年。
二つの「1月3日」を結びつけるものは、単なる偶然の一致なのでしょうか。
それとも、米国が中南米地域と向き合う際に、繰り返し現れてきた政策判断の傾向が、時代を超えて重なって見えるだけなのでしょうか。
トランプ大統領はかつて「パナマ運河を取り戻す」と発言しました。
今回のベネズエラ情勢についても、独裁者排除という説明だけでは捉えきれない、より広い地政学的文脈の中で理解しようとする視点が必要なのかもしれません。
歴史は単純に繰り返されるのではなく、「韻を踏む」と言われます。
パナマ侵攻後の混乱と、引き裂かれた人々の思いを現地で見つめてきた一人として、私はこの「2026年1月3日」という日付が投げかける問いを、読者の皆さんと共有したいと考え、この記事を記しました。
これは特定の結論を導くための文章ではありません。
むしろ、それぞれの立場や経験から、この出来事をどう受け止めるのか──
その静かな対話のきっかけになれば幸いです。
