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現代語訳 奥相茶話記月夜畠夜討事


はじめに

続きを忘れている訳ではなく、諸資料を勉強中なのですよ。

幾ら私が歴史家であっても、日本史の膨大な一次二次資料悉くを学んでいる訳があろう筈もない。人間には、そんな芸当は無理です。

たから、日本史の専門家は基本的に専門分野以外は不案内なのですよ。要するに学ぶべき資料が膨大過ぎて、とてもカバーしきれない。徳川実記もね…俺が死ぬまでにあれ全部読めんのか…て物量で、

たからこそ、この歌は正しいのです。

人が生きる為に与えられた時間はきっと、必要な時間の半分も与えられちゃいないんだ。

私だって日本史、中国史、古代ローマ史共に、得意分野と不得意分野はあります。

続きを書く為の資料として、現代文訳を作っておきます。基礎資料が全てデジタル化されてる中国は、さすがに歴史学の本場ですよ。日本は遠く及ばない。だから、これ一つだけで手間が大変です。中国史の場合、ほぼデジタルで拾ってこれますから。

関ケ原本戦に先立つ政局判断では致命的にミスを犯しましたが、相馬家が相当強かです。

ただ上杉家と戦うだけでなく、後々の証拠を立てる為に本来は犬猿の仲である伊達政宗を巻き込んでしまおうと。

尤も、政宗の方でも元々、相馬家に対して遺恨こそあれ何の好意も持っていませんから、相馬家の思惑通りに証言などしてくれませんでしたが、この時の火事場泥棒のような戦い(しかも勝てなかった)による戦死者まできちんと記録していた事が、後に相馬家を救う事になります。

徳川家康という人は、そういう「働きと犠牲」に対しては、基本的には必ず
報いる人でした。しかも陪臣や小者のような身分低き者たちに対しても、居丈高にならず物腰が丁重だった事は当時から定評があり、そういう地味な人望が、彼をして天下を取らしめたとも言えます。

秀吉のような傲岸さ傲慢さは、彼にはありませんでした。バランスの良い常識人だったとも言えます。

一方で勿論、政宗は政宗で思惑がある訳ですよ。

第一章でも書きましたが、彼の本願は旧領の奪回です。その為に何としても「上杉が白旗掲げて降伏してしまう」前に、出来るだけ上杉領を削り取っておきたい。その為には仲が悪い相馬だろうと誰だろうと、味方は多い方がいい訳です。

ただ、この後小説化していきますが、事態は政宗の思惑通りには行きませんでした。和賀忠親扇動の一件が祟って、関ヶ原の恩賞が僅か二万石にとどまった事は周知の通りです。

ただ彼は、米沢旧領はともかく恩賞への拘りを捨てきれず、何と相馬領を自分に呉れるように働きかけたりしています。

本多正信などは呆れ返ったのではないでしょうか…どういう神経をしてるんだ、あの男は...とでも思った事でしょう。

彼が相馬家再興の為に色々奔走した理由の一つには、伊達の抑えの為…という思惑は確実にあった事と思われます。
(少なくとも政宗本人はそう解釈して、手紙を残している。徳川家も徳川家で、それなら最初から相馬家を改易せねば良い…という理屈も当然ありうるが、如何に家康や正信とて全知全能ではない)

ただ伊達政宗という男の面白さは、その太々しさ、神経の図太さにあった…とも言えます。傍若無人とも言うべき破天荒な言動は晩年まで続き、諸大名が恐れる幕閣の大老格に迄、嘲弄するが如き言動を取ったりしています。

同世代で仲の良かった細川忠興などは、政宗の余りの乱行を聞き「狐憑きにでもなられたか」と手紙に書いていたり、酒乱の末に何か取り返しのつかない失態を犯したりしないか…等と天正以来の友人として心配していたようですが、何しろ時の将軍家光自体が政宗の大ファンだったりする訳で、ある意味怖い者なし。

散々にやりたい放題の傲慢さを発揮していた事が、細川忠興忠利親子の往復書簡にも書き残されています。

徳川家康なども政治的な計算や思惑は別にして、政宗個人に対しては相当に好意と友情を感じていたらしく、大猷院殿(徳川家光)御實紀にも、大胆不敵にも家康の狩場に忍び込んで、勝手に狩りをしていた政宗との笑い話が掲載されています。
(普通に考えたら大御所の狩場に無断侵入して狩りをやるなど、正気の沙汰ではない...のだが、余りの図々しさに家康も怒る気にならなかったらしい…処か、面白い奴だとでも思ったらしく、後日二人で笑話にしている。笑い話に出来るだけの信頼関係が、二人にはあったとも言える。大坂夏の陣直後に広がった政宗謀叛の噂の際にも、政宗は直ちに家康に対して弁明、誤解を解いている。噂の発端は、何と政宗の娘婿である松平忠輝の讒言によるものだった。忠輝は夏の陣における己の遅参を何と政宗のせいにしたのである)

ちなみに、徳川家と伊達家の信頼関係はその後も長く続き、家光の政宗に対する傾倒ぶりは有名ですし、その後も伊達吉村の時代には、幕府より銅銭鋳造権を与えられていたり(水戸徳川家等にしか許されていない特権。伊達家に対する信頼がなければ幕府も許可しない。幕府が外様雄藩を一律に敵視していた...などは後世の俗説に過ぎない)、戊辰戦争でも伊達家は会津藩に味方し、徳川家への好誼に殉じ、維新後は減封や爵位での差別待遇(本来侯爵相当なのに伯爵どまりだった)を食らっています。

伊達家は別格? 今でも徳川家の隣に“指定席”

奥相茶話記 (相馬家再興当時部分)

政宗が標葉の花光院に寄宿された事

慶長五年の春は、加賀への出陣とも、景勝(上杉景勝)への出陣とも言われ、様々な浮説(噂)が飛び交って大坂や京都の洛中は騒がしい状態であった。

(相馬)義胤は領地へ下向された後、牛越の城にいらっしゃった。利胤はまだ下向されていなかった。

慶長五年六月の上旬、南部信濃守、その次に最上義光、その次に伊達政宗は家康公の味方であるため、景勝を警戒し、東海道を通って相馬へ向かって下って来られた。政宗は六月下旬に下向されるという話であった。

さて、相馬の一族や長老たちがそれぞれ評議をして義胤へ申し上げるには、「隆胤(義胤の弟)が死骸となった合戦(の遺恨)において、ぜひとも政宗を討ち取るべきです。上下の武士たちはこの遺恨を晴らし難く思っております。その上、世が騒動の時期であるため、日頃から旗下にいる者たちも心を落ち着かせることができません。伊達の家中が一つにまとまって行動している以上、後々どうなろうとも、どこからもお咎めを受けるいわれはないはずです。仮に異議があったとしても、隆胤が討たれ、また新地や駒ヶ嶺を奪い取られたことは近隣の郡にも隠れのない事実です。その上、金山、丸森、袴の上において(伊達勢を)押し返したあの戦功をも無駄にされたという遺恨が幾重にも重なっております。これらの道理を申し立てなされば、他に異論はないはずです」と申した。

その中でも岡田兵庫が強く主張して申すには、「相馬の軍勢を拙者の指揮下にお任せください。政宗などいとも簡単に討ち取ってみせましょう。まず一隊を入の迫(いりのはざま)に置き、一隊を同慶寺に置き、一隊を八景の台に配置します。金場、吉名、岡田、大井などの各所や村々、城に近い木陰には、百人、五十人の百姓や町人などを配置しておきます。

さて、(政宗の軍勢が)通堂(つうどう)を過ぎて、政宗が橋を越え、こちらへ近くやって来た時分に、前後左右で鉦(かね)の音を鳴らしてやれば、前後を危うく思ったところへ、八景の台から鬨(とき)の声を上げて一気に攻め下ります。そうすれば(敵は)皆、道の脇の深い泥田へ飛び込むことでしょう。左右は大きなぬかるみです。道は一本道であるため、敵は武器を有効に使うことができません。さらに、後ろから通って来て助けに入る道もありません。ここで敵が度を失う(パニックになる)ところを見澄まして、政宗には私が組みついて討ち取りましょう」と、まるで手に取るように(ありありと計画を)申し上げた。

しかし、その時に家老であった水谷式部が申すには、「そのように巧みに計画を立てられたならば、政宗を討ち取ることは皆様が申されるように容易なことでしょう。

しかしながら、私の愚考によりますと、政宗がこちらをお通りになるのは景勝を警戒してのことと見えます。間違いなく家康公の味方にお成りになったのでしょう。それを討ち取ってしまえば、後々の御家のためにはいかがなものかと存じます。

その理由は、治部少(石田三成)は身分の低い家臣と言われており、手持ちの人数でさえ最近召し抱えた侍ばかりでしょう。また諸大名が味方したとしても、強い方につき、弱い方を捨てるのが常です。そうであれば、将来の頼みにはならないと思われます。東の家康公は、老練な大将という大身(大名)であり、しかも家中には歴々の武勇に優れた武将が多いため、結局のところ勝利(御利運)は家康公のものになると存じます。その上、利胤公は京都に滞在されておられるので、この点(伊達を討てば利胤の身が危うくなること)も懸念されます。ともかくも政宗を討ち取ろうとなさるご企てはいかがなものかと存じます」と申し上げたため、義胤もこの評議に同意され、討ち取らないことになった。

また、老臣から諸兵、下々の者たちに至るまで、「隆胤の死骸(を放置された)合戦の遺恨を今晴らさずして、いつの時を期すというのか。政宗を討ち申すことは籠の中の鳥を捕らえるようなものだ」と勇み進んで歯ぎしりをして(悔しがって)いたが、「決してそのような気配を(政宗に)見せてはならない」と、側近の者が制止し、諫めたのである。

政宗が上方(京都方面)から連れてきたお供は百騎に満たないと言われていたが、お出迎えのために常陸国の内まで参じていた者たちも次第に集まり、相馬の領内をお通りになる時には四百騎ばかりであったと申し伝わっている。

政宗は標葉(しねは)に到着し、涼ケ森の花光院に寄宿された。上の山寺の四方に足軽・鉄砲・弓・槍の部隊を三重に配置し、物頭(部隊長)を添えて警護した。諸々の武士は寺の近くの村々、新山、長塚、酒井の辺りまで二、三里の間に散在していた。

義胤から花光院の庭中に兵糧三百俵、大豆百俵を積み上げ、使いとして新館彦左衛門を以て進上した。しかし(政宗は)「自身の用意があるから」と言って受け取られず、また接待(御馳走)のために出田与惣右衛門(後の行では与三右衛門と表記)を付け置かれた。

さて、夜半ばかりに寺の中であちらの馬が放たれた(逃げ出した)ことに驚いて、寺の四方を警固していた者たちが騒ぎ乱れて混乱し、寺の前の左右の田へ飛び込んだり、山に駆け上がったりして、あちこち(折口)に落ちこぼれたり(散り散りになったり)した。

与三右衛門は下男一人と庫裏の下(台所付近)に控えていたが、庭中へ出てみると、そこにいた侍は一人もいない。政宗は縁側に立って不審そうに様子を見ていらっしゃる。お脇に長刀(なぎなた)を持った若侍が一人控えていた。この他に人の姿は見えなかった。

与三右衛門が御前近くの縁際へ進み出て申し上げるには、「寺の中で馬が放たれた(逃げた)ため、それで騒いでいるのです。少しもご心配なさることはありません」と申し上げた。

政宗のお言葉に「与三右衛門、この事態でよくここに詰めていたな。大儀である」と仰られたが、事が鎮まってから御前に召し出され、御盃を賜った。
庫裏の下にも料理人や役人らしき者が数多く寝ていたが、「騒ぎなさるな、様子を見てこよう」と言ったけれども聞き入れられず、ちりぢりに逃げ出していた。

また、庭の向こうに竹もがり(竹で組んだ柵)を結って、槍を百丁ほど立てて、その柵に結び付けておいたが、しばらくしてこの槍どもが一斉に皆倒れた。これにまた驚いて騒ぎになった。

この時も政宗は縁側にお出ましになり、侍が五、六人付き添って立っていらっしゃった。与三右衛門がまた参上して「警固の槍が倒れたのでございます」と申し上げると、この時も召し出されて御盃を賜り、その上、神妙で丁寧な仕事ぶりであると大変お喜びになった。

「今後もし万が一相馬を離れることがあれば、いつでも伊達へ参れ」と、ご自筆で書かれた書状を一通下された。与三右衛門はこれを隠して、後々まで公にすることはなかった。

その後、与三右衛門が語るには「政宗の御様子は、さすがは大将としての機転と度胸(機性)が備わっていらっしゃった」と語ったとのことである。

さて義胤は、牛越城の東の山崎へお出ましになって(政宗の行列を)見物なさった。その他の諸士や雑人たちも思い思いに所々へ高い所に登って見物した。

政宗がお通りになるということで、原の中の大道を今の町場へ向けてまっすぐ新しく造られていた。

ところが、この新道には騎兵や下々の軍勢などの全軍を通らせて、政宗はお供に三騎、歩兵(歩卒)七、八十人ばかりを連れて、陣ヶ崎より城に向かって、筋違(すじかい)の原の中の古道を真っ黒になって(大軍で)乗り来られた。「何者だろう」と見ていると、城に近い所になって、にわかに金の三階笠の馬印を差し上げた。そのため義胤も政宗であるとお知りになった。

政宗は城下へ乗り掛け、水無川の下の瀬の川中に馬を立てられ、しばらく城をご覧になり、金の扇子を日差しにかざして(あるいは指し示して)、ゆっくりと城をご覧になり、乗り上げて新善寺の方へお通りになり、さて大道へお出になられた。

中村の城には盛胤(相馬盛胤)がいらっしゃった。今の田小室の外は昔は往還の道であったため、盛胤は田小屋へお出ましになり、諸士の中に立ち混じって見物なさった。そして今の土地の状況(土柄)を入れてご覧になって乗り出し、お通りになった。

領内の案内のためということで、新館彦左衛門が義胤から付けられ、駒ヶ嶺のこちら側で下馬され、政宗が彦左衛門に仰るには、「これまで大儀であった、道筋もわかった」と言って(彦左衛門を)お返しになった。

この時、片倉小十郎(景綱)は上下(身分を合わせて)千人とは申したけれども、七、八百ばかりで、政宗がお通りになる前日にお迎えのためということで馬に乗って鹿島町に旅宿していた。盛胤は田中城にいらっしゃった。小十郎は草野左馬允・鈴木掃部左衛門を案内者として、盛胤の時の家老であった佐藤左近を呼び出して対面し、左近を通じて盛胤へ刀を、忠次郎・郷胤へ脇差を進上した。

さて、小十郎が左近に語るには、「この度、政宗が下向するにあたり、申し遣わすことには、『富塚近江には上下千五百の人数で岩城領に差し向かわせるべきだ。某(私=片倉)父子は上下千人の人数で御領内の鹿島にてお待ち申し上げる。矢田勘解由兵衛には上下三千の人数で駒ヶ嶺へ差し向かわせるべきだ』ということです。

なぜこのように思案を巡らせるのかというと、世間の浮説(噂)では、佐竹・岩城・相馬・那須の面々が長尾(上杉)景勝に同意なされ、石田治部少輔(三成)に与して家康公に敵対なさると言い唱えられている。政宗は無二の家康公の味方であると、憚り多いことではありますが、相馬と伊達は代々ご縁戚(縁類)であるため、私(片倉)の身分からでも御ためによかれと思ってのことで、全く疎略(見下すような意図)はございません。

もし一旦、治部少(石田三成)にお志(味方する気持ち)があったとしても、お諫め申し上げなさい。その仔細は、今の天下に家康公に比肩する大将が誰かいましょうか(いやいません)。治部少は景勝の時の威勢に誇ってとやかく申しておりますが、最後までやり遂げることは難しいと存じます。そうであるのに、それ(三成)に組する人々は家が滅亡することでしょう。御家・社稷(しゃしょく=国)こそ大切です。主人は一代の者であるため、いざという時には(義胤の)身を失うことになっても苦しくはない(やむを得ない)という覚悟を持ち、ただ末代まで続くことをよく吟味なさってください」と。

左近が申すには、「腹底からの残らずご懇意なお話を、委細承りました。それではまず盛胤へ申し聞かせましょう」と立ち退き、片倉が申した旨を逐一申し上げた。

(盛胤からの)ご挨拶に、「世間の風聞にそのようにあるだろう。しかし、まったく治部少に与しているわけではないし、佐竹・景勝に与しているわけでもない。内証(内情)は小十郎にも推察してもらいたい。長年の合戦で諸士は大半が討ち死にして無くなってしまった。今だんだんとその子供たちを養育しているところで、軍勢(人数)を持っていない。『家康公の味方だ』と申したところで、何ができようか。万一、家康公からご催促を仰せ下されたならば、その時は、仮に五十人、三十人でも召し連れて参じるつもりである。政宗が家康公の御方に参られるならば、伊達との境目の番兵も置くべきではない。往還(通行)に障りがないようにしよう。もし伊達方でこちらに隔意(疑いの心)を持たれるのであれば、どうしようもない。内々にこの旨をご承知おきいただきたい」と、左近は片倉に詳しく申し聞かせた。

片倉が申すには、「そのようなお心掛けでいらっしゃるならば、御家長久のことで大変めでたい(珍重)ことです。返す返すも、(義胤へ)ご諫言を申し上げなさい。いよいよ義胤へのご諫言が第一であると申し上げ、政宗にも(相馬の)お考えの内意を申し聞かせましょう」とのことだった。
一日滞留して、二日目に政宗のお供をして帰っていった。さて、ほどなくして景勝領の白石を政宗が攻め取りなさった。

政宗が白石を攻め捕った事

老士の茶話。刈田郡白石にその時籠城していた老士の茶話を、信夫(しのぶ)の飯坂の湯にて出会って、徒然なるままに暇(閑)であるからと語ったのを聞いて、捨てがたく書き付けた。「筆まめな癖であるな」と見逃していただきたい。

白石城には、景勝の老臣である甘糟近江(あまかす おうみ)と言ったか、引き替えて備後を城代として上下千騎にて籠城していたが、この時、慶長五年七月下旬であったか、伊達衆の桑折隠岐(こおり おき)を先手として、伊達美濃守重宗の嫡男・安芸守定宗をその日の総大将として指揮(下知)をなされたが、その朝はことのほか霧が深かったため、桑折は夜宵より忍んで城の近くに仕寄(しより:攻城用の設備)を作り、後続の人数をも忍んで招集した。霧が晴れるのと同時に、にわかに(一斉に)すべての鉄砲を撃ち掛けた。城内では思いもよらないことだったので騒ぎ狼狽え立てて鉄砲を撃ち返した。式部(※武将名)は、役所を下知するために(馬に)乗り上げ乗り下ろし、乗り回している所に、味方の鉄砲によって盆の窪(首の後ろ)から鼻の先へ撃ち抜かれて死んだ。「式部が撃たれた」と申すと、城中は騒ぎ立て、その昼には落城した。

二本松・鹿子田・和泉・子右衛門が城内にいたが、「主君の敵である」として戦って討ち死にしたとのことである。

さて、信夫郡福島の城代は大関常陸(おおぜき ひたち)、青柳も大将分である。諸浪人ともに大勢が籠り、中には田村・四本松の浪人が多かった。この組頭は石川弾正、田村宮内、鉄砲七百丁余り。この総頭は新国藤兵衛(にいくに とうべえ)、駒木根右近。この城も上下千騎が籠っていた。また梁川(やながわ)の城代は須田大炊介(すだ おいのすけ)、総頭は車丹波(くるま たんば)、これは上下六百余りで籠っていた。

福島の城では、佐井(際)の道に岡野左内、後ろには越後という者であった。この二人は足軽百五十人ずつを申し受けて出てきた。

政宗は越河(こすごう)から夜中に進発なされ、国見という所をお通りになり、梁川城との間は八丁ばかりであった。「城から出て合戦すれば、追い崩すことができるだろう」と言ったけれども、人数が少ないため、城を空け放つのはいかがなものかということで思いとどまった。しかし、「これほど近くの道を見物して、徒(いたずら)に通らせるのは無念である。それならば、後を通る小荷駄(物資輸送隊)だけでも討ち取ろう」と、迎撃のために三百余人が城から出た。また、城の矢倉に物見(見張り)を置き、小荷駄が通るのを見て合図を定めて待ち構えていた。総人数はどれほどあるのか、限度もなく押し通る。その後ろに小荷駄たちが通るのに合わせて合図をしたところ、国見へ押し寄せ、よろず(すべて)を奪い取った。歩兵や、あるいは人夫(夫丸)などであるため、皆散り散りに逃げたので、安々と奪い取った。ただ人夫四人を討ち取り、その他に死人はなかった。この時、『竹に雀』の幕をはじめ、色々なものを奪い取った。

政宗は夜中にお通りになり、桑折の南、牛窪という所に御旗本(本陣)を備え、全軍を待ち受けなさった。その朝は霧が深く、一間(約1.8m)先も見えなかったため、瀬の上流とするかみ川を前に当て、ここの北である佐井の道に、岡野左内は野伏三百人で川端を少し離れて瀬の上の方向へ鉄砲を並べ掛けて待ち構えていた。

霧もだんだんと晴れていったところ、川の向こうに二重三重に鉄砲を並べ掛けて待ち構えているのを政宗が御覧になり、「どうすべきか」と仰られたので、(伊達)成実が、「私にお任せください。本陣はそのまま動かずに備えてください」と言って、某(それがし)は川上の飯坂の方、西へ馬で乗り行くと、茂庭石見も同じく行き、これも敵には構わず西の川上を越えて、佐々木野・福島の西へ出られた。川の下流では、伊達上野、奥山出羽、片倉小十郎が、そろそろと川に沿って保原の方へ乗り下っていくのを見て、道において左内は、後方を危ぶみ気遣ったのだろうか、兵を引き立てて退いた。

左内が一町(約109m)余り退いて鉄砲を構えさせると、(伊達勢は)すぐに陣を乱して退き、道に鉄砲を構えさせると左内も乱れて退く。このようにして、物慣れていて慌てず(不周章)退いているところに、左内が陣を乱して引き取るのを、政宗が十騎ばかりで乗り出し、「政宗の近習の者であるぞ、すぐに左内は引き返して勝負をせよ」と言って乗り掛かり、鎌田という所にて、左内の差物(旗指物)の竿を切り落とした。

しかしながら左内は物ともせず、「この小勢で大勢に向かって戦う様子は不敵であるぞ。後日、位牌に高名を残すことはできないだろう(無駄死にになるぞ)」と言って退いた。この追い掛けたのは政宗であったということである。

政宗がそろそろと追って、福島城の北と小高の二箇所に陣備えを立てなさったところへ、片倉小十郎が川下を渡って来て政宗へ申し上げるには、「大将に不似合いな武勇であり、言語道断(御沙汰の限り)でございます。味方を先立てて下知(指揮)をなさってください」と言ったところ、(政宗は)「ならば」ということでお退きになり、山の下に陣備えを立てられた。

さて、城内からは敵の様子を見るために、すぐに左内に申し合わせ、田村衆の内、小田部大学という者を武功の者であるとして選出し、物見(偵察)に遣わした。朝霧が深かったので、お山へ登っていたところ、霧が晴れていくのを見ると、早くも伊達勢が城の際まで詰め寄っていた。(大学は)驚き急いで山から下り、指物を絞り(畳んで隠し)、大道を寄せてくる敵(伊達勢)の中に乗り混じって町際へ行き、指物を指して(広げて)、敵を恐れる様子もなく、足軽などをあちらこちらへと下知(指揮)した。寄せ手(伊達勢)の人々は、「これは誰だろう。命じられて指揮しているのだろうか」と思っていた。

政宗が御覧になって、「なんとも働き者であるな。何者か」とお尋ねになり、皆が申し上げるには、「この指物は旗本では見慣れません。きっと家中の物頭などでしょうか」と申し上げる。町口へ乗り込んでは乗り返し、二度(出入りを)したが、一散に城へ乗り入った。その時になって「敵であったか」と寄せ手は気づいたとのことである。大学は後(の時代)に政宗に召し出され、物頭を仰せ付けられた。その子孫は今も仙台にいるとのことである。

さて、房州(岩城?)政実の部隊ばかりが町の西から鉄砲を撃ち掛け、城を包囲することなく(不巻)、政宗は兵を引き取りなさったということである。城を包囲したと申すのは嘘であると、見た者が語ったとのことである。その理由は、小荷駄(輸送隊)が討たれたという知らせが来たため、白石からも人数を出して梁川の抑え(牽制)に置き、政宗を退かせ申したからである。

もう少し退くのが遅ければ、大きな勝負の合戦があっただろうとのことである。その理由は、福島城の後詰(援軍)に春日右衛門が八丁目まで来ており、白川衆は本宮まで来ており、米沢衆は庭坂をまだ越えない所で(政宗が)退かれたため、安泰であったと申した。

さて、この秋、石田治部少輔(三成)が濃州(美濃国)関ヶ原へ出張したと風聞があったが、九月に至って滅亡したのである。これは飯坂にて、禿翁(とくおう/はげおやじ)の閑話を聞いたものであるとのことである。

泉左京胤政、最上境での合戦の事

泉左京胤政を、(相馬)義胤が御追放なされたのは、牛越の城の普請の時、公儀(相馬家)の下奉行と泉の奉行とが喧嘩をした事によってであり、流浪して会津へ参ったところに、石川弾正の肝煎(仲介・世話)によって、(上杉)景勝へ七百人扶持で召し抱えられた。

慶長五年、家康公が会津へ御進発(出兵)と申された時、同年九月、景勝領の四つの入り口の防戦を手分けしたが、直江山城(兼続)は最上境に向かい、この時、泉(胤政)は山形方面に向かった。最上殿(最上義光)は、昭光の御子である義顕人数がどれほどあったのか見当もつかず、先手と旗本との間が十一里も隔たっていたと申した。直江も三十万石の人数であり、また諸浪人を集めたため、地戦(総力戦・野戦)と言い、これも夥しい人数であった。

初合戦の日は、直江の総軍への下知(指揮)は駆け引き(差引)の戦術であった。その日の内に、入れ替わり立ち替わり九度の合戦があったけれども、互いに勝負がつかなかった。

また、相馬衆に滝迫(たきさこ)日向という者がおり、その頃(義胤の)勘気(怒り)に触れて浪人となっていたが、草野へ行って岡田兵庫に申すには、「泉胤政が直江の配下に加わり、最上口へ向かわれたと聞きました。ご存知の通り、日頃から申し合わせていたのはこの時のためです。幸いにも私どもは浪人です。参って見届けましょう。貴方(最上軍)の小荷駄を必ずや盗み(奪い)取りたいと存じます」と言うと、兵庫は胤政の妻の叔父であるため、聞くと同時に悦んで、「それは感心なことだ。馬でも武具でも何なりと申し出なさい」と言った。

日向はこの存念(決意)によって、配下の者たちで浪人した以後に所々に散在している者を、忍び忍びに巡り歩き、昔の親愛を忘れない者がいれば、これを頼んで召し連れようと、右の件を折々に申し出すと、誰もがその旧好を忘れないと思っていたが、中でも頼もしいとして、兵庫に馬を貰い、草野にて用意をし、この合戦の二日前に到着した。

胤政をはじめ、下々に至るまで日向に対面し、喜びは斜めならず(大変なものであった)。さて最上と直江と右の合戦があり、その夜、石川弾正(これも直江の配下に属していた)、弾正が胤政の陣所へ夜咄(夜話)に来て、今日の合戦の様子を色々と物語った。

次に、胤政をはじめ従者の日向などが申すには、「今日の戦は、相馬流などの軍配(戦術)で合戦すれば、敵を容易に追い払えただろう。ただ人数が多いことを頼みとし、敵を恐れるがゆえに、合戦が捗らないのだと思う。そうではあるが、御家(上杉家)は謙信という名将の名残(伝統)でいらっしゃるので、きっと何か仔細(考え)があるのだろう」と、それぞれに申したのを、弾正が帰って直江に語ったところ、直江が石川に申されるには、「さては相馬は大敵に逢っても打ち破られず(犯されず)、常に勝利を得られたと聞く。その軍配(戦術)に則った人であるから、頼もしいことだと感心した(頼母歎侍る)。明日の合戦には、相馬の泉(胤政)へ下知(指揮)を頼むべきだ。景勝へ申し上げるのは遠路であるため叶わない。私としてはどうにもならないが、この方面(口)は私の下知(指揮下)であるから申し付けるのだ。人数はどれほどなりとも望み次第に渡そう。すぐに其方(石川)は泉の陣所へ行って、この旨を申し届けよ」とあった。

そこで弾正はまた泉の陣所へ来て、直江が申された趣きを申されたので、皆驚いて「どうしようか」と評議した。

泉の配下の者共は、「つまらぬ話(余計な話)をしてしまって、このような思いがけない事態になってしまった。主従共に(百)十九人、今米沢衆を加えたからといって、にわかに何ができようか。また相馬においては千、千五百の人数を指揮した(差抜)ことはあるが、五千、一万の人数を誰が指揮できようか。日向殿は(実情を)知らないのだ」と、興ざめに話し合った。

日向は申して帰った。その後で日向が申すには、「合戦は人数の多少によらない。どうか心安く思われよ。これは泉(家)の一大事であり、その上、相馬の御名を汚すことになってはならないので、明日の合戦はどのような体勢でお考えか」と申したところ、泉の配下の佐藤七衛門が申すには、「これほど武将が多い中に、泉に下知(指揮)を頼まれたのは、若い武士の冥加(神仏の加護・名誉)にかなっている。もちろん相馬の名をも揚げることになるのだから、命を捨てることを誰が惜しみ申す者がいようか。合戦に勝利があれば泉の家の冥加である。もし下知に印(効果)がなければ、百十九人の主従は一人も帰らず討死にしよう。そうであれば後日の恥はあるまい」と申したので、上下ともに一同「ともかくも(そのようにしよう)」と申した。

日向が申されるには、「誰もがその心底であることを聞き、良く思った。それほどに各々が思い詰めた上は、勝利は疑いない。私に任せよ」とのこと。また石川が来て、「人数の望みは泉の心次第に付けるべきだ」とのこと。日向が申すには、「人数は五千でも三千でもお心次第に付けられよ。こちらの指揮・合図に従って駆け引き致すように、よくよく加勢の末端(傍下)まで申し含めていただきたい」とのこと。

この事が披露されたのだろうか、その夜に直江はもちろん、その他景勝の御家族(ご一門)や大身衆から、使者や樽・肴の取り次ぎに隙もなかった。右衛門は公儀(相馬家)の始奏者(?)で隙がないので、軍の評定には交わらず、日向をはじめ、金沢備前、小栗内膳の三人であった。

日向が言うには、「法螺貝や太鼓が来るだろう。あちらの者(上杉軍の兵)に打たせれば評議が漏れるだろう。そうであるならば、法螺貝は私の得意なものであるから吹こう。太鼓は誰、鐘は誰と定めて、人数は跡(後方)、脇(側面)の配置次第を、各々鳴り物にて進退の合図をして、泉手前の百十九人にて早朝に出陣した。後の人数は一万余りと申した。

泉に続いて各々出陣した。最上方の先手は九戸備後(くのへびんご)と申す者。金の籠枠(糸巻きの枠)を脇差(の代わり)にしていた。これは身分の低い女が苧(麻の繊維)を巻き付ける道具である。味方の真っ先に乗り出して指揮をなす。

日向が申すには「この籠枠が出ているうちは掛かってもなるまい(敵が強いから攻めかかってもうまくいかないだろう)。その他の勢が入れ替わるところへ掛かるべきだ」と思い、日向が十間(約18m)ほど乗り出すと、九戸も十間ほど乗り出す。このようにすること二、三度であった。こちらも同様にして時を移した。

敵が入れ替わると見えて、九戸も見えず、揉み合っていた所へ、泉(の部隊)百十九人にて法螺貝を吹き立てて掛かる。ここで合図の太鼓・鐘を鳴らすと、佐竹の道二(?)やその他の士将、各々一万の人数を指揮して、泉に続いて後ろや脇より打って掛かる。

敵は乱れて退き、味方がますます競って掛かれば、退っ引きならずに引き退く。敵の後備えは、退く味方に押し立てられて混乱すれば、一人も(取って)返す者なし。さて米沢軍で諸方に陣備えをしていた一万余りの総軍も競って掛かったので、朝の五つ(午前8時頃)から七つ下り(午後4時過ぎ)まで我も我もと追ったので、六里(約24km)追い詰めたとのことである。

さて敵は、逃げ行く先に城があれば大方逃げ込んだ。さて米沢衆は城を包囲した。

直江の喜悦は斜めならず。その陣(庭)の小屋の諸道具、兵糧、雑事に至るまで、直江より結構(立派)に手配し、総大将のように馳走されたので、方々より音物(贈り物)が来ることは目を驚かせた。

そうしたところに、石田治部少輔三成が敗亡した旨が申し来ったので、景勝は会津へ御帰城あり、直江も城を包囲するのを捨てて帰陣した。その頃、米沢にて浮説(うわさ)に言うには「越後に空き城六万石の地がある。これを泉に給わり、ほかに日向には一万石を下さるべきだ」と内々に議定があったと申すところに、得替(役目や状況の変更)の事があったによって、暇(いとま)を申し受けて相馬へ帰参したとのことである。

月夜畠夜討の事

政宗が白石、福島を攻め給うて後、相馬の一族家臣等が、盛胤・義胤へ申し上げるには、「大方、家康公が天下を掌握し給うだろう。その上、景勝も無いかのようにお成りになっている。そうであるのに、御味方と申す験(しるし・証拠)がなくてはいかがなものか。今更政宗と和睦したとしても、攻めるべき所もない。また相馬一分(単独)にて攻めるべき小城もない。さて後日に家康公よりお咎めがあれば、その時に何とお受けし給うべきか」と密談申し上げる。

両将(盛胤・義胤)も「いかにあるべきか」と御分別(判断)できない所であった。時の宿老である水谷式部が申すには「景勝の領地へ夜討ちをすべきだ。しかしながらこちらの者ばかりでは後証(後々の証拠)になり難い。伊達領の者を語らい引き加えたいと存ずる。この義は兵庫(岡田兵庫)に巧み給えかし」と申したところ、「もっとも心得ました」と言って巧んだのは、草野に夜盗の頭に赤石沢喜七郎、山根彦七郎、段々勘解由、足軽彦右衛門、草野将監といって、夜討ち強盗を生業(所作)となす名誉(有名)の者どもであった。

彼らを呼んで申すには、「仙道(中通り)の内、月夜畠に大富貴の者がいる。この乱世であるから夜討ちして取れ。逆に(せっかくだから)大きな事をせよ。相馬三郎は事に慣れた者を誘え。また伊達領にも悪党がどれほどもいると聞き及んでいる。これらをも語らい誘い来れ」と申し付ける。

右の者どもは小斎、丸森、角田、柴田、刈田、名取、亘理、深谷、葛西の悪党どもを語らったところ、伊具郡小斎の入勘解由、青葉左衛門四郎をはじめとして四百余人、相馬領には草野、大原、山中の所々村々に至るまで密かに語らい付けたところ二百人ばかり。

さて公儀(相馬家)よりは北郷衆の内、渡辺八郎右衛門、大原に本田文右衛門と申す侍二人が付けられた。この二人ばかりに夜討ち・金(奪取)の仔細をつぶさに兵庫が申し聞かせた。「伊達の者は皆討たせよ。相馬の者は討たせないように下知(指揮)して引き揚げろ。いかに見苦しく逃げたとしても、討たせないことが肝要である」と言い含められた。慶長六年正月四日の夜のことである。

「今夜は四箇の悪日(不吉な日)である」と言って逃げた。月夜畠が近くなって、「さては人数を調べ、打ち入りの手順を定めよ」と言って、草を取って調べたところ、総勢七百人であると、二度まで(草を)取ったところこのようであった。これは一人につき草の葉を一葉ずつ持って来させて、それを集めて調べるのを「手草(てぐさ)」と言う。

木戸を開き、戸を開ける役を、夜、相馬・大原の者どもが開けようと、しばらく問答して、大原の者どもが開けることに決まった。夜討ちの企ては右の二人の侍(渡辺八郎右衛門と本田文右衛門)ばかりが知っていて、その他には誰も知らなかったため、このように問答したのである。

また、飯樋(いいとい)の惣左衛門と申す者の父を月夜畠に置いていたので、これを人質にする間、月夜畠へは夜討ちすまい、やがて近いので田向村へ夜討ちしようと言った。

月夜畠においては、人質があるということで油断していた。そうしたところに月夜畠の者どもは「人質はいるのだ」と安心した様子で木戸の傍へ出たところを、こちらから鉄砲で撃ち倒した。「さては出し抜きにするのだな」と言って、惣左衛門が父を引っ張り切りにして、手足を切り離し「見よ」と言って投げ出した。

これを見て大原の者どもは、言うまでもなく木戸を開ける役である。「夜は明けた、それ木戸を破って押し込め」と言って押し入ったところ、内でも内々に心掛けて(警戒して)いたのだろうか、防ぐ間に大原の者どもが多く討ち取られた。

さて、味方は大勢であるため、月夜畠の者どもは容易く討たれたけれども、元来乱取り(略奪)すべき物もなかったので、やむを得ず(無力)引き退いたが、道に「かふめき(※泥濘の意か)」と言って、大きなぬかるみの江堀(泥の堀)があり、丸木橋(討一つ)を渡って行き来する以外に道がない所であった。

ところが、近い村の者で大畑次兵衛という者が、(騒ぎを)聞くやいなや、鷺の音物(法螺貝等の合図)にて百余人で打って出て、江堀の前に遮って待ち掛けた。

六畑村と月夜畠の間は半里(約2km)ばかりであり、味方は引き揚げかねてあちらこちらとしている所に、石川弾正は、その頃は景勝が没落なされたので隠れて百目木(どめき)にいたが、「目の前で狼藉はさせまい」と言って乗り出し、二百人ばかりで後ろから追い詰めたので、前後の敵(相馬・伊達の夜討ち勢)も押し乱され、江堀へ飛び込んで多くが討たれた。

百目木から月夜畠へ一里、大畠へ半里ばかりである。相馬の者で討たれたのは、草野では将監、藤八郎、与六郎、一條の坊主、孫介、八郎兵衛、清吉、平次郎、弥市郎、下男二人。藤十郎、九郎兵衛は江重村より来る。半介、段々勘解由、勘七郎、弥半左衛門、同弟の定太郎。飯樋にて佐藤和泉、小六郎、新六郎、佐藤々八郎、八郎兵衛、同弟の金蔵、高倉文五郎、五郎兵衛、同子の専松、高橋金九郎。

手負いになった者を、従者の弥七が肩に引っ掛けて引き退いていたところを、敵が追って来る。手負いの者も弱っていたのだろうか、(弥七は)主人の首を落とし、鼻を削ぎ(身元がわからないようにして)、道脇の雪の中へ押し込み、主人の鎧を取り、片膝をついて敵を突き払ったが、敵が大勢であったためついに討たれた。

関沢に平九郎、佐藤七郎、三郎右衛門、この他にあり、また川股浪人も有った。

大原にて星藤七郎、縫殿之介、七郎兵衛、同子八郎、本田文右衛門父子、大倉に新二郎、下人一人、帯刀。都合、相馬の者が百五十余人、伊達の者が二百五十余人討たれた。夜討ちの一段は水谷式部、日頃から思案の深い者であったため、後々の非難(証拠)を考えて、このような夜討ちをして討死した者で名字が無い者には名字を付けて、帳面を作って注記した。この後、信(手紙・証拠)として相達した。これも訴訟の便り(証拠)となったとのことである。

同年(慶長六年)三月四日、盛胤の妾腹(側室の子)相馬次郎郷胤が死去した。この「郷」の字は蒲生飛騨守氏郷より頂いたものである。道号は陽山清公と申す。北郷鹿島の陽山寺、この菩提寺を初めて建立させたのである。導師は意林堂(意林東堂)である。

同月、利胤公の御妻が御死去なされた。道号は慈明院殿花桂春光と申す、これである。会津の盛堂(が導師か)。

同年十月十六日、盛胤が中村城において御逝去なされた。御行年七十三歳。道号は籌山勝公と申す。中村の城下、真光寺に墳墓が今にあるのはこれである。導師は同慶寺現住の意林東堂である。

茶話に曰く、政宗が白石を攻め落としなされた後、水谷式部をはじめ皆が申すには、「末には家康公が天下を掌握なさるだろう。そうであるのに、相馬が味方であるという証拠(験)は一つもございません。実のところ、政宗へ内通しなくては後々の御家のため(末の御為)に悪かろう」と言って、義胤へ各々右の条々を申し上げる。

義胤が仰るには、「家康公へ味方の証拠がないからといって、逆臣であるという申し分(理由)が立たなければ、家を滅ぼすことになろうか。政宗に内通して下知(指揮)を受けるようなことは思いもよらない。この事は二度と申し出るな」と、御機嫌を変えてきっぱりと仰られたので、また皆で談合して、「それでは利胤は若年でいらっしゃるので、政宗へ内通があっても苦しからず(構わないだろう)」ということで、この条を義胤へ申し上げたところ、「それは若い者たちのことであるから、ともかくも各々の計らいに任せよう。私(義胤)においては、仮に家康公より仰せ付けられたとしても、訴訟を申し上げて、政宗の下知には従わない。自分の立場に応じて一族の働きをするつもりである」とのことである。

それならばと、利胤から政宗へ内通なされた。福島を攻められた時などに、やり取りし給うた書札が今にある。しかしながら、得替(改易・所領没収など)の時にはこれも役に立たなかったと申している。

また、右に申した石川弾正、これは仙道(中通り)の内、月山・百目木を政宗に攻め取られ、城を開け渡した後、相馬へ来てしばらく住んでいたが、長尾景勝の軍事行動があった時、会津へ参って御扶持を申し受け、諸浪人百二十騎の士将であったが、景勝が没落なされた後、また流浪した。

その頃、景勝家中の者でも頭立っている(目立つ)者を(家康公が)憎み給うとのこと、中でも浪人は家康公が殊更に憎み給うと言い唱えられたため、譜代の者どもが家に抱え置いて、百目木に忍んでいたのである。

もちろん大畑、田向、月夜畠、いずれも譜代の親愛なる百姓どもであるため、月夜畠の夜討ちの時も皆供をして出会ったのである。弾正は、この所(百目木)にてついに病死した。

相馬得替事(相馬改易の事)

慶長七年、石田治部少輔三成に与力し、逆臣である長尾景勝、佐竹義宣、岩城貞隆、相馬義胤は、それぞれ代々領有してきた国や郡を没収され、その他、上野国・下野国や日本全国の治部少輔(石田三成)の味方をした人々は、流罪や死罪など様々に処罰された。

岩城・相馬は佐竹へ付属し、羽州の秋田へ参るべき旨が仰せ出された。同年(慶長七年)五月、佐竹右京大夫義宣の飛札(急ぎの手紙)が到着した。ちょうどその頃、野馬追の祭礼にて、牛越の城下で野馬を懸けて(追って)お出ましになっていた。この時は城下へ野馬を追い込んで、すぐにここで捕獲したのである。義胤と利胤は神事を無事に終えて、大急ぎで登城した。

さて、一族や家臣、諸兵を召集し、飛檄(急ぎの書状)の旨を申し聞かせた。その文章の中に言うには、「家康公より、相馬の所領は没収(無沙汰)となったが、佐竹へ賜る恩地(御知行)の中から一万石を分け与えることになっているので、是非とも秋田へ移るように」とのことであった。

この趣きを承り、上下の者が驚いたことは察するに余りある(人事察して然るべきである)。義胤が仰せられるには、「家の破滅の時が至ったと見える。秋田へ移るほかに他事はない(仕方がない)」とのこと。

利胤が仰せられるには、「お考えの旨はもっともでございますが、私はそのようには存じません。当家は代々、天下の武将の下知(指揮)に従ってまいりましたが、今、(領地を没収されて)家に残って飢えと寒さをしのぐためとはいえ、佐竹の旗下に入って名字を汚すようなことは全く無意味(詮なし)です。江戸府へ上って訴訟を申し上げ、わずかな御扶持(禄)であっても旗本として名字を残し申すべきです。そうでなければ、家を滅ぼすか、罪科を仰せ付けられるかになるでしょう」と、この一つの道に窮まり、強く主張なされたため、義胤も御納得されて、秋田への下向は無くなった。

利胤は牛越から武州の江戸へ上りなさった。お供には門馬甚右衛門、同・次右衛門、原近江、杉七左衛門、門馬長助、同・吉右衛門、岡田半左衛門、根関長左衛門、鈴木金兵衛、堀越庄左衛門、半杭吉兵衛、堀内半右衛門、小人の弥内、久内。坊主には祖栄、如信である。

義胤は、(蒲生)氏郷の御領内である田村の内、大倉へお移りになった。時に三春の城代は蒲生源左衛門といって氏郷の重臣であった。この人が様々にお世話を申し上げておいた。この時、付き従った侍は五十余人、小人が二十六人であった。

その他、一族で高禄の侍や身分の低い武士たちは相馬を立ち退き、三春領の所々、村々に居住し、折々には江戸府へ上って利胤へお目通り申し上げる者もおり、また、心志はあっても妻子を引き連れて立ち退く用意がなく、相馬に残る者もいた。このような者たちは、時々大倉へ参ったとのことである。

この時、泉左京胤政は前巻で申したように、(上杉)景勝の御家にて城主にもなれる身分であったが、この改易の沙汰を聞いて、景勝へお暇(辞職)を申し受けた。直江(兼続)はしきりに引き留められたけれども、「一族と言い、譜代の主君の困窮を見届けよう」と言って米沢を出て江戸へ上る道すがら、利胤へお目通り申し上げた。この懇切誠実な真心を忘れずに思し召され、利胤は左京胤政を御自愛(格別に寵愛)なされ、他の者とは異なっていた。三郡中の事を万事、胤政へお任せになったのもこの故であるとのこと。後に「藤右衛門胤政」と称したのはこの人である。

さて、利胤は江戸へお上りになられたけれども、宿を貸してもらえない時は、浅ましいあばら屋で一夜を明かされる時もあった。

その頃、本多佐渡守正信と申して、家康公の随一の老臣であったが、下野国の結城へ鷹狩りにお出ましになるとの由を道すがらにお聞きになり、門馬甚右衛門を御使いとして、訴状を捧げ持ち、(本多正信の)馬の口(くつわ)に縋り付いて仔細を伝達した。もっともこの甚右衛門は、体格が良く人物の出来た者であり、武勇と口才(弁舌)の共に兼ね備わった人物であったため、思い念ずるところを始終残すところなく、感涙を流して申し上げたところ、佐州(正信)が仰せられるには、「ともかくも江戸府にて評議を遂げ、追って注進に及ぶ旨」を仰せ下された。

「其方の仮名(通称)は」とお尋ねがあったので、「門馬甚右衛門」と申し上げる。

さて、利胤は江戸府へ到着し、法華宗の寺に宿坊を構えられた。御旗本(幕府の直臣)に藤野惣右衛門と申す者は、元来は太閤秀吉公の御代には金母衣衆(きんほろしゅう)であったが、どうしたことか流浪し、その頃、安積郡四本松の田村を伊勢の田村と申す人が下知(知行)されていたが、この田村の下に身を寄せておられ、かの惣右衛門殿と、まずこの旨を仰せ通じられたのだろうか、万事においてこの人のお取り持ちであったとのことである。

また、佐渡守(正信)殿の子息(本多政重)が、江戸で人を討って流浪なさっていたのを、直江山城(兼続)が婿養子にした。この時、山城は三十万石を持っていたとのこと。景勝が本領(会津)を没収され、山城の跡(米沢三十万石)を知行なさったため、佐州(正信)のご子息は山城の跡継ぎになる望みがないとして、加賀へ移られた。今、加賀藩(加州)で本多という名字の高禄の武士となっているのはこの子孫であると申す。

利胤がこの子息(政重)へ通じて頼み込まれたので、佐州(正信)へ相馬の事を詳しく申し入れてくれたとも言う。

さて、宗右衛門殿が申されるには、「何とかして訴訟の便宜(手がかり)が無くてはいかがなものか。時に、月夜畠の夜討ちの事などを申し立ててみては」と言われたので、「それも申し立てるならばもっともな事である。また、御当代(今の将軍家)の御譜代衆の中で、佐州(正信)へ直談判などをしてくれそうな人に、お知り合いは持っておられないか」と(尋ねられたが)、利胤のお知り合いにはいない。「それならば、義胤のお知り合いにいるだろう。奥州へ人を下して(使者を出して)お尋ねなさい」とのこと。

その時、門馬吉右衛門が「思い当たることがある」と言って願い出て、御使いとして(奥州へ)下った。

さて、義胤へ右の次第を申し上げたけれども、「御譜代衆の中に知り合いはいない」と仰せられた。

吉右衛門が申し上げるには、「秀次公が関白に任じられた時、伏見の城にて御祝儀があり、諸大名が御出仕された時、『きっと同列の衆は白洲(庭)に座る事になるだろう』と言って、私に円座(丸い座布団)を持たせてお出ましになりました。その時、(義胤公は)殿中の御縁側へ上がって座られ、供回りの人々は皆白洲に控えておりましたが、御祝儀の時間が長く、白洲の人々が炎天下で困り苦しんでいた時、(義胤公の)後ろにいた侍に円座を貸し与えられたところ、『かたじけない』と言って御名をお尋ねになり、ご自身も『島田次兵衛』と名乗られました。その島田殿は、今では御老中に次ぐ役職の人(旗本・奉行)でございますと申し上げると、ここへ御書状をお遣わしなさいませ。この事を思い当たったため、私を御使いに遣わされたのです」と申し上げた。

その時義胤が仰るには、「実にその事には覚えがあるけれども、その後は音信不通で長年経っていることであるからどうだろうか」と言われたが、「是非とも」と申し上げたので、「それならば」と言って御書状をお遣わしになった。

吉右衛門が持参して上京し、宗右衛門殿のお取次ぎで進上したところ、島田殿も「確かに覚えております。御用があれば仰ってくださいと申したのはこの時の事です。いささかも疎略にはいたしません、お任せなさい」と言って、利胤の宿舎へお見舞いにお尋ねくださり、宗右衛門殿と御談合されて佐州(正信)へお口添えされたところ、佐渡守(正信)殿も御納得されたとのことである。

また相馬のことについて、内々に(家康公が)蒲生氏郷へお尋ねになった時、伊達と相馬の対戦を聞き及んでいた事を申し上げて語られた(ということも有利に働いた)。

また小笠原伊豆、その頃は丹斎といって佐州(正信)のお取り持ちで御扶持人になっていたが、これ(相馬の件)についても佐州(本多正信)がお尋ねになったところ、伊達と相馬の対戦の勝負について、丹斎も度々戦場に出た人であるので、ありのままに申し上げたとのことである。

佐州(正信)は忍んで(相馬の)宿坊へお出ましになり、利胤へご面会があった。それについて家康公へ言上(ご報告)があったところ、「相馬は武勇の武将であり、殊に訴訟の趣旨を隠すことなく、ありのままに言上したことは神妙である。人々は言い訳(陳謝)をするのが常であるのに、実直な言い分は奇特(優れて素晴らしい)である。恩愛をかければ忠誠を尽くす者であろう」との仰せが下り、同年(慶長七年)の十月に「本領の三郡を相違なく安堵いたすように」との旨が仰せ出された。

すなわち義胤・利胤は家康公、秀忠公に拝謁し、事の次第が無事に整った(首尾相調した)ので、上下の者は一時に愁いの眉を開き(安心し)、喜びは斜めならず(大変なものであった)。人質として、義胤の御妻は大倉から直接江戸府へお上りになられた。

さて義胤・利胤が領地(郡)へ御帰還され、祝儀が様々に行われた。

さて、得替の時(領地没収の危機)に見捨てて逃げた者どもは、あるいは切腹、あるいは追放、あるいは追いかけて打ち殺される者もあり、様々な罪科の品々を筆に書き記す暇もないほどである。「このような(危機の)時にこそ、主将たる人の思いやり(仁不仁)や、家臣の真の忠義・偽りの忠義が明らかになるものである」と古人も言っている。

義胤が大倉へ立ち退きなさった時、岡田与惣右衛門は伊達へ参ったが、追いかけて御書をお遣わしになったことによって、(相馬へ)帰ってきたとのことである。(※これは政宗が花光院に宿泊なさった時に約束があったためである)

この得替の時(改易の沙汰があった時)、相馬領の受け取りに来たのは、水谷伊勢守殿、大田原備前守殿、その他那須の兵衛殿、後には以柏(いはかし)と申したとのことである。

その頃、土屋民部少輔忠直と申したのは、武田勝頼が甲州天目山にて自害した時に討死なされた土屋惣蔵殿(昌次)の一子である。秀忠公へ召し出されて時を得ていらっしゃったが、利胤を妹婿にと公儀(幕府)がお取り調べ(斡旋)になり、その上、秀忠公を御主君となされる旨の上意(将軍の命令)であった。

利胤は江戸府にまだ家宅がなく、御旗本の大塚平右衛門殿の屋敷(※今の桜田)に小屋を掛けられていたのを借屋としてお住まいになり、同年の冬に嫁娶(結婚)の儀式があった。

土井大炊殿(土井利勝)をはじめ歴々が駕籠に付き添って(相馬の借屋へ)お出ましになり、七、八畳敷きの所に新しい筵(むしろ)を敷き、ここにて祝儀の献盃があったとのことである。

この妹は、実は御旗本の岡田竹右衛門殿の御娘である。これは(土屋)惣蔵殿が討ち死にされた後、その後室(未亡人)が竹右衛門殿へ嫁がれ、そこで誕生したのを、忠直が養育してこのようになった(妹として嫁がせた)と申した。この竹右衛門殿は後に大和守殿と申し、その後、公方(将軍)に従って松平周防守殿へ付けられなさったとのことである。

さて翌年、利胤の御妻は小高へ下向なされた。義胤の御妻もその後、年を経ずに御下向となった。

人質には義胤の御二男・左近及胤(およつぐ)が十一歳にて参府(江戸へ出仕)なさった。その後、秀忠公の御小姓に召し出されたため、この後また義胤の御妻が人質として参府なさった。

この後、利胤は宇多郡の中村城に居館を構えた。義胤は泉田城に御隠居された。義胤の三男・越中久胤(ひさつぐ)も参府し、秀忠公の時に召し出された。

また、得替の時(改易の危機)に御供した鈴木金兵衛・久内、この二人は御安堵の後に五十石ずつの知行を賜り、新山に住んだ。房主の如真(にょしん)は罪があって誅殺された。

義胤の御時、御家老は木幡因幡、新館彦左衛門、門馬修理、水谷式部、木幡出羽であった。

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