変容期の複素平面、外の拠り所から内なる原点へ
神話をひらくと、変容の季節に現れる者はたいてい嫌われている。須佐之男は高天原で暴れ、田の畦を壊し、機織り殿を血で汚す。その乱暴に世界が耐えかね、天照は岩戸に籠もり、光が隠れる。トリックスターも、嵐の神も、古い秩序の縁を踏み荒らす者は、まず憎まれる者として登場する。これは、悪だから憎まれるのではない。これまでの秩序を乱されるのが厭われるのだ。人は、いま立っている床がきしむこと、そのものを恐れる。だからこの憎悪は道徳の判定ではなく、位相の目印だと読んだほうがいい。誰かが激しく嫌われはじめたら、それは相転移が近いという気圧計の針なのである。現代のサッカーにも、同じ気圧の低下がある。審判をめぐる怒り。VARへの不信。判定が権力の側へ傾いて見える、あの落ち着かなさ。床がきしんでいる。
既視感は、螺旋の角度
こういう局面で決まって既視感が来る。「前にも、これと同じことがあった」。なぜか。生が対数螺旋を描くからだ。螺旋は一周すると同じ角度(位相)に戻る。だが半径は変わっている。だから戻ってきた景色は似ているのに同じではない。既視感とは角度の帰還を半径の違いごと感じてしまうことだ。歴史は反復しないが韻を踏む—あの韻の正体が位相の回帰である。嫌われる変容者もまた、螺旋のこの角度に周期的に現れる。彼は新顔に見えて実は何度も来た同じ位置の住人なのだ。
外の拠り所から、内なる原点へ
ここまでは、過去のどの自立劇にも当てはまる。だが今回は決定的にひとつ違う。これまで人が「自立」へ向かおうとするたび、必ず外に求心点を要した。天照、須佐之男、イエス、ブッダ、天皇、神。眩しいものを外に置き、そこを経由して自分を立てた。振り返ればそれはやや依存的で光源はいつも自分の外にあった。自立社会の新しさはこの一点にある。答えは内側にあり外側にはない。眩しい一点への求心ではなく各人が自分の原点になること。ひとつの中今から八百万の中今へ。スター型の依存から原点の分散へ。そしてここに静かな罠がある。
破壊者を主役にした瞬間、自立は自壊する
いま「実軸で行動しているのはあの破壊者だ」「壊すのは彼、壊されるのは商業化した既得権益(たとえばFIFA会長)だ」と言うならたったいま手放したはずの外の拠り所をこっそり連れ戻している。破壊者を英雄として実軸の主役に据えればそれは赤いネクタイをした天照にすぎない。外の光源そのものだ。「答えは内側にある」という見出しを本文の主役配置が打ち消してしまう。外の一人に主役を渡した瞬間、自立の論は自分で自分を壊す。しかも実軸の事実がその英雄譚に協力しない。サッカーも同じだ。あの騒動で権力はFIFAを壊すのだろうか。退場処分をFIFAが規則を曲げて取り消した。つまりFIFAが権力に向かって折れた。衝突ではなく融合した。破壊ではなく接近に一見すると見えた。結論は逆立ちする。破壊者を主役に置くと自立からは遠ざかる。嵐は角度を回す。だが半径は、決して回転からは生まれない。
審判という鏡
では、サッカーの審判危機は何の鏡なのか。
英雄が腐ったFIFAを壊す物語ではない。もっと深く、もっと自立的な出来事がそこに隠れている。VARは審判を純粋な実軸(客観的真実)へ移すはずだった。ところがサッカーは爪先のオフサイドも、ビルドアップのファウルも、本質的に虚軸(解釈)である。だから技術は裁量を消せず見えないブースの裏へ移しただけだった。結果、正統性(虚軸)が痩せた。外注していた「審判=拠り所」が、私たちの目の前で死につつある。これこそが自立社会の出来事だ。誰かが権威を壊してくれるのではない。外注していた審判が死に観る者ひとりひとりが自分の原点から公平を裁く側に立たされる。権威に「決めてもらう」時代の終わり。各人が自分の審判になるその苛烈な始まり。公平とは全判定の正解ではなかった。不偏と一貫と、受容だ。それを外の一点に預けられなくなったとき人は初めて自分の内側でそれを担わねばならなくなる。審判の崩壊は依存の終わりの、痛い産声である。
岩戸は自動では開かない
天岩戸で光は自動では戻らなかった。破壊とセットだから勝手に再生するのでも闇が非実在だから放っておけば明けるのでもない。天照が出てきたのは八百万の神々が集まり鏡を掛け、天鈿女命が舞い、みなが声をあげて笑ったからだ。多が実際に働いたから光は戻った。嵐は角度を回す。だが半径を外へ開くのはいつも多の手だ。だから確かめるべきは嵐ではない。回転する誰か(角度)を見つめても半径の符号は出てこない。見るべきは多の結び目が本当に自分の原点を灯しているか(半径 a>0)だけである。

P2Pの貨幣はその試金石になる。それが国家や巨鯨や強者個人に捕獲されず、真の分散として根づくのか。角度ではなくそこに符号が現れる。
水と忘己利他
須佐之男の弧は、破壊者から始まって、自立で終わる。天を追われ、出雲へ降り、大蛇を斬り、櫛名田比売を救い、日本最初の歌を詠み、草薙剣を天照に献じて和解する。彼は最初から光ってはいない。追放の向こう側で光を自分で獲得する。水に馴染む奥義とは、たぶんこういうことだ。敵を必要とせずに自分の原点で燃えていられること。押し返す相手がいなくても、まばゆくいられること。忘己利他は己の暴れと悲しみを手放して、他へ向き直った瞬間に静かに始まる。嫌われる者は扉ではない。合図にすぎない。扉を開けるのは鏡を掛け、舞い、笑う、名もなき八百万の—自分たちのその手だ。実軸に拠り所はもう要らない。原点は内側の中今にある。

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