時の終わり 【創作】
スマホから『時の終わりのための四重奏曲』が流れる。数年前、佳生と出かけた旅行中にふと立ち寄った教会で、演奏していた曲だ。あの時、ヴァイオリンとチェロ、クラリネットとピアノが奏でる陰鬱な旋律に聴き惚れながらも、遠い世界の曲だと感じた。でも、今は……。
「僕の最後のお願いを聞いてもらえるかな」
佳生の声で、現実に戻る。願いなど聞きたくないので黙っていると、佳生は再び同じ問いを発した。
「何?」
三度目を聞くのが嫌で、仕方なく応じる。
「村上春樹の愛蔵版が欲しい」
佳生の言葉は、私の身体を素通りした。チェコ語か何か、全く知らない言語のように。それから、しばらくして、頭の中にその言葉が蘇る。
「『街とその不確かな壁』の愛蔵版?」
念のため、確認する。作者直筆サイン入り、十一万円で売り出されたが、すぐに完売した愛蔵版を、佳生は欲しがっているのか。
「そうだ」
「あれは私のだよ」
「婚姻時の共有財産じゃないか」
確かに、愛蔵版を予約した時も、家に届いた時も、私と佳生は婚姻中だった。私のクレカで買ったけど、共有財産になるのだろうか。
三年前に結婚した時、実家暮らしの佳生が、私が借りていたマンションに引っ越してきた。だから、家具や家電製品は殆どが私のものだ。ベッドだけは結婚後に購入したが、メルカリで売り払い、その金は半分に分けた。
貯金も折半したし、こまごまとしたものは、結婚後に買ったのだとしても、私と佳生、どちらのものか、はっきりしている筈だった。
「あなた、小説読まないじゃない」
村上春樹に限らず。そう思った後で、ああと合点がいった。馬鹿みたい。佳生が浮気していると気付いたあの日から、日ごと、馬鹿になっている。
浮気相手の女が、『街とその不確かな壁』の愛蔵版を欲しがったのだ。うちに愛蔵版があると知り、手に入れてやろうじゃないのと企んだ。
佳生の性格が急に陰険になったことで、彼の浮気に気付いた。他に女ができたから、私に対してこんなにも邪険になれるのだと思った。だが、そうではなかったのかもしれない。女の邪悪な性格が佳生を呑み込んで、性格を変えてしまったのだろうか。
あの女は、私に嫌がらせをしたいだけだ。職場で時々見かける女の姿を思い出しながら、そう確信する。彼女は村上春樹など読まない。読書自体に興味がないか、「共感しかありません!」とインスタに書けるような、わかりやすい本しか読まないタイプだ。私から『街と不確かな壁』を奪ったとしても、冒頭の二人の共同作業あたりで、読むのをやめるだろう。それから、「感動しました!」というキャプションと共に、村上さんのサインの写真をインスタに投稿する。
それなのに、佳生は、そんな彼女のために、私の宝物を奪う気でいる。婚姻時の共有財産という空虚な言葉を吐いて、私を説き伏せようとしているのだ。
佳生と彼女の結びつきの強さを目の当たりにして、私の感情はまとまりを失くし、虚空を彷徨う。バラバラになった私は、メシアンの旋律に耳を澄ました。その中に、答えを見つけようとするかのように。
*
「代わりに、私の最後のお願いを聞いてくれる?」
七つのラッパが狂乱の踊りを舞う中、そう切り出した。
「もちろんだ」
ほっとしたように佳生が答える。何が何でも愛蔵版を手に入れなさいと厳命されたに違いない。
「お願いだから、死んで下さい」
「何だって? 早紀、馬鹿なこと言うなよ」
佳生の声が波立つ。
「本気で言ってるの、だって、三年間、本棚に近づいたこともないのに、今になって突然、村上さんの愛蔵版が欲しいと言い出すなんて、どうかしてる。そんな思いやりのない人は、死んだ方がいい」
「馬鹿なこと言うな」
佳生は、再び、同じ台詞を繰り返す。語彙力がない男。村上春樹を読まないからだ。
「あなたが死んだら、あの人に愛蔵版をあげるよ。何なら、村上さんの全作品つけてあげる」
そう言って、私はキッチンに向かった。シンク下の戸を開けて、包丁を二本取り出す。二丁拳銃のように両手にそれぞれ握った。
「何だ、それ、危ないな。早紀、馬鹿なことはやめろ」
佳生の顔が引き攣る。
「自分で死なないなら、私が殺してあげる。どっちがいい、自分で死ぬのと、殺されるのと。殺されたくないなら、ベランダから飛び降りて。六階だから、死なずに済むかもね」
脅して嫌がらせをしているだけだ、嫌がらせの仕返しをしているだけだ。そう思う気持ちもあるが、「六階なら、死なずに済むかも」などとあり得ない可能性を口にして、佳生に希望を与えながら殺そうとしているような気もした。
こんなことになるなんて。あんなに仲の良かった二人が。
ベランダの窓ガラスに、二丁包丁の女が映る。あれが私なのだろうか。
スマホの中の天使が、時の終わりを告げた。
完【1952字】
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