表現活動からつながるものー現代アートをみて③ー
1990年代、私たちはグローバリゼーションとオートメーションの加速により人との関わり方を変えてゆきましたが、このような時代背景の中で、「関係性の美学(リレーショナル・アート)」という概念がニコラ・ブリオーにより提唱されました。
リレーショナル・アートと呼ばれる、ことばにし難い社会的、心理的な「作品との人との関係」に注目した作品の例としてフェリックス・ゴンザレス=トレスとリクリット・ティラヴァーニャの作品があります。
ゴンザレス=トレスは、展示室の隣に常に総重量がこの作品を制作する前の年に闘病の末に無くなった恋人の体重と同じ79.4kgに保たれるようにしたキャンディの山を作り、そのキャンディは訪れた人たちが自由に持ち帰って食べることが出来るような作品「無題(ロスの肖像 L.A.にて)」を展示しました。
この作品は、キャンディという「無くなる可能性があるもの」を用いて「人の身体が少しずつ痩せていく様子」を表すと同時に、「食べられたキャンディは私たちの体の一部となり」、「人は亡くなっても物質や精神上では存在し続け、循環している」ことを表現しているようです。
1990年代にグローバリゼーションとオートメーションにより変化し、多様化た人と人がつながる方法を反映するように、1990年代からアートの世界も、鑑賞者が作品に参加することではじめて完成するような表現を追求し始めました。
リクリット・ティラヴァーニャは、所属意識や人間関係を国籍や人種、血縁、宗教などステレオタイプなものに求めることへの疑問を昇華し、人間関係を「アート表現をきっかけに集まる人々の関係」とする作品「untitled 1990(パッタイ)」を創り出しました。
ティラヴァーニャ「untitled 1990(パッタイ)」という作品はアーティストが展示空間で料理(パッタイ)を振る舞うことで、立場や国籍や地域を超えた人間関係を意図的に生み出し、「定義されていない無意識に形成された特定の共同体」を作り出しました。
これは、アーティストによって意図的に生み出された関係であり、アーティストのコントロールを離れた偶然性が生み出す再現不可能な新しい表現のかたちでしょう。
ティラヴァーニャは、物や行為が作品ではなく、アーティストの意図により集まった人間同士が作り出す「人間関係」と「再現不可能なもの」を作り出したのです。
しかし、本当に……新しい表現?なのでしょうか?
勿論、同じではありませんが似たところは、またはその萌芽はかつてのアートにもあるようで、梶井基次郎の『檸檬』にも、どこか現代アートに通じるシーンがあります(気に入っているシーンで、昔むかし、修論の紹介文にも使いました)。
輸入画集の売場で、突如主人公はオブジェ制作を始め、主人公は、自分が没入できない画集ならば、巨匠の名画であろうと「自分にとっての価値」はないと考え、画集の外観、表紙や背表紙の色を「ただの着色された物質」として「自身が考える美しいもの」である「創作物」の「素材」として利用します。
画集を重ね、山を作っては崩し、順番や組み合わせを変えては、また重ねる主人公。
そのたびに、山の色が変わり、形が変わり、ボリュームが変わります。
やがて出来上がった色彩の山の頂上に、主人公は、「レモンイエロウの絵具をチューブから絞り出して固めたような」檸檬をひとつ置くのですが、このとき主人公は、「自分自身」が創り出した「檸檬と画集によるオブジェ」によって、「自分の満足する美」としてのオブジェを見るこのオブジェに気づくひとの心のなかで何かが起こることを期待しているように私には思われます。
自分が作ったものが、「そのままの形でその場に放置する」ことにより、不特定多数の人々に関わりを持ち、そしてそのような関わりは、他の「生を肯定する」重大な関わりになるかもしれないと主人公が期待しているように思われるのです。
1924年、つまり『檸檬』が発表された年は、アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表した年でもあり、レディメイドやアッサンブラージュは、シュルレアリストやその先駆者であるダダイストが好んで用いた技法でした。
インスタレーションは、1960年代あるいは1970年代に一般化する制作・展示方法だが、源流を求めれば、やはりダダイスムに辿り着きます。
しかし、私には、梶井基次郎が流行を意識して『檸檬』という小説を書いたのではなく、梶井基次郎自身が、「いかにして外的に否定された生を肯定するか」についてのひとつの答えを示したように思われます。
芸術行為は今も昔も、「いま・ここ」の自分を表現することは、その過程において、他者と「生を肯定し」合えることもあるのではないでしょうか。
※見出し画像は、ゴンザレス=トレスの「無題(今日のアメリカ)」からです😌
