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さまざまな分野を横断する意義②ー話しことば、書きことば、そして世代から世代へ受け継がれる物語の進化について(中編)ー

「本質的に異なる歴史的現象を、歴史以外のものを説明する原則に無理矢理組み込んだとしても、また、その原則に収まらない歴史的に重要な出来事を単に偶発的なものとして片付けたとしても、文化進化の理論はすべての歴史的現象の特殊性や独自性に付随する多くの重要な疑問に答えることはできない」(Fracchia&Lewontin,1999)
「文化進化の理論は注意深く構築され、論理的に一貫性がありよく整理されている……。
しかしその定式化した扱いは歴史の常である迷路のように入り組んだ道筋や偶発的な複雑性、多彩なニュアンス、そして混乱には全く向かない」(Ingold et al. 2007)

社会科学分野の人たちが、社会の比較に積極的でない理由は、19世紀のスペンサー的な文化「進化」論への反動だけではないようである。

そこには文化的現象は独特かつ特別なものであるとする考え方や、文化は複雑に過ぎて単純な進化モデルでは分析できないという考え方が在るように私には思われる。

果たして、文化の変化は複雑過ぎて、中立的な不動モデルや個体群の動態モデルといった単純な数理モデルに還元することはできないのだろうか?

また、人工遺物や言語、社会、写本、帝国などはそのようなモデルと比較しても意味がないのだろうか?

紀元0年から1900年までのあいだにヨーロで繰り返されてきた帝国たちの興亡を説明すること。

それは、生態学者で歴史学者のピーター・ターチンが、学問分野の歴史は、個体生態学における動的で質的なモデルの導入によりより深い理解が得られると考え、歴史学、社会学、社会心理学における公式では表されない理論と個体群生態学の公式な定量的モデルの融合を図るために用いた方法だった。

ターチンは31の帝国について、
領土が最大時の20%から80%に拡大する興隆の期間、
領土の増加が止まってから減少が始まるピークの期間、
領土が最大時の80%から20%に減少する衰亡の期間の平均値を出し、それぞれがおよそ1世紀あることを明らかにした。

そして、この人間の数世代にわたる興亡を説明する出発点として、既存の歴史的解釈、特にランドル・コリンズの地政学的説明に注目した。

コリンズは帝国の面積(A)の増減は、戦争の勝利(W)、資源(R)、兵站(L)という3つの要素とその相互作用によって説明できるとした。

第1段階において、帝国は戦争の勝利(W)によって土地を獲得し、領土を広げ、第2段階においては領土が広くなるにつれて多くの資源(R)を得られるようになり、ますます戦争で勝利(W)を収めるようになり、面積(A)は拡大する。

しかし、第3段階になると、広大になった帝国では、軍の経費、市民の警備、資源の運搬などのためにより多くの兵站(L)が必要になるが、資金が追いつかず、兵器や食料が不足するため軍の働きが鈍り兵站が増えるにつれ、戦争の勝利(W)は減少する。

このような帝国は規模が拡大するにつれて経費の増大に苦しむようになるという「帝国の過剰拡大」という考え方は帝国の衰亡を語る現在の歴史的理論の典型でもある。

このようにシャーレ上のバクテリアの話のように単純ではないが、歴史上、成功を極めた複雑な社会は、端的に言ってしまうならば、最終的には身の丈に合わない暮らしをするようになり、必要とする量、あるいは現状を維持できそうな量以上の物を生産および消費した挙句、資源を使い果たして崩壊してきたのではないだろうか。

すでに、文明が消滅する直前に生産性がピークに達することは「帝国の過剰拡大」の考え方と同様に考古学では常に明らかにされているだろう。

私たちは、崩壊のかたちのひとつをラパ・ヌイ(以下イースター島)の歴史に見ることができる。

イースター島の歴史は、時代と場所を問わずこれまでの世界文明の多くに見られ、人間がいかに偉大であるか、しかしまたいかに誤りに陥りやすいかを教えてくれる。

イースター島という小さな島で生まれた注目すべき文明からは、人間が持つ輝かしい創造力が見てとれるが、他方でその文明は状況を見抜けず見抜けても「危機的状況はいつか過ぎ去る」という願望的思考(にしがみつく人間の愚かさ)にのために急速に崩壊したことが見てとれるだろう。

800年前にイースター島に移住した数十人のポリネシア人は、勇敢であり、長い航海を経て、地球上で最も孤立し先の見込みもないとされる島のひとつに移住した。

実は、このラパ・ヌイ人は、独自に文字体系を編み出した世界史上数少ない民族である。

完全な孤立状態の中で、独自の文字体系を編み出すという知的偉業を成し遂げたことは他に例を見ないだろう。

ラパ・ヌイ人は、一般的に必要とされる、物品の交易に伴ったアイデアのやりとりもなく独自の文明を築いたのである。

また、それほど肥沃でないイースター島が、効率のよい多産な土地に変わったことによって、急激な人口爆発が起き、数十人だった人口が1万人を超えるようになった。

農作物が豊富になると常に起こることであるが、社会の階層化と人口過剰が進み、頂点に君臨する者の権力と威信を確立するための建造物を造ることに励むようになり、実際、イースター島ほどの面積の島にこれほど多くの建築物が造られたことはいまだかつてない。

約1000体の石像は、驚くべき工業技術、芸術的創造力、職人の技能だけでなく、人間の貪欲さと虚栄心を示しているだろう。

なぜなら、当初、石像は高さ1メートル前後、重さは数トンくらいで荒削りなものであったのだが時間の経過とともに次第に大きくなり、最大の功名心を表す最も新しくできた石像は、高さ約12メートル、重さは約80トンに達した。

しかし、大きく立派な石像が作られていたころ、イースター島の文明は崩壊しつつあり、崩壊しつつある現実を見ないように見たとしても大丈夫だと安心したいという、願望的思考も加わって像は不必要なまでに巨大化したようにも見える。

なぜなら、人口過剰から資源が枯渇しているにも関わらず、イースター島では、根本的な解決を避けるかのように、島全体の半分にあたる巨大な石像は、巧みな牽引技術と人力を投じて、文明が崩壊しつつある間にも引き続き彫られていたからである。

人間の偉大さだけではなく、人間の分別と自制が欠如を絶えず思い起こさせるかのように石像は今も佇立している。

イースター島は、失われた過去の栄光を今に伝える壮大な遺物が残る教訓に満ちたしかし地球上で有数の悲しい場所であると私は思う。

一般的にではあるが歴史家やジャーナリストは、根本に隠れた原因を無視し、表面に現れた内戦、侵攻、政治的策略などの「結果」にばかり注目しがちである。

確かに、こうした結果は、ドラマチックな物語を提供するかもしれないが、人口過剰、資源の枯渇、気候変動といった根本的な原因が運命を左右したという、本当の物語を見落とすことにつながるとも私には思われる。

そして、数理モデルの力も借りながら本当の物語をみつめることが今の世界に住む私たちには必要であるように思われるのである。

さて、ターチンは変数と関連のすべてを定量的な数理モデルに変換しコリンズの理論を検証できるようにした。

例えば、コリンズの地政学理論によるターチンのモデルでは始点の異なる3つの帝国の興亡が示されている。

それは、帝国1は狭い領土からスタートし、資源(R)が少なすぎることにより崩壊する。(面積(A)が0になる)が、帝国2は帝国1よりわずかに広い領土からスタートしたため、戦争に勝つ資金があり、領土を拡大するが、やがて平衡状態に達し、兵站(L)の負荷のコストが戦争の勝利から得られる資源を相殺する。
帝国3は平衡状態に達しても始点は平衡状態より上にあるというものである。

このダイナミクスは、歴史家が考証してきた帝国の漸進的な興亡には似ておらず、地政学モデルでは帝国の崩壊と消滅(帝国1)か安定的な平衡状態に収束するか(帝国2、3)のどちらかとなり、この流が振動することはない。

ターチンは、人間社会の「振動する」ダイナミクスを1次モデルである(状態変数がひとつである)コリンズモデルでは作ることはできないとし、前回の日記でも少し触れた捕食者と被捕食者モデルのような2次モデルの観点から歴史的ダイナミクスを説明する必要があると主張した。

つまり、ターチンは、コリンズの地政学理論を個体群生態学が用いる定量的数理モデルに変換し、そのモデルを用いようと試み、帝国の興亡に影響しうるもうひとつの要因を帝国の社会的結束力(帰属意識の強さなど)であるとし、そして近代社会学の父祖のひとりであるイヴン・ハドゥーンが提唱した「歴史的ダイナミクス」という理論に拠って理論を構築した。

それは、小規模な社会では集団行動が欠かせないため結束が増し、その結束により周囲を攻め、領土を増やし、帝国を築くのだが、帝国が大きくなりすぎると、結束は低下し、帝国の崩壊に繋がるか、他の集団に侵略されるというものである。

これは「文化的集団選択理論」の具体的な事例でもある。

社会的結束という曖昧に見える概念の測定可能性は社会心理学の実験や実験経済学者の研究により裏づけられており、集団により幅があることも明らかになっている。

ターチンは、社会的結束力は帝国の興亡の理由を説明するものだと示唆し、帝国の面積(A)と結束力(C)の両方を含む2次モデルを構築し、個体群生態学のモデルが歴史的ダイナミクスを理解するのに有用であることを示した。

ターチンはことばだけによる理論を定量的な数理モデルに変換することにより、これまで見えなかった欠点を提示し、より妥当性のある理論を提示したのではないかと私には思われる。

ところで、偉大な文明はどれもやはり同じようなサイクルを辿ってきたのだろう。

つまり、残念なことに繁殖とテクノロジーで成功を収めたことが、結局悲しい運命につながるというサイクルを繰り返しているのである。

さて、約2世紀前、トマス・マルサスは、
「人口の力は、人間が生存するための糧を生産する地球の力よりも限りなく大きい」と、はじめて明らかにした。

マルサスは人口学に関する深い洞察を持ち、人口は幾何級数的に急速に増加する傾向がある一方、食糧は、算術数的にゆっくりとしか、増加しないと論じている。

つまり、マルサスの考えに拠ると、私たちは、人口爆発によって長い目で見れば決して勝つことのできない食糧供給との戦いに身を置くことになるのだ。

例えば、シリア、イラクやアフガニスタン、イエメン、ソマリア、リビア、ナイジェリア、コンゴなどの紛争地帯で起きていた非常に複雑な問題の根本のひとつは人口爆発ではないか、と私には思われる。

世界で最も人口が多く増えている場所は、アフリカ、中東、南アジアであり、さらにこれらなの地域は多くの人々を受け入れる体勢が地球上で最も整っていない場所である。

シリアは典型的な人口爆発を経験し、その人口は、1950年の300万人から、2012年には2200万人に増えた。

しかし、2006年から2009年は、気候科学者によって地球温暖化が原因とされた長期にわたる干ばつを経験した。

この干ばつで、大規模な不作が起き、農村に住む150万人の住民が都市部へ移住した。

そしてこのようなストレスが積み重なり、恐ろしい内戦と無政府状態につながり、さらには残酷な人口抑制をもたらし続けている。

悲劇としか言いようがないが、25万人から50万人が殺され、内戦前の人口の半数以上の人々が、国内での移動、あるいは国外への移住を強いられてきた。

この問題はまだ解決策は見えていない。内戦による崩壊と残虐行為はこれまでよりももっと悪い未来を約束する方向に悪化している。

紛争地帯は同様の構造の非常に複雑な問題を抱えている。

また、数十年前に、こうした内戦が、ルワンダとバルカン半島における大量虐殺を煽ったことは、過去と言うには、長い歴史のなかではごく最近のことなのではないだろうか。

しかし、誰も進んで人口爆発については話すことも考えることも恐れており、私も人口爆発を取り上げるか迷っていた。

なぜなら、人口爆発を取り上げることは、人口抑制にも触れることになるからだ。

たとえ人口爆発が、今の世界において事実上、問題の直接の原因であったとしても、人口抑制に触れることをメディア、政治的議論、学者の発表において、議論したり取り上げたりすることは、ほぼ絶対的と言えるほどタブーになっている面がある。

だから、最近の戦争や難民危機、飢饉、感染爆発の原因の分析は、ほぼ常に政治的・経済的・個人的見解原因のみに力点が置かれる。

根本的原因のひとつであるはずの人口爆発に触れられないのは、どうしてもついてまわる人口抑制が暗示する恐ろしい含意や連想、具体的には、ヒトラー、優生学、生殖に対する制限、深く根付いた宗教的信念との矛盾、家族生活主義の破壊という話題から皆、逃げているからに他ならない。

トマス・マルサスは、心理学的な洞察から「人間の弱い理性は、理性よりも強力な生殖本能に対してほとんど影響を与えない」と論じ、人口学的な洞察からは、「人口の力は、人間が生存するための糧を生産する地球の力よりも限りなく大きい」とはじめて明らかにしマルサスは人口学に関する深い洞察を持ち、人口は幾何級数的に急速に増加する傾向がある一方、食糧は、算術数的にゆっくりとしか増加しないと論じ、私たちが人口爆発によって長い目で見れば決して勝つことのできない食糧供給との戦いに身を置くことになることを予見した。

いかに食糧供給を増やすバイオテクノロジーが優れたものになっても、今度は地球の広さの限りに気づくことになる。

マルサスは「知恵と抑制心がなければ、将来に貧困と悪徳が発生する」と予測していたが、当初からマルサスの説は人間の知恵が生殖に対するDNAの強い欲求の力を上回ると考えていたテクノロジーを楽観視するものたちに反対されてきた。

しかし、実際に人類の人口は、1万年前に農業革命が始まった頃は500万人だが、その後マルサスが唱えたような目まぐるしい速度の人口増加が起き、キリスト誕生時には3億人まで増え、1800年には10億億人、1927年には20億人、1960年には30億人、1974年には40億人、1987年には50億人、1999年には60億人、2023年には80億人を超えた。

マルサスの予測によれば、テクノロジーによる成功の後に起きる人口爆発によって報われるのは、ごく少数の人に過ぎないという。

確かに私たちの持つ繁殖力の高い生殖戦略は、1万年以上前に人類が直面した環境には完全に適合していただろう。

しかし、人口不足の世界では素晴らしい戦略だった戦略も、現代の人口過剰の世界では全く素晴らしくない戦略である。

人口過剰の外的現実に、私たちの本能はきわめてゆっくりとしか変化せず、また文化的信念の変化も切迫した環境の危機が進むスピードよりずっと遅いのである。

チャールズ・ダーウィンも、アルフレッド・ラッセル・ウォーレスも、生物間の競争を経て起きる自然選択が、進化につながるという発見が出来たことは、マルサスの著書を読んだことがきっかけであり、人口は常にどこでも食料供給を上回る傾向にあるため結局は生存に最も敵した変異を持つものが生存競争に勝つと考えたようである。

心理学では、フロイトが進化に関するダーウィンの洞察を、精神的症状や夢、神話、芸術、人類学、日常生活の浮き沈みといった幅広い世界に巧みに利用した。

さらに、アーネスト・ジョーンズは自分が崇めるフロイトの伝記を記し、彼のことを「心のダーウィン」と呼んだ。

このように、さまざまな思想は数珠つなぎに繋がっており、さらには網の目のように多くを包んでいる。

しかし、そのような思想よりも、私たちの願望的な思考は私たちの遺伝子の奥深くに入り込み、未だに、厳密な論理や科学的事実を、頑固にはねのけているようである。

この願望的な遺伝子は、私たちの祖先においては重要かつ有用なものだった。

なぜなら、私たちの祖先は、自分が住む世界を、実際には、ほとんど支配できず、また、機械論的に世界を理解することも出来なかったため、魔術的思考や儀式、神話を用いて、自らが世界を支配しているという幻想を作り上げて精神的な安心感を得ていたからである。

しかし、雨乞いのために儀式舞踊をしたり、獲物を誘き寄せるために洞穴の奥に絵を描いたり、病気を治すためにジャーマンと霊界を訪れることに意味が無いであろうことを理解しているはずの現代に生きている私たちには、願望的思考は、有用どころか、有害なものである。

実際に、私たちは、不断に起こる戦争、慢性的な資源や食糧の不足、繰り返されるパンデミック、それらの背景にある地球温暖化などの人類生存の脅威がなくなることをただ願い、そのような危機がなんとか魔法のように消え去ることを思い描き、最後の最後に、テクノロジーによって救いの手が差し伸べられるのをおとなしく、しかも意味もなく待っている。

しかし、たとえ、願望的思考に陥りがちな人間の性質に変わりがなかったとしても、私たちを取り巻く状況は、時間の経過とともに大きく変わっているのである。

進化の過程において人間が端役を演じていた時代、ほとんどすべての事柄が私たちの力が遠く及ばないところで、起きていた。

今や人類は、ステージの中央に立ち、強力な立場を手に入れている。

それは、言うなれば、私たち自身とこの世界を救うための、あるいは、破壊するための立場である。

確かに、その重い立場のなか、願望的思考を持ち続けることによって、一時的には気分がましになったり、少なくともやましい気持ちを減らしたりすることは可能であろう。

しかし、そのようでは、実際にある問題を解決する現実的なステップを踏むことができなくなってしまう。

今この瞬間に、願望的な思考にとらわれて生きるならば、私たちは、先の世代に対しての責任を負うことを忘れてしまっているということになるのだろう。

願望的な思考は、事実をも覆い隠すようだ。

例えば、テロリズムに関する報道で、ほとんど触れられていないのは、人口過剰の世界で仕事や結婚のめどが立たず、自らの命以外に失う大切なものがない若者たちであふれた世界から、テロ行為が起きている、という事実である。

私たちは世界において、人口過剰がテロに限らず、多くの悲劇を引き起こす原因のひとつとなっていることから目を背け続けることは出来ないだろう。

シーア派とスンニ派の紛争は決して単純なものではないが、そこでは、ほぼ常に、多すぎるシーア派と多すぎるスンニ派が、減少する資源をめぐって、戦っているという側面がある。

それは、ツチ族とフツ族の争いでも、パシュトゥーン族とタジク族との争いでも、タミル族とシンハラ族の争いでも、ユダヤ人とパレスチナ人との争いなどでも同じである。

ほぼすべての戦争や内戦で、人口過剰の(家父長制の)部族が、同じように人口過剰の近隣の部族と、急速に減少する土地や食料、水などの資源に対する権利をめぐって戦っている。

 E・O・ウィルソンが言っていた

私たちが、「石器時代の感情と、中世の信念と、神のようなテクノロジーが奇妙に融合した状態で」存在していることは、概ね正しいように思われる。

私たちは、私たちの持続可能な生存な未来に、ではなく、現状では、DNAの身勝手な利益に、やみくもに使えていると言ってもよい文化的伝統にも支配されているのかもしれないが、世界がその文化的伝統による支配から脱却することは、簡単な作業ではないだろう。

世界中で戦っている部族たちは、自らの生き残りをかけて、相手と戦っていると思っているであろう。

しかし、実際は自分たちの部族の人口過剰と、それを促す不適切な文化的伝統に対して、勝つことの困難な戦いを続けている面があるのである。

人口の問題を素直に語ることは、文化的伝統から外れるようにすら思えるであろうし、また実際そうであるのだが、必要不可欠なことでもあろう。

人口抑制をほのめかすことで煽られる宗教的、および民族・部族的感情があまりに強く、理屈に合わないものである場合、粘り強く、私たちの世界は、その感情に立ち向かわなければならず、また人口動態に関して、至るところで粘り強く学び続けなければならない時期に差し掛かっているのだ、と私には思われる。

現在、私たちは、「まだ大丈夫」という願望的思考によって自分たちの限界を押し広げ、すでに、環境の悪化、人口爆発、天然資源の減少、気候の変動という壁に直面している。

私たちの文明もまた、願望的思考から、速く我に返らなければ、未来の考古学者たちから、私たちが賢明であったと同時に、なぜこれほど愚かであり得たのか、と首を傾げられる日が来るであろう。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

※見出し画像は、ニコラ=セバスティン・アダムの「プロメテウス像」からです😌




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