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授業の「ものさし」

 今から10年以上も前に、首都圏の公立小学校で副校長を務めていたときのことだ。
 カンボジアの僻地にある学校の若手教師たち数名が視察のために来日し、私の勤務校にも立ち寄ることになった。
 来校した一行に、まずは授業を見学してもらうことになり、4年生の教室に案内をした。授業は「総合的な学習の時間」である。
 授業が始まると、すぐに子どもたちは数人ずつのグループに分かれ、各自が調べてきたことについて情報交換をしたり、どのようにまとめるかについて相談を始めたりした。
 すると、授業が始まってから数分後、カンボジアの若手教師の一人が通訳を介して尋ねてきた。
「いつになったら授業が始まるのですか?」

 最初は質問の意味がわからなかった。
 だが、その話を聞いているうちに、初めて日本の授業を見る彼には、子どもたちが三々五々に活動をする様子が遊んでいるようにしか見えず、それで先ほどの質問をしたのだということが理解できた。驚いたことに、それは彼一人の印象ではなく、一行の全員がそのように感じていたのだった。
 当時のカンボジア、特に僻地の学校では、教師が一方的に説明した内容を生徒が暗記するというスタイルこそが授業だったのだ。そんな彼らにとって、この日の「総合的な学習の時間」は、子どもたちが休み時間にワイワイ騒いでいるようにしか見えなかったのだろう。
 けれども、彼らを責めることはできない。彼らの「ものさし」では、「子どもたちが静かに教師の話を聞くこと」こそがよい授業なのだろうから。

 さて、日本ではどうだろうか。
 現行の学習指導要領には、情報化やグローバル化が急速に進展する近未来を見据えて、これからの時代に求められる資質や能力が掲げられた。また、その育成に向けた授業改善のために、各学校では研究授業が行われている。
 しかし、そうした研究授業の授業者や参観者の「ものさし」は、新しい学びにふさわしいものに取り換えられているだろうか。
 少なくとも、依然として学習指導案通りに授業を展開することに腐心している授業者や、授業後に決まり文句のように「子どもたちが落ち着いて学習に取り組んでいましたね」と感想を述べる参観者の「ものさし」が、新しい物になっているとは思えない。

 10年前に出会ったカンボジアの教師たちには、「ものさし」を新しい物に取り換える術がなかった。だが、日本の教師たちにはそれがあるはずだ。
 だからなおさらのこと、古い「ものさし」を持ち続けることについては反省が必要なのである。

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