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正しさは、一人では扱えない――ロードス島戦記・カーラとパーンをめぐって(後編)

はじめに|四十年経っても、消えなかった違和感

前編では、『ロードス島戦記』という物語の中で、なぜ灰色の魔女カーラという存在が、単なる「倒されるべき敵」として処理されなかったのかを見てきました。

物語の構造だけを見れば、正義の戦士パーンが、世界を裏から操っていたカーラを止める。
それで一件落着、と読むこともできます。

それでも読み終えたあとに、どこか釈然としない感覚が残る。
倒されたはずのカーラが、問いとして生き残ってしまう。

この違和感は、1980年代、今からおよそ四十年前に読んだときだけのものではありません。
むしろ時間が経つにつれて、形を変えながら、現代の私たちの足元にまで近づいてきたようにも感じられます。

技術は進歩し、制度も複雑になりました。
それでも、

  • 誰かが正しさを決める

  • その正しさが、別の誰かを傷つける

  • そして責任の所在が、誰か一人に集約される

という構図そのものは、ほとんど変わっていません。

カーラの物語は、過去のファンタジーでは終わらなかった。
むしろ今の社会のほうが、彼女の存在を必要としてしまっているのではないか。
そんな感覚さえ覚えます。


なぜ「正しい」と感じきれなかったのか

カーラの思想は、理解できてしまいます。
世界は自然に均衡へ向かうわけではない。
放置すれば歪みは拡大し、弱い部分から壊れていく。

だから誰かが介入し、歴史の流れを調整しなければならない。

この考え方そのものは、冷酷ではあっても、荒唐無稽ではありません。
むしろ現実社会の制度設計に近い。

それでも私たちは、カーラの行動を「正しい」とは感じきれない。

この違和感は、感情的な反発ではないと思います。
問題は思想の中身ではなく、それがどのような工程を通って実行されたかにあります。

カーラの正しさは、彼女一人の判断で完結していました。

  • 誰が決めたのかが見えない

  • 異議申し立てができない

  • 修正や取り消しができない

  • 影響を受ける側に選択肢がない

これは、社会的な「正しさ」としては、きわめて不安定な形です。


正しさには「工程」が必要である

社会の中で正しさが受け入れられるために、それが必ずしも正解である必要はありません。

むしろ重要なのは、私たちも間違う可能性を含んでいることです。

社会的な正しさには、

  • 複数の視点が入り込む余地

  • 判断が分散されている構造

  • 時間をかけて修正できる工程

が含まれています。

この工程があるからこそ、正しさは「力」や「暴力」にならずに済む。

カーラの正しさは、あまりにも完成度が高すぎました。
一人の中だけで完結し、揺らぐ余地を持たなかった。

完成された正しさは、社会の中では扱いきれません。
それは正しさである前に、支配になってしまう。


カーラは何を象徴しているのか

ここで、カーラという存在を「一人の魔女」「一人の悪役」としてではなく、象徴として見る視点が必要になります。

カーラは、世界の歪みそのものを、一人で引き受けてしまった存在です。

本来、世界の歪みは分散されるべきものです。
制度や時間、多くの人の選択によって、少しずつ引き受けられる。

それがうまく機能しなかったとき、「誰か」が必要になる。

カーラは、その「誰か」になってしまった。

彼女は強すぎたのではありません。
一人で背負うには重すぎる役割を、背負わされてしまったのです。


人は「思想」を扱えない。だから「アイドル」を必要とする

人は、思想や構造そのものを、そのまま扱うことができません。

抽象的な正しさ、構造的な歪み、長い時間をかけて生まれた不均衡。

それらは、目に見えず、触れることもできず、責任の所在も曖昧です。

だから人は、それらを人格化します。

英雄。
指導者。
黒幕。
悪役。

ここで言う「アイドル」とは、称賛の対象という意味ではありません。
思考を引き受けさせるための象徴です。

複雑すぎて扱えないものを、一つの顔に集約する。
理解できない構造を、一人の存在に押し込める。

カーラは、そのためのアイドルにならざるを得なかった存在です。

「カーラが暗躍している」という構図は、非常に分かりやすい。
しかしその分かりやすさの代償として、世界の歪みはすべて、カーラという一点に集約されます。

人は「構造が悪い」という概念とは戦えない。
だから「誰かが悪い」という物語を必要とする。


アイドルは、社会を守ると同時に、歪ませる

アイドルは、思考の負荷を軽くします。
責任の所在を分かりやすくします。

その意味では、社会を一時的に守る役割も果たしています。

しかし同時に、アイドルにすべてを背負わせた瞬間、社会は考えることをやめてしまう。

カーラを倒せば、問題は解決したことになる。
そう思えてしまう。

けれど実際には、倒されたのは象徴であって、構造そのものではありません。

カーラが止められたあとも、世界の歪みは残り続ける。

だから彼女は、倒されてもなお、問いとして生き残ってしまうのです。


パーンの行動は正義だったのか

では、パーンの行動は正義だったのでしょうか。

パーンは、カーラの思想を昇華させたわけではありません。
代替案を示したわけでもない。

それでも彼は、目の前にいる「個人としてのカーラ」を止めました。

パーンには、世界の構造を再設計する力はありません。
正しさを別の形で実装する方法も、見えていなかった。

それでも止める。
分からないまま、
それでも止める。

この行動は、英雄的というより、人間が取り得る最小限の選択だったのだと思います。

正しかったかどうかではなく、他に選択肢がなかった行動。いま困っている人のために。

その限界を含めて描いている点に、ロードス島戦記という物語の誠実さがあります。


わたし自身がいまでも持っていること

最後に、わたし自身の妄想を、少しだけ書き留めておきたいと思います。

わたしは世界や社会を見ていて、見えないカーラという存在を、どうしても否定しきれません。
物語の中の人物としてではなく、むしろ、どこかで実際に「存在しているのではないか」とさえ感じています。

社会の天秤は、いつも均等に保たれているわけではありません。
大きく傾き、今にも崩壊しそうになることのほうが多い。

それでも長い時間で見たとき、完全に崩れ落ちず、かろうじて均衡が保たれているように見える瞬間があります。

そのとき、傾いていない側の皿に、目には見えない力が、静かに作用しているのではないか。
わたしには、そんなふうに思えてならないのです。

見えないからといって、存在しないということにはならない。
そして世界は単純ではない。

制度でも、法律でも、個人の正義でも説明しきれないところで、何かが働き、何かが調整され、時間をかけて、かろうじて均衡が保たれている。

それをカーラと呼ぶかどうかは、重要ではありません。

ただ、見えないからといって、存在しないことにはできないものが、この世界には確かにあると思っています。

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