そろそろ読み終わる
今は17章 1917年夏 を読み始めました。
奇蹟を求めて、繰り返し「ビーイング」という言葉が出てくる。
“マスターがテレパシーでスカウトしに行くということ”を思い出していた。教会など、ある特定の場所へ集合しなくても、共通して伝わるものがあるという。次に、イニシエートという言葉が思い浮かんだ。
それは、今朝読み進めた先にあった。485ページから。「秘儀伝授」とも。
この言葉にすら注意深くなる必要がある。この本に書かれていることは生半可ではない。難しい。
何度も何度も読んでいくのだろう。
ゲームのスイッチを入れて、遊んでいる中に私達はいる。ゲームで遊んでいる間は眠っている。しかも、リセットすれば…また一からやり直し。この中で、仕組みを知らずして為すことなどできない。
スイッチOn/Offの決定権は私達にはないように思う。それに対して、強制的に目覚める。
重心を変える。
根本的に、スッパーンと一発二発叩かないと駄目なのか。それでも駄目なもんは駄目。
厳しいですね。
超努力、すごいですよね。
超努力のもう一つの形態は、あらゆる仕事を、その仕事の性質上要求されるスピードよりも速くやることだ。君は何か、たとえば洗濯とかまき割りとかをやっている。一時間分の仕事だ。それを三十分でやる――これが超努力だ。しかし実際には、人は自分に、持続的にあるいは長時間、超努力をさせることは決してできない。これをするためには、容赦のない他者、方法をもっている他者の意志が必要だ。
一九一七年夏
色んな実例があると思う。
確かに、数分したら気が反れる自分がいます。超努力まではいかなくても、継続して何かをし続けることは大事だと思いました。
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最近、曼荼羅絵を描いています。「いしと、ちいさな生命たちへ」の連続した投稿のことです。⑤からきり替わったのは、そのせいです。
私はまだ、ライフシンボルに関して学んでいません。奇蹟を求めて を読むのに集中していたので、終わった段階で、こちらにも目を通したい。
ただ、可変サイドリアルチャート読みが終わり、エニアグラムなどの法則図へと移行した今、この状況下においての「曼荼羅絵」を描くということはどういうことだろう。
絵も音楽も、その人のビーイングをうつしだす。
良い鏡だ。
だから、同時に発展を考えることができる。
向き合っているのは、自分自身です。
けれど、多くの人に見られるというだけで、変容が起こると思うのです。
曼荼羅絵を描くことは、タロットカードを描くこととはまた違った側面でのアプローチがあります。タロットカードを描いた時に起こったこと、中々でしたから。
それに加えて、どうして黄金比、白銀比、ルート3になっているのかな。そのように意図することとは。
よくよく考える。
まだ認識に違いがあるかもしれない。手探り感あるけど、読みながら描く。
(ああ、これは意識の10の階梯に書いてあるかもしれない。早く今の本読み終わって移行だ)
