雨の日、ずぶ濡れで帰ったあの日の記憶
親は子どもを心配する。それは、当たり前だ。だって、かわいい我が子なんだから。
怪我をさせたくない。
寒い思いをさせたくない。
嫌な思いをさせたくない。
だから、
そこは走らないで、こけちゃうよ。
雨に濡れるから、外で遊んじゃダメ。
そんな言葉をかけることも、やっぱり、愛情があるからゆえのこと。なにも責められることでもなく、否定するつもりもない。
けれど、何かを「止める」ことは、その子にとって、ひとつ体験を奪うことでもあるということを、わかった上で声をかけている大人はどれほどいるだろうか。
長男は、何度も坂道を走り降りて、こけて。擦り傷をして、泣いて、「ママー」と大騒ぎをした。
こけても大怪我にならない芝の坂道なら、私は見守ることをした。走らんとき、とは言わない。
今では、少々なことでは坂道でも転ばなくなった。アスファルトでも、ちょっとハラハラするけど、大丈夫かなと見守っていられる。
もし私が厳しく止めていたのなら、長男は今もちょっとの坂道でこけてしまう子になっていただろうと思う。
こんな日のことを思い出した。
小学生のころ。帰り道。友だちと二人。
急な大雨に見舞われた。
傘はない。
どうしよう。
私たちは何を思ったか、雨に降られてみた。その場で立ち止まって手を広げて、全身で雨を受け止めた。
頭のてっぺんから足の先まで、ずぶ濡れ。
靴下もびしょびしょ。
それが、ものすごく気持ちよかった。
水浸しになった自分にも笑けてきて。
この感覚は、やった人じゃないと味わえないと思う。服のまま、びしょびしょ。
雨の温度。雨のやさしさ。
そういったものを全身で感じた記憶。
胸にしっかり焼き付いているから、今こうして書いている。
でも、大事なことを忘れてしまっていたのだ。
私は、その後、どうなったんだろう…と。
全身びしょびしょの姿で、家に着いて、出迎えた母はどんな顔をしていたのだろう。
私はまったく覚えていないのだ。
けれど。
今もなお、あれはおもしろかったなぁと、良き思い出として蘇ってくるのだから、母が私の経験を「ダメなもの」と否定することをしなかったのだと思う。
きっと、「何やってんの!」と言いつつ、笑ってくれて、タオルで急いで拭いて、お風呂に入って、あたたかな思い出のまま、とどめてくれたのだろうなと。
心配をすることは簡単だ。
けれど、その心配を愛で包み、信頼をもって、まるごと受け止めて、見守っていく、母の気概。
そんなことに想いを馳せると、私は、あたたかな母の愛に守られて育ってきたんだなぁと、涙が止まらなくなった。
だから、私は、森のようちえん このはの活動で、そんなまなざしで子どもたちを見守っていきたいなと心から思うのだ。きっと、母からもらった愛を、受け継いでいきたいのかな、そんなことまで考えたことないけど、ふとそう思った。
雨の日。
ずぶ濡れで笑い合った経験がありますか?
それを、今、大切な思い出として、自分の中にあるということは、あたたかく見守ってくれていた、誰かの存在があるっていうことも、忘れてはならない。
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