ASDがマジョリティになる時代とか

ざっくり言えば。
現代において“発達障害”とされているものは、脳の部分的な発達遅延によるもの……らしい。
発達特性のある子どもたちと関わっていて。
常に思うのは。
『これが、本来の人間の根底にあるものだろうなぁ……。
彼らは、まんまで生きてるんだろうなぁ……。』と。
近年、そういう子が増えてるんだそうな。

でも、待てよ……。
うちの父も、たぶんわりと濃いめのASD。
時代が早すぎたから、支援とか配慮とか、そういうのがないまま、社会に適応する重荷だけ背負わされて(?)大人になっちゃった人。
その子どもの私も、特性が薄まったASDの要素を持ってる。私も負荷を背負わされたけど、特性が薄まってる分、対処する術を自然獲得できちゃった人……と見立てると、わりと筋が通る。

話を戻して。
今、発達特性のある子か増えているという現実があるとして。(ひょっとしたら、そういう特性を持つ子に意識が向きやすい、受け入れられやすい、認められやすい時代になった…とも言えるのかも)
今までは、特性の上に『社会に出るにはこうあるべき』みたいなものを被せられ、父のように(私のように)苦しさを抱えながら生きなければならなかった。
それが今は『その子がその子として(特性を持ったまま)よりよく生きる』ことを、社会が掲げ始めた。
この延長線上に『特性を持った人間がマジョリティになった社会』があるかもしれない。
そんな事が、ふと頭に浮かんだ。
同時に、まだ言葉を持たず、コミュニティもつくらなかった時代があったらしい……というのも思い浮かんだ。たとえば、縄文時代。

この2つがミックスされた『螺旋状に1段上がった縄文時代』みたいな社会が、この先にあるのかもしれない。
一度、飽和を迎える時代を経て、戻ってくるとしたら……。
その世界は、どんな世界なのかな……。

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