✴️医師と酒とFCPA─「いい時代」は誰にとってのものだったのか
ある70代の開業医が、ぽつりとこう言った。
「昔は接待で毎日のように飲み食いできたし、いい時代だったなぁ」
「翌日、酒が残ったまま診察してたこともあったよ」
「今はコンプラ、コンプラでつまらん」
笑い話のようで、時代の断層を感じさせる一言だ。
かつて、製薬会社による医師への接待は珍しくなかった。
高級店での会食、ゴルフ、学会名目の出張…
営業は“関係構築”の名のもとに夜を重ね、医師側もそれを当然の文化として受け入れていた。
だが、ある時期を境に空気が変わった。
接待は急速に縮小し、会食は「情報提供の一環」として形式化され、上限額が細かく定められるようになった。
その背景の一つにあるのが、米国の Foreign Corrupt Practices Act(FCPA) だ。
🔶FCPAとは何か
FCPAは米国で制定された法律で、米国企業やその関係者が海外で贈賄行為を行うことを禁止するものだ。
重要なのは「米国内だけの話ではない」という点だ。
🔸米国企業
🔸米国市場に上場している企業
🔸米国企業の子会社
🔸米ドル決済や米国内のサーバーを経由した取引
こうした接点があれば、海外での行為でも適用対象になり得る。
つまり、日本の製薬会社であっても、米国に子会社を持つ、あるいは米国企業と取引がある場合、FCPAの影響を無視できない構造になっている。
🔶「医師」はなぜ対象になるのか
そもそも、FCPAは「公務員への賄賂」を禁じる法律だ。
しかし、国立病院や大学病院の医師は、公的機関の職員に含まれると解釈されることがある。
そのため、製薬会社が医師に過度な接待や金銭的利益を提供することは、贈賄リスクとして扱われるようになった。
🔶開業医は公務員ではないのになぜ?
理論上、FCPAの直接対象にはならないはずだ。
それでも接待が激減した理由は
線引きが難しいから。
医療機関の公的関与はグレーが多い。
ならば全体を締めたほうが安全になる。
そしてもう一つ。
米国本社が「世界共通で過度な接待は禁止」と決めれば、日本法人も従うしかない。
つまり、法解釈の問題ではない。
リスクを最小化するという経営判断の結果だ。
もちろん、FCPA“だけ”が原因ではない。
日本国内でも、製薬業界は自主規制を強化してきた。
代表的なのが、日本製薬工業協会(JPMA) の透明性ガイドラインだ。
講演料、原稿料、寄附金、研究費…
すべて公開対象となり、「誰にいくら払ったか」が社会の目にさらされる構造になった。
🔶接待文化の終焉
その結果
🔸高額な会食は激減
🔸1回あたりの飲食上限が明確化
🔸接待目的のゴルフや旅行はほぼ消滅
🔸営業担当の裁量は大幅に縮小
医師から見れば「つまらない時代」になったのかもしれない。
しかし、営業担当者からすれば、夜の拘束時間は減り、グレーゾーンのプレッシャーから解放されたとも言える。
「いい時代だった」とは、誰にとっての“いい”だったのか。
🔶構造が変われば、価値観も変わる
かつては“人間関係”が処方を左右すると言われていた。
今は、エビデンス、ガイドライン、透明性が重視される。
もちろん、理想と現実にはまだ距離がある。
だが少なくとも、「酒が残ったまま診察する」ことが武勇伝として語られる空気は、明らかに後退した。
コンプライアンスは窮屈かもしれない。
だがそれは、医療が本来「公共の信頼の上に成り立つ仕事」であることを示している。
接待文化の終焉は、単なる楽しみの喪失ではない。
医療とお金の距離を測り直すプロセスだったのかもしれない。
いい時代だったのか。
それとも、都合のいい時代だったのか。
時代は少しずつ変わっていく。
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