耳を切る
周りと同じことをするのがひどく面倒に思えた。
僕はその頃十八で、高校三年生だった。誰だって高校生にもなれば、そんな風に感じることはある。けれども僕の場合は、その年頃特有のポーズとしては少しばかり深刻らしかった。
「卒業アルバムを見ただろう?」当時の担任だった先生が、眼鏡をずらしながら言った。「君が写っているのは最初に撮った集合写真だけだ」
「そうでした?」
「グレていたわけでもないのに、卒業した生徒でそんなのは見たことがない。担任でなければ、君のことは忘れていただろう」
先生は眼鏡をかけ直して一人で笑った。
学校行事をさぼることは、僕にとってはとても当たり前のことだった。それはきっと、たまごから孵った雛が親鳥を探すのと同じくらい自然なことだった。
「あなたには」妻にそんな話をしたら、彼女は何だか困ったなという表情を見せた。「もしかして、友達がいなかったの?」
「いたさ」僕は首を横に振った。「何人かはね」
もちろんクラスに友達はいた。ただし彼らもみんな、同じような面倒くさがりだったから、一緒に何かをした記憶はあんまりない。
もしかしたら彼ら以外のクラスメイトには、僕という人間自体の記憶がないのかもしれない(僕の中に彼らの記憶がないのと同じように)。
あるいはとても損をしたのかもしれないけれど、そのことで僕は特に後悔をしていない。
学校行事をサボることで、べつに不自由だったり、居づらく感じたことはない。そういうタイプの人間として諦められていたから、誰も参加するよう言ってくることもなかった。
ただ、――これは恐らく行事なんかよりずっと深い問題だったと思うのだけれど――クラスの女の子と話す機会はほとんどなかった。
席替えで一度、ある女の子の後になった。その女の子は栗色の髪をいつもポニーテールにして、青いリボンを結んでいた。
その子は白いきれいな耳をしていた(これは言い訳ではなく、後の席からだと自然に視界に入っていたのだ)。
ある日、世界史の授業中に、僕はうっかり消しゴムを落とした。消しゴムは床に弾んで、その女の子の足元に転がった。
まるで、「ここまでおいで」と歌うような、憎たらしい転がり方だった。もしもミック・ジャガーが消しゴムだったら、『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』を歌いながらあんな転がり方をするかもしれないと思った。
もっとも、どんな転がり方をしたのであれ、それは僕にとって、少しばかり困った状況だった。
学校行事をさぼる高校生男子にとって、ポニーテールできれいな耳を出した女の子の足元から消しゴムを拾うことは、ライオンの母親から赤ちゃんライオンを奪うよりも難しい。
ましてその女の子に「ねえ、僕の消しゴムを拾ってもらえるかな」と話しかけることは、明日から学校に来られなくなることを意味していた。
諦めて机に突っ伏しかけた時、僕の眼の前にそっと消しゴムが置かれた。
机の上から見上げると、「はい」と言って彼女は笑った。
その日から、僕は時々授業中にわざと消しゴムを落とした。彼女はその度に拾って、「はい」と返してくれた。
次の月に席替えがあって、今度は窓際の一番前に座ることになった。それが僕にとって、高校最後の席だった。
年が明けると、もう誰も学校へは行かなくなった。僕は気分転換に、生徒が誰もいない学校へ行って、進学指導室で受験勉強をした。
元々、進学指導室へはよく行っていた。国語と数学と英語の先生がいたから、わからない問題があってもすぐに教えてもらえる。受験勉強をするには好都合だったのだ。
僕の他にも、進学指導室には常連が三人いた――一人は背の高い男子生徒で、僕の近所に住んでいた。後の二人はよく知らない、違うクラスの女の子だった――。けれども、もう受験本番が眼の前に迫ったタイミングで、わざわざ学校へ出てくるようなもの好きは僕しかいなかった。もちろん、ポニーテールの彼女も来ることはなかった。
結局僕は、第一志望の国立校には受からなかったけれど、遠くにある、そこそこ有名な私立校へ受かった。
卒業式が終わると、教室でアルバムや配布物を受け取った。担任が「じゃあ、みんな元気でな」と言って、解散した。
みんなすぐには教室を出ずに、「記念撮影をしよう」と誰かが言った。
僕はそのまま部屋を出た。
それから家の近くで一度、彼女と出会った。
一人でラーメンを食べに行くつもりで道路を渡ろうとしていたら、反対側の歩道で彼女が手を振っていた。
彼女の髪は相変わらず栗色だったけれど、緩やかなウェーブがかかっていた。もうポニーテールではなく、青いリボンも結んでいなかった。
「こんにちは」すれ違いながら僕は言った。
「ふふ」と彼女は笑った。「こんにちは」
そして僕はラーメン屋へ行った。不味くはないけれど、あまり印象の残らないラーメンだった。あの頃は、どこにでもそんなラーメンがあった。
スープを全部飲んだら、丼の底に豚の絵がプリントされていた。豚は片目を閉じて笑っていた。
次の日僕は、父の運転する車で故郷を去った。
最初の夏休みに帰省して、友達の一人に会った。
「お前、知ってるか?」居酒屋のテーブルにジョッキを置いて彼は言った。「あの事件の話」
店内には、ウィンクの『淋しい熱帯魚』が流れていた。
「事件だって?」
「Uが耳を切り落とされたんだよ」その友達は声を潜めるように言った。「変態のオーストラリア人に」
Uは、ポニーテールの彼女の名前である。
「切り落とされた?」
「ああ」
「両耳とも?」
「ああ」と彼は頷く。「両耳ともだ」
彼は再びジョッキを持ち上げた。
居酒屋を出て、友達と握手をした。
「またな」彼は時計を見た。「また帰って来いよ」
「ああ、また会おう」
僕はそれから、家まで歩いて帰った。
街灯に照らされた商店街で、僕は血にまみれた二つの耳のことを考えた。
いいなと思ったら応援しよう!
よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。