不穏な宿
仕事で北陸へ出張した。
各地へ顔を出しては、表向き歓迎されたり、渋い顔であしらわれたりして夕方になり、とうとう予約していたホテルへ行くと、思っていたのと案配が違う。どうも、随分古いようである。
前回の北陸出張では、泊まった宿が学生寮のような所で、図らずも時を遡ったような懐かしさを味わった。
この様子では今回も何だか不思議なことがあるに違いないと思っていたら、畳敷きの和室へ通された。ビジネスホテルで畳の部屋は初めてなので幾分面食らった。
おまけに、この部屋には風呂がない。入浴の際は二階の大浴場を利用してくれと、フロントのおじさんにそう云われ、自分はいよいよ面食らった。
このフロントおじさんは、どうもどこかで会った気がするおじさんだったが、どこで会ったか判然しない。何にしても本当に会ったわけではなく、誰かに似ているだけのことだろうとタカを括っていたら、じきにプリキュアおじさんに似ていることに思い至った。
娘が幼い頃、よくハウジングセンターで開催されるプリキュアショーへ連れて行った。
着ぐるみのプリキュアが悪者をやっつけた後、子供たち一人々々と握手・記念撮影をしてくれるイベントで、お客は小さな子供らとその保護者が大半だったけれど、そこへ混じっていつも一人で来る紺色スーツのおじさんがいた。
それがプリキュアおじさんなので、毎回見かけるものだから勝手に知り合いみたいな気になっていたが、こちらが一方的に覚えているだけである。だから近くのショッピングモールのフードコートでスンドゥブ鍋を食っているのを見かけた際も、既のところで声はかけずにおいた。
そこまでは思い出したが、それをフロントのおじさんに話したってしようがない。だから、あなたはプリキュアおじさんに似てますねと云いたいのを懸命に抑えながら、自分は部屋へ入った。
畳敷きの部屋は普通のビジネスホテルより落ち着くような気もしたが、何かが引っ掛かる。どうも空気の匂いが違う。
畳の匂いは確かにあるが、それだけではない、不穏な匂いがするように思われるのである。あんまり気になるから、一先ず部屋を出て風呂へ入った。
風呂は、先日の学生寮より幾分大きいが、大浴場と云うには少しく物足りない。浴槽はさほど大きくなく、シャワーも五つあるきりだ。それでもちょうど他の客がいなかったから、その点は気分が良い。自分は夏目漱石の『坊っちゃん』を思い出し、浴槽で泳いでみた。
本気で泳ぐには深さ広さが足りないけれど、気持ちが良いには違いない。自分が泳いで湯が波立つ。もう一度泳いで尚々波立つ。泳いで波立つのは当たり前だが、風呂で泳いで波立たせる機会というのは存外ない。悦に入りながらもう一度泳いだところで、急に人が入って来た。
「……」
「……」
泳ぎを止しても、水面だけは揺れているものだから、甚だ決まりが悪い。
自分は急いで体を拭いて出た。振り返ると、水面はまだゆらゆらしていた。
そうして部屋に戻ったが、やっぱり何だか引っ掛かる。ぐるりと見渡し、柱に小鳥の絵が掛かっているのに気が付いた。ことによると、これをどけると御札でも貼ってあるのではないか知ら。
恐る恐るめくってみると、果たして御札はない。その代わり額の裏に「結婚記念 昭和五十九年 哲司 弘子」と油性マジックで書いてあった。
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