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怒る中国人

 仕事の用事があって、中国人社員の陳さんと二人で北京へ行った。世界が今よりももっと穏やかに見えていた頃である。
 季節は五月で、日本ではもう暖かかったからそのつもりでジャケット一枚で行ったら、甚だ寒くて閉口した。見ると現地の人も陳さんも、みんなコートを着ている。
「随分寒いようだね。全体、北京の緯度は日本だとどの辺りなんだい?」
 陳さんは困った顔をした。どうやら緯度という単語がわからないらしい。彼は通訳として雇われている割に、日本語のレベルが甚だ低い。
 緯度について説明するのは面倒だし、そもそも知ってどうなるようなことでもない。「まぁいいよ」と言って、その質問はそれぎりにしておいた。後になって自分で調べたら、秋田県と同じぐらいだった。それは寒いのに決まっていると得心した。
「百さん、そんな格好で寒くないの?」と、陳さんが今度は感心するような顔をした。

 日が暮れて、晩飯は地の物を食いたいと云ったら、陳さんは目を輝かせた。
「地の物がいいの? 百さん、珍しいね」
「そうかね?」
「いつも甘木さんたちと中国へ来ると、日本食の店がいいと云うね」
「せっかく中国へ来て、それじゃぁつまらんじゃないか」
「オッケー。じゃぁ何にする? 店は色々あるね」
「全体、何があるんだね?」
 そこへ知らない中国人が、何だか云ってきた。
「何だって?」
「そこの店で北京ダックはどうかと言ってるね」
「北京で北京ダックか。いいじゃないか。そこにしよう」

 店内には円卓が並んでいた。自分は中国の料理店と云えば円卓というイメージがあるので大いに嬉しくなった。
 店員の女子が空いたテーブルをきれいにするのに、薬缶からお茶をかけて拭きだした。
「お茶で拭くのか」
「そう、中国ではああするね」
 他のお客はみんな中国人らしい。随分がやがや賑やかで、映画だったらじきにジャッキー・チェンがけんかを始めそうな案配である。
 すると隣の席で食事をしていた婆さんが、急に店員に怒り出した。何だかひどく怒鳴りつけている。
「あの婆さんは何を怒っているのだね?」
「ええと、うん、時価が高すぎるって怒ってるね」
「時価は、それぁ高いだろう」
「あのお婆さんは、山東の方かな、田舎の人だね」
 山東がどこなのかは知らないが、中学生の頃に功夫映画で時々聞いた地名である。
「山東は田舎なのかい?」
「うん、田舎だね」
「ところで陳さんはどこの人?」
「私は上海ね」
 何だか勝ち誇った様子である。そう云えば、中国で一番いけ好かないのは上海人だと以前他の中国人から聞いたことがある。
 陳さんは山東の婆さんを眺めてニヤニヤしている。

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