見出し画像

個人主義全盛のいま、どう自’律’するか

今の時代、非常に「個人」が尊ばれるようになった。
それだけに、個々人に合わせた「個別」の対応をする重みが増している。

分かりやすいのは、性に関する問題だ。最近は「ジェンダーフリー」などといって、男女の性差が限りなく小さくなるような配慮が求められるようになっている。
男性はかくあるべし、女性はかくあるべし、といった固定観念、いわば強制性からの脱却ができるようになった。

ほかにも、メディアなんかもわかりやすい。
かつて力を持っていたのは新聞やテレビといった「マスメディア」だった。人々に強制的に情報を垂れ流し、一定の世論を形成する力を持っていた。学校のクラスなんかで「昨日の△〇って番組、面白かったよな」なんて話をするとき、私たちはマスメディアの「見せる」という圧力にさらされていた。

しかし、いまやYouTubeやらfortniteやらが全盛の時代である。最近の子供は、ゲームなどの仮想空間上で出会ってから現実で会うなんてこともあったり、好きなコンテンツはみなばらばらで、共通のネタはない。このように、メディアも同様に「これを見ろ」という強制性からの脱却ができるようになった。

ほかにも、Web3.0の世界観なんかもそうなのだろう。ブロックチェーンの技術を使って、絶対的な権力を持ったひとりが支配する構造からの脱却を図っている。個人に権力は分散して、生活するだけでなぜか金がもらえる仕組みもある。労働における上司の命令など、権力による強制性からの脱却ができるようになりつつある、といってもいいかもしれない。

いろいろ言ったが、要は強制性からの脱却が進む、即ち「かくあるべし」とする規範が薄れているということだ。個人的には別にこれが悪いとは思わないが、強すぎる自由の追求は、人の自由を制約してしまったりすることもあると思う。

ジェンダーフリーでいえば、「性から自由であるべきだ」という考えのひとは自由を追求しすぎると、「男は仕事、女は家事」という既存の考え方を強烈に否定して強くバッシングしたりする。これは「男は仕事、女は家事」という考えを持つ人の思想の自由を制約するかもしれない。

それゆえ、自由には個々人の強い自律が必要になる。自由に周りに影響を及ぼそうとすることが別の人の自由を制約することになる。そして、残念ながら人間はそんなに立派な生き物ではない。
だからこそこれまでルールで縛り付けていたわけだけれど、そこからの脱却は社会にとって実は無秩序で混沌とした世界を産み落とすことになるのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!