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判断

 パソコンを新調した。MacbookからMac miniにしたのでキーボードとマウスも買い、かな変換やコピペすらままならない状態で悪戦苦闘しながらこの文章をタイピングしている。英語配列のキーボードを初めて使っているのだけれど、思考に指先が追いついていないような感覚がある。子供の運動会で思い通りに走れない親のようだ。打った瞬間の感触(いわゆる打鍵感)や小気味の良い音は申し分無いのだけれど、各キーの配置にどうも慣れない。アットマークのようなたまに使う記号の場所が分からず、手癖で変なところを押してしまった後にキーボードを凝視して探すという作業が頻発する。それからエンターキーがちょっと小さいので常に小指を這わせておかなければならず、逆手である左手の作業量がこれまでより増えた。様々な選択肢を検討した末に選び抜いたつもりのキーボードなので、もう少し慣れるまで使ってみるつもりではあるが、最終的に日本語配列のキーボードを買い直す未来が見えなくもない。

 現状の環境に何かしらの不満がある時、自分の努力や忍耐が足りないのか、あるいはどうすることもできない根本的な欠陥がそこにあるのか、立ち止まって考える瞬間がある。前述したパソコン周辺機器のように「物」が対象だと話はまだシンプルなのだけれど、「人」が対象となると話は違ってくる。会社や学校なんかの組織における対人関係において、常に正しい身の振り方を判断するのは難しい。「とりあえず様子をみよう」と保留した物事が、気付いた時には悪化していたり手遅れだったりする。判断を急いでミスを犯すことは個人的には少ないものの、見逃し三振みたいな受動的な過ちがたまにあると、ある小説の一節を思い出す。

神よ 願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ。

カート・ヴォネガット『スローターハウス5』

 正しく引用するために検索してみたところ、どうも『嫌われる勇気』の中でも全く同じ一節が引用されているらしい。そもそもが『ニーバーの祈り』と呼ばれる神学者の言葉が元になっているようなので、カート・ヴォネガットにしても引用していたに過ぎない。そういうものだ。

 最初のパラグラフを書いていた時よりもタイピングに慣れてきた。ただ、細かな設定やらアカウントの引き継ぎが全然できておらず、それに取り掛かるのも億劫でMacbookを開いてダラダラと使ってしまう瞬間はまだ多い。おそらくこれは当分続きそうである。しかし、今のところiPhone 8を買い替える予定はない。

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