可能性オタクの私が見つけた豊かさ
最近、自分の中にある傲慢さを見つけた。
「なんで人の言うことを聞かないんだろう?」
そんな問いを自分に投げかけた時、
私は誰の言うことも聞かずに成り上がりたいと思っているのかもしれない、と思った。
現実を見ろと言われても、現実を見たなりの結果しか手に入らない。
私はもっと自由に、もっと楽しく、もっと予想を超えた人生を見てみたい。
現実を超えた現実を引き寄せたい。
そんなことを思っている自分がいた。
今思うと、なかなか偉そうである。
でも掘り下げていくと、少し違った。
私は成功したいわけではなくて、
「ほらね、世界って思ったより面白いでしょう?」
と言いたかったのかもしれない。
私は昔から数字があまり好きではない。
数字そのものではなく、数字だけで世界を説明しようとする考え方が苦手だった。
1+1は2。
もちろんそうなのだけれど、
人生は時々、1+1が10になる。
思いもしなかった出会いがあったり、
予想していなかった展開が起きたり、
説明できないほど満たされる瞬間がある。
私はそういう可能性を信じていたい。
非合理の飛躍を夢見ている。
そんな話をしていた。
そしてふと気づいた。
私は飛躍したかったんじゃなくて、
飛躍を受け取りたかったのだと。
最近、朝5時に起きて犬と娘と散歩をしている。
暖かくなったので、公園の草の上を裸足で歩く。
犬は走り回り、娘は朝露の残る芝生の上をハイハイで近づいてくる。
時にはそのまま尻もちをついて座り込み、一緒に空を見上げる。
少し前まで、朝5時なんて苦痛だった。
でも今は違う。
保育園に行くようになると、一緒にいられる時間は少なくなる。
だから娘は私にこの時間をくれているのかもしれない。
そんなふうに思えてしまう。
事実かどうかは分からない。
でもそう思えた瞬間、その時間は「大変な早起き」ではなく、「贈り物」になる。
そして気づいた。
私は何も一人でここまで来ていなかった。
娘がいて。
犬がいて。
猫がいて。
主人がいて。
友人がいて。
地域の人がいて。
数えきれない出来事や出会いがあった。
私は自分の力で飛躍したかったんじゃない。
たくさんの贈り物を受け取りながら、ここまで運ばれてきたのだ。
そう思うと、人生はますます面白い。
まだ何が起こるか分からない。
だから私は今日も、可能性を愛している。
