浦里異聞
爛れ、腐敗を極めし廃郷は、潮腐れの褥に沈澱す。
剝落せし板壁、砕けし甍、口腔を曝す戸口。傾いだ納屋、潰れた網藏、砂に埋もれた櫂、藻まみれの石段、底の割れた魚籠。濱風が軒端へ触れるたび、乾いた骨音が路地を巡る。からり。ころり。かさかさ。磯臭、魚脂、濕土の香は赤錆の苦みへ變じ、舌根を貫く。家屋は肋、路地は腸、崩れた祠は凍て固まった心臓。浦里は、冥界の淵に横たわる宏大無邊なる骸へ、ゆるやかに屍變していた。
腐木の逆剥には水蝕が凝結し、瓦の破片は潮膜の鈍き光彩を帯びる。浮子を覆う塩粒は黄昏の微光を啜り、路傍の海草は風の息吹を受け、執念深き掻き毟りを反復す。さり。さり。微音は石段の下で細まり、濕砂の上で解け、潮溜まりの縁へ伏す。背後には濃密なる静けさが澱む。しん。虚空と称するには余りに重く、指先を濡らし、絡みつく汚泥の感触さえ備えていた。
廃屋の内奥には、畳の腐爛、柱の腐蝕、竈の灰、裂けた障子紙が重畳す。灰、褐、墨。夕闇は深部へ至る道程で痩せ細り、悉く床板の奥底へ呑み込まれた。空虚の裡にも、確たる重量が居座る。ずしり。梁を圧し、床板を凹ませ、屋根の傾斜の鋭角さを増幅させる、不可視の圧力であった。
西空の残照が山際へ沈淪してゆく。朱は紫へ、紫は藍へ、藍は際限無き漆黒の墨へ。宵闇は喪の帳を被覆し、家並みを包み、砂浜を覆い、漁港を封縛した。妖美なる幽闇が水面へ滲み込んでいる。
雲の縁に蟠る白さも山影へ没落し、岩礁は異形の膨張を宿し、近傍の廃屋は平たい形へ潰れた。視界を隔てる距離と境界線は、尽く狂い歪んだ。岸辺の硬直すら確たる手応えを喪失し、石塊と砂礫と溟水との境目は緩慢なる融和を成した。漣が立つたび、虚空の薄皮は裂け、交錯し、重なる。色彩の退く反響が、瞼の裏へ鋭利なる寒気を帯びて木霊した。
静謐は、偽妄なる安堵の衣を分厚く纏っている。寄せ返す白波は穏やかな音を立て、軒下へ潜る隙間風にも甘い眠気が滲む。凪いだ水面の底層では、逆しまに凍てつく焦燥が脈打っていた。静寂なる轟鳴。鼓膜へ至る以前から脳髄を圧迫する、重力と粘性を帯びた鳴動である。ずうん。
波音の途絶は怯弱の増幅を招き、風音の生還は戦きの姿を隠蔽する。深さ、重さ、鈍さの際立つ幽相。小石を引く潮、釘を擦る板、砂上を転がる貝殻。明瞭な響きが発せられるたび、背後の無音は濃度を増してゆく。響動は静謐を破らず、静謐も響動を呑み込まず、両極の境位は相互の抱擁の裡に泊地を塞縛した。
突堤には一隻の廢漁船が独り佇んでいた。
舷側を覆う牡蠣殻。海面を舐める腐れ綱。裂けた甲板、砕けた窓硝子、喉を挫かれた煙突。船名の跡には黒錆が咲き、文字の墓標すら塩水に喰われている。岸壁へ寄り添う廢舸は、陸から切り離された絶海の島嶼へ変生していた。
膨れた塗膜から褐色の錆汁が垂れ、無数の汚れが喫水近くで玄冬の淵へ交じる。寄せる波浪は洗浄を放棄する。触れ、含み、濃き染みを刻む。床板の裂け目には柔らかな腐朽が巣食い、操舵室の幽冥は砕けた窓から外を窺う姿勢を崩さず貫く。一切の開口を曝しながらも、内部の空間は固く閉ざされている。無言の幽気が舟艇の隅々へ、重い錨を沈めていた。
蠢きは極めて微細なる振幅を伴った。ぎい。波止場の鐵環が鳴った。
震えは赤錆の芯へ潜り、根元の塩粉を崩し、石積みから土底へ沈む。耳を離れた余韻は氷刃の触覚へ変じ、濕砂、石垣、祠の礎へ細き染みを滴らす。ぎい。ぎい。爛れ腐敗を極めし係留索が軋む。
外板を叩く小波は濡れた掌を静かに重ねた。ちゃぷ。ちゃぷ。いたわりの所作であり、覚醒を呪発する拍動でもある。腐木の節穴、割れた舷窓、冥き船倉口。鎖印せし瞼へ転生せし空洞が、沖合の霊動を絡め取っていた。
柔らかな水音の底には硬き打撃音が混じる。裏側で応じた響動は梁の陰を渡り、隔壁の奥へ潜った。朽舟は動く素振りを露わにしない。微動だにせぬ固守が、却って全体を軋ませている。凍えた緊張が継ぎ目を塞ぎ、配管へ詰まり、動力部の鉄肌に凝結していた。
浦の目、船の耳、潮の鼻、冥府の舌。交わる知覚器官の集合が恐懼の極致を象り、入江の大気を強固に締め上げる。磯臭が鳴り、潮騒が肌へ触れ、暗鬱の色が苦い澱みを形成した。
沖合に青白い点が浮かぶ。ぽつり。孤影の光。微小な群れ。拡大する燈列。無数の輝き。鬼火であった。
怪火は波頭で燃え、濡れる傍ら乾き、冷える傍ら灼ける。青は鋭い金音の鳴動を振るわせ、白は腐花の臭気を撒き、紫は甘い痺れを指先へ運んだ。燈列が溟海の常夜を飾るにつれ、荒廃した砂浜に束の間の華やぎが宿る。格子へ淡光が入り、塩まみれの硝子片は宝珠の輝きを返した。
蒼波へ隠れても炎は絶えず、水中から薄く透き通る。浮かべば細く伸び、沈めば円く凝固する。紫の縁取りに囲まれた中心部には、針先大の墨色が居座る。光の揺らぎに一切従わぬ暗点が、廃郷の感覚を外洋へ引き寄せた。
妖艶の極致を体現していた、鬼火は。美の極み、美の絶頂、底冷えを伴う凄愴たる麗しさを誇っていた。ぞくり。清らかな光ほど廃屋の陰を深め、傷口を鮮やかに彩る。安堵は緩み、緩みへ畏怖が滑り込んだ。見入る静けさと背ける衝動とがせめぎ、青白い残像を胸奥へ刻む。美しい。禍々しい美。禍々しい。目を奪う禍々しさ。華やぎが禍事への不吉なる反転へ急転直下す。
妖光の下で海面が盛り上がる。ぬちゃり。軽さを喪失せし隆起であった。海底から押し上げられた水塊が丸く張り、燈の色に鈍い歪みを与える。細微なる気泡が表面を滑り、個別の泡ごとに青白い明滅を宿した。浦面は形を固守せんと張り詰め、下方からの圧は内側へ潰れようと迫る。
丸い黒影の先陣が、隆起を伴い水上へ出た。後続の影。更なる集団。水面を埋め尽くす無数の怪形。肩と胸との境を削ぎ、脳天から崩れ墜つる水は猛烈なる重なりを成し、海域一帯へ濡れた幕を垂らす。ざあ。ざあ。ざざあ。顔面には鼻梁も唇も備わらず、濡れた黒壁の中央には縦長の裂け目が穿たれていた。ぽっかり。海坊主の群れである。
亡霊火の淡光が玄色の曲面へ貼りつき、緩慢なる引き延ばしを受ける。照らされてなお漆黒は退色を拒絶し、底の深さを増した。裂け目の内部へ光は至らない。縁の部分は蒼い浮遊感を呈し、奥の淀みを際立たせた。
怒りの霊兆も静穏の霊兆も刻まれぬ容貌。読み取る徴の払底が威圧の形をとり、恐懼は視界の全幅を占拠する。
一躯が浮上すれば激浪が堤を痛撃す。数躯が巨躯を起こせば停泊杭が震えた。群れが水平線を塞ぐや、洋の冥境は禍々しき肉塊へ変じる。小波は大波へ、大波は激浪へ、激浪は絶望の山脈へ。怪火は異形を巡り、額へ集い、裂け目に吸われ、吐き出された。
白く砕けた飛沫が石の隙間へ指を差し込み、引き波は砂利を削り奪う。震動は土底を奔り、朽村の柱、浮いた釘、屋根の欠片を鳴らした。距離は隔てとしての機能を喪失した。外海の重みが岸辺へ密着していた。
海は奥行きを喪失す。肉山が蒼穹を狭め、水面を狭め、視界を圧搾する。
前方の絶壁と、背後の荒廃。
両極の狭間において、泊地は薄い空隙へ押し潰された。
浦里は畏怖に縮こまる。戸板が震え、瓦片が跳ね、祠の鈴が細かな音色を響かせた。ちりちり。廢船は孤立を貫き、慄怖の底から歓喜を啜り喰らっている。床板の亀裂が緩み、錆びた蝶番が蠢き、船倉には深き息吹が満ちた。
生界の岸は拒み、冥界の舟は迎える。腐臭が揺れ、濕爛が梁を這い、昇降口の冥闇を膨らませた。歓喜は白日なる性質を削がれる。底泥の泡に宿る極寒の気を含み、動力室から操舵軸を経て、舳先の骨組みへ染み渡る。潜伏を極むる熱情と逃避を欲する戦慄とが、内装の奥深くで相互に噛み裂き、輪郭を喰らい尽くした。
孤絶の雫が天井から滴下した。ぽと。水滴は木材を離れ、暗がりを降り、銀の筋を引く。落下の推移は異様なる長さを誇る。濕気、油垢、黴の胞子、鎖の赤錆が微小なる球面へ縮映された。朽ちた内燃機関は逆さの揺動を露わにする。歯車の摩損、弁の固着、管の裂け目。鐵鋼と腐朽と玄冥が狭小なる水球の内部へ収攬された。
鐵床は酷寒を深く含んで蠢動を窺う。絡繰は赤錆を分厚く纏い沈殿を固守する。鎖は静止の裡に威力を溜め込む。接触直前の空隙に、轟音を孕む無言が凝縮した。
ぴちり。微音が空洞を貫く。
薄い水輪が油垢へ触れ、鈍い虹色を浮かべた。響きは細微なるまま腐木の孔へ入り、配管の腹を渡り、舵柄の軸へ絡む。固着した境目が震え、淀みに細かな皺が刻まれた。
直後、歳月は一息に圧壊した。漁の往還、魚鱗の煌めき、網の重み、荒潮の激震、砕けし舵、沈む燈、溢れる海水、鎖せし眼窩。順序を喪失せし残像が極限まで圧縮され、動力部の内部へ流れ込む。光と無明、熱と寒気、重みと浮力。凝縮された衝撃が歯車へ食い込み、鐵の芯を内側から抉り浮かせた。ごきり。唐突なる躍動を顕し、廢漁船が動く。ぶるる。船底が震えた。
震動は肋材へ渡り、隔壁を経て、甲板の裂け目まで昇る。牡蠣殻が擦れ、船腹の藻が水中で揺れた。かち。かち。濁った気泡が浮かび、喫水の烏羽色へ触れて弾ける。ぶるるる。がたん。がたがた。どどどどど。沈黙を嚙み砕き、腐朽した心臓部が唸りを轟かせた。油は泥へ變じ、歯車は錆に固まり、燃料槽には塩辛い潮水が満ちている。鐵の肺は異常なる膨らみを成し、鼓動は拍ち、拉げし煙突から煤色の呼気が噴出した。
回転は滑らかな軌道を描かない。引っ掛かり、途切れ、嚙み、荒い巡行を成す。錆片が砕け、泥油が泡立ち、管壁を衝く潮水が重き息を洩らす。ぼこり。ぼこり。熱を宿らぬ錆鐵の氷霧が機関室を満たす。
弱い震えは低い唸りへ、低い唸りは荒い駆動へ、荒い駆動は船体の全域を覆う戦慄へ。朽ちた鐵鋼は痛みを燃料に据え、腐った管は静寂を吸い、闇色の息を虚空へ垂らす。
停止せし心臓部が回る。回る動力が舟を揺する。揺れる舟艇が索を引く。引かれた索が鐵環を絞り縊る。
ぎりり。麻綱の繊維が一条ずつ断ち裂かれる。細い断裂が撚り目を巡り、濡れた芯へ食い込んだ。石積みは沈黙の重量で抗い、推力と固着との狭目で縄本体が痛みを背負い込む。ぎり。ぎりり。ぶつん。鋭利さを伴う短い断裂音が宵闇を劈いた。
切れ端は濡れた石へ激突し、麻は白波を掻き集め闇へ引かれてゆく。断たれた両端へ黄泉の霊気が入り、艟と陸との隔たりを拡張した。
拘束を解かれた舳先が波止場を離れる。すう。瞬時の昂揚が入り江へ満ちた。朽舟が水を切り、舵が波浪を割る姿は帰航の威容を宿す。航路は一直線に外海へ指向された。浜へ戻る道と、深みへ赴く道。生界の岸は背後へ退き、黄泉津の沖は正面から顎門を裂く。
岸壁との隙間へ玄色の水塊が入り、指幅から腕幅へ、腕幅から船影を吞む幅へ蔓延った。鐵環、杭、石段、祠。荒廃の景物が遠のくにつれ、弱い安堵は断ち切られてゆく。前方には昂揚、後方には戦慄。蒼波を越える浮揚は歓びを這い昇らせ、船底の落着は畏怖を沈澱させた。
操舵室の奥で淡い光が燈る。
割れた硝子の向こうに、対をなす虚ろな眼窩が浮かんだ。窪みには海泥が詰まり、小蟹が骸の縁を這う。濡れた袖は舵輪へ絡み、白骨の指が木製の把手を握り締めていた。
右へ。左へ。翻って右へ。
骨節が鳴る。こつ。こつ。海草を挟んだ関節が擦れ、舵柄は迷いと確信との間で震えた。頭蓋の奥は淡光の及ばぬ杳たる翳りを固守し、黒泥の粒が頬骨へ這い墜つる。船首は揺れを伴い妖火へ据えられた。
床下の空間は黄泉籍の影に満たされている。
網を繕う指。魚籠を運ぶ腕。機関弁へ触れる掌。船倉の水を搔く爪。頭蓋、肋、背骨、膝蓋。濡れた作業衣の襞には藻屑が育ち、袖口から貝殻が零れた。胸郭の空洞では燐火が青い明滅を点し、肺を喪いし肋が息を洩らす。
指骨は網目を拾い、溢し、拾う。腕は空の魚籠へ重みを与え、掌は錆びた弁へ置かれ、爪は板床を搔く。動作の間には同質の重さを伴う静止が居伏していた。至る直前、掲げる直前、触れた直後。染みついた働きが髑髏を使い、髑髏は生前の働きの残影に倣い蠢く。かたかた。恐怖が内部を侵蝕した。生類の感情に非ず。遺骸へ焼きついた末期の激痛の再現である。溺水の圧迫、砕骨の衝撃、氷刃の刺突。骨格から梁へ、梁から釘へ、釘から外板へ染み、朽舸の構造体を大悲鳴へ變異せしむ。
痛みには血も息もない。薄れる要因を排した苦痛は、同所へ同深度にて突き立つ。甲板は踏まれる前の段階で軋み、壁板は打たれる前の段階で震えた。聞こえる苦鳴と黙する苦鳴との隔たりは皆無なり。
骨の指は働く。
濡れた袖は動く。
虚ろな眼窩は沖を見据える。
寂滅は寂滅の様式を備え、航海は航海の様式を備え、朽船は朽船の様式を備え深みへ赴いた。
骨節と駆動音との狭間、舵柄と波撃との狭間には、言葉の形をとらぬ恐怖が横たわる。無言は単なる空白に非ず。動作の備える重量、眼窩の備える深さを帯びていた。痛む行為は働く行為の表れ。働く行為は沖へ赴く行為の表れ。沖へ赴く行為は痛む行為の表れ。塞がれし輪が黒壁との隔たりを削ってゆく。
燐火の列が左右へ割れ、青白い水路を拓いた。怪火の歓迎に船体は歓び、巨怪の包囲に甲板は怯える。歓喜と戦慄、沖行きと退避、帰還と出立。相反する力が操舵を奪い、骨腕の激しい撓みを強いた。
光の帯は舳先の下で砕け、両舷の炎が船板へ迫る。赫き光は航路を露わにし、包囲の暗闇は余地を塗り潰した。選ばれし明路にして、封緘されし黄泉路の道なり。舵輪が右へ引かれ、左へ押し戻され、中央で震えた。把手には細い亀裂が奔る。
船首が先頭の妖光へ触れた。
火焔は砕けず、木材へ染み込む。青炎が先端から舷側へ走り、網、索、魚籠、煙突を舐めた。熱気は宿らぬ。凍る痛撃のみが木理を貫き、板の隙間から白霜が噴く。
薄氷は指骨の関節を覆い、肋の曲面へ蔓延り、頭蓋の亀裂へ入り込んだ。ぱき。ぱき。微かな響きの度に動作は鈍る。指は網を拾い、掌は弁に触れ、骨腕は舵を制した。凍気は働きを阻む因とならず、苦痛の研ぎ澄ましを唆す。
海怪の一個体が躯を屈めた。ぬう。黒き裂け目が開闢す。
周囲の燐光が細く引かれ、気泡は悉く同方角へ滑りゆく。瀑布のざわめきすら吸い込まれ、洋上へ張りつめた無音が瀰漫す。常闇が深い息を蓄え、水面を窪ませ、甲板を内側から逼した。
腹底から響く声が水上へ押し出される。おおおおおお。声の枠を超えた響き。森羅万象を圧し潰す絶大なる圧力であった。
白波が潰れ、鬼火が平たく延び、窓硝子は一斉に砕け散る。ぱりん。咆哮は船倉へ雪崩れ込み、動力室を巡り、骸の空洞へ入り込んだ。低い唸りは重い吠えへ、吠えは轟雷へ、轟雷は乾坤を塞ぐ絶叫へ膨張する。
硝子の硬い雨が床板へ突き立ち、遺骨の肩を掠め、舵輪の縁で砕けた。圧力は煤を舞い狂わせ、肋骨を震わせ、梁を曲げる。逃遁を絶たれし反響が骸から木材へ、木材から鐵鋼へ、鐵鋼から空洞へ巡った。びりびり。圧力の伝播に応じ、内部から叫喚が噴出する。ああああ。うううう。ぎゃあああ。言葉の体を成さぬ末期の声。喉を喪った胸郭が叫び、舌を喪った顎骨が泣き、肺を喪いし肋が息を洩らす。壁板が呻き、配管が哭き、鎖が喚く。外には異形の咆哮、内には凄惨な悲鳴。冥黒の声は押し寄せ、蒼白の声は逃げ惑う。
白骨は溺水を、木材は破砕を、鐵鋼は圧潰を響かせた。痛みは筋道を違えず、原形の態にて船内を駆ける。思考は叫喚の内部で白く潰れ、恐怖の陰影が鋭い輪郭を留めた。
船体が深き傾斜を露呈す。
右舷の個体、左舷の群れ、船尾の集団。海中から異形の巨腕が伸び、外板を包んだ。指にあたる黒柱が板を押し、鐵骨を曲げ、肋材を圧し潰す。めき。みし。ばきばき。貝殻、硝子片、錆屑が傾斜を滑り、片舷へ集まる。からから。しゃらしゃら。ざりざりと片舷へ。船底の黒水は隔壁を強撃し、泥を巻き浮かせ、遺骨の根元を覆う。朽舸は躯をよじり、動脈は狂熱を増し、推進軸は泡立つ海を掻き回す蠢動を鎮めない。
逃避を企図する舟。引き留めを図る沖。
洋を衝く鐵。深みへ押す水。
前方への震えと下方への圧迫に挟まれ、構造体は激しく引き絞られる。継ぎ目が綻び、塞がり、海水を吸う。逃走と招来は混沌の渦へ溶解す。外洋への接近は、即ち包囲の中心への接近を具現し、その度合いは鐵の心臓に激しい抵抗を生じさせた。戦慄が推力を醸し、推力が戦慄を育む。
舳先は怪火の水路へ食らいつき、距離を稼ぎ沖合へ出た。港は急激な遠ざかりを顕し、朽村は常闇の掌へ縮む。崩れた屋根、傾いた祠、白い波止場。瞬きの間に、万象は単なる黒点へ収斂した。すん。陸の輪郭は波浪の昇降に伴い明滅し、現れ出でるたび微小となり、波間に隠るるたび深淵の向こうへ遠ざかる。静寂が船尾へ薄膜の形で貼りつく。動力の轟音にも剝離を拒み、廃郷と朽舟とを凍てつく鎖で繋縛していた。頭蓋の眼窩は洋の彼方へ正対す。振り返る器官は皆無なり。遠ざかる動兆の持続が、歯車へ鈍い躊躇を混ぜた。
溟海が漆黒の様相を呈する。
星影は翳り、夕映えは呑まれ、天と洋との境も墨色へ融和した。存する光は燐火の集合。青、白、紫。怪光が舟艇を巡り、輪を狭めゆく。円環の外側には海怪が立ち並び、濡れた肉塊で六合を囲った。
上方の虚無と下方の虚無は同質の色を帯び、煙突の先と船底の下は連綿たる墨色を成す。方向の感覚は舵に、距離の感覚は回転軸に刻まれた。青は白骨を透かし、白は腐木を浮かせ、紫は赤錆へ凄愴なる艶を与える。光彩の濃密さは外縁の幽冥を深淵へと沈め、縦長の裂け目の群れを宙へ残存せしむ。
恐懼が極みに達した刹那、奇妙な静穏が舞い降りた。
駆動の唸りは絶えない。指骨は動く。操舵は回る。叫喚の途切れを顕し、虚ろな眼窩には平穏なる宵闇が満ちた。洋の深淵が帰巣となり、鬼火が燈明となり、巨怪の腕が抱擁となる。冥籍の航海は、帰着の黄泉津へ至った。
静穏は音を奪うには非ず。すうう。歯車の撃音、骨節の鳴動、木材の軋みに、深い無音が寄り添う。痛みの鋭さはほどけ、重い温柔となって空洞へ満ちた。内なる常闇と溟海の漆黒が交感し、歓喜と戦慄は同質の静かな脈動へ還った。
黒い裂け目が無数に剝き出しとなった。ぱっくり。おおおおおお。終局の咆哮が、洋を真正面から割る。
妖火が一斉に殺到する。青炎は甲板を覆い、白炎は操舵室を満たし、紫炎は船倉へ奔る。異形の群れが四方八方から堆く重なり、黒き巨壁となって廢漁船を包み込んだ。
木目が隠れ、影が絶え、奥行きが潰れる。遺骨の輪郭、把手の円、動脈の鐵肌が冷炎に浮かび、鮮明さの極みで無明へ封印された。巨躯の隙間から零れ墜つる水塊が床板を穿ち、船倉へ流れ込み、泥油を舞い狂わせる。冷炎、濁流、咆哮、静穏。諸々の気配が朽舟の上で溶け去った。
煙突が没する。操舵室が没する。舳先が没する。
挫かれた喉へ黒水が入り、煤色の呼気を押し戻した。砕けた窓から海水が満ち、白炎を激しく揺らし眼窩を覆う。青炎は水面下にて燃焼を重ね、下降する船板を妖しく照らし出す。
海泥が頭蓋から解け、細かな粒となって漂う。白骨の指は水中での舵輪の掌握を持続し、袖は激流へ靡きゆく。傾斜は増し、貝殻が底の方向へ流れる。排煙管、操縦席、船首。輪郭の喪失を重ねる推移に伴い、鐵の声は水を通して濃い響きを発した。ごこごこ。
朽ちた心臓の声が水底から昇る。どどどどど。荒い振動が海面を震わせ、無数の波紋が燐火の色を砕いた。動力部は水圧の底で拍ち、見えぬ所在を幽境の底へ刻む。
どどど。間隔が拡張する。空隙へ洋の重い沈黙が入り、後発の鳴動音を招き寄せる。波紋は膨大に、震動は鈍く、音源は深淵へ遠ざかる。
どど。一抹の妖光が滅した。群れをなす光。拡大する消滅。存する光の完全な消失。黒き肉塊は順を追いて海面へ融解しゆく。青、白、紫が洋へ返り、裂け目は封じられた。外洋は莫大なる常闇へ還り、盛り上がった大波が港を標的にひた奔る。
波腹には凛冽たる気と圧が蟠っている。冥黒を隆起させ、陥没させ、上昇を執拗に繰り返しながら陸へ寄った。ざぱあん。
漁港へ到達せし波浪が、空の鐵環を揺らす。ぎい。錆びた輪は岸壁へ擦れ、細い震えを石積へ渡した。係留索の重量を喪った鐵環は軽く、頼りない鳴動を漏らす。軋みは波止場を渡り、石段を上り、朽ちた路地へ入った。帰着せしは舟影に非ず。怨念の反響が陸を這う。
廃郷は音の気脈を胸奥へ内包す。戸板は鎮まり、瓦片は止まり、祠の鈴は氷霧の余韻を抱きて静けさに沈む。浜風が腐藻と濕土の臭気を混ぜ、竈の灰、畳の腐れ、裂けた障子紙へ残響を染み込ませる。
沖合には漆黒の大海が開展していた。廢舸の影、虚ろな眼窩、濡れた遺骸の蠢動は深い墨の底へ幽閉されている。水面に浮影は皆無なり。平らな玄色本体が、呑み込んだ咆哮と叫喚との重量を内側へ宿していた。
入江には断裂せし係留索が這い蹲る。
水を含んだ縄は石積の縁に横たわり、裂けた繊維を幽暗の淵へ曝していた。房状の先が波に濡れ、石面を微かに擦過する。塩、油、錆、麻。朽舟の名残が綱の先端へ凝縮している。
舷側のあった空所、船首の向いていた方角、綱の張っていた線。喪失せし輪郭へ、漣が優しき感触を伴いて触れ吸う。ちゃぷ。ちゃぷ。いたわりの音の回帰。触れる外板を剝奪されし掌が、黒水を撥ねている。穏やかさが泊地の空虚の鋭利さを際立たせた。
縄の端から滴が零れ落つ。
裂けた繊維を辿った雫は細い膨らみを成し、錆びた鐵環、崩れた波止場、墨色の虚空を極小なる球面へ封入した。重みが先端へ集まり、透明な繫がりを絞る。落下の過程に際し、波浪も隙間風も軒端の骨音も沈黙を貫いた。
水面は凛冽たる張力を湛え、玄き水室の門扉へ静かに誘い込む。つん。雫の内部には深淵の余韻が凝り、機巧の末尾の震えが細い巡りを描いた。
ぴちり。黒い波輪が波及した。
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