言葉と在り方の間に、ふと生まれる温度差
ふと、ある言葉に触れたとき、立ち止まるような違和感を覚えたことがありました。
言葉は、ときに少し先を歩くことがあります。
こう在りたい、という思いや目指している姿があるとき、
その言葉は、少し先の自分から届いているのかもしれません。
これは、自然なことでもあるのだと思います。
ただ一方で、言葉と在り方のあいだに距離があるとき、
ふと、足が止まるような感覚が残ることがあります。
とてもきれいに整った言葉なのに、
なぜか少しだけ引っかかる。
どこかで聞いたような言葉なのに、
その人のものとして、まだ落ちきっていないように感じる。
まだ自分の中にないものを、言葉だけで先に整えてしまうと、
伴っていない自分に、どこかで違和感を覚えてしまうことがあります。
それは時に、自分を引き上げる力にもなりますが、
知らず知らずのうちに、自分を追い込んでしまうこともあるように感じます。
まだ途中であるはずの自分に、
先に完成形の言葉を与えてしまうこと。
それは強さでもあり、
同時に、少しだけ無理をしている状態にも
見えることがあります。
世の中には、完成形の言葉を先に自分に与える、という考え方もあります。
私自身、そのような世界に触れることはありますし、
その在り方が支えになることもあるのだと思います。
伝える立場にある人が、
自信なさげに言葉を選んでしまうよりも、
ある程度の強さを持って伝えることも、
大切な一面なのかもしれません。
ただ一方で、あまりにも短絡的に
「こうすれば変わる」と言い切られる言葉に触れたとき、
どこかひっかかるものを感じることがあります。
それで救われる方がいるのも、きっと事実。
でも、本当に人が変わっていく過程は、
そんなに簡単なものではなくて、
言葉や所作で一気に変わるのではなく、
日々の小さな積み重ねの中で、
コツコツ、少しずつにじむように変わっていくもの。
だからこそ、
その過程を飛び越えるような言葉には、
どこかで無理が生まれてしまうのではないかと、感じてしまうのです。
私はね、今の自分に正直でいることや、
その中でできることを丁寧に重ねていくことを、大切にしていきたいと思うのです。
大きな変化でなくても、
ふとした所作や言葉の選び方に、少しずつにじんでくるもの。
そして静かに育っていくことで、
その方本来の魅力として育まれていくことに、
ふと安心を覚えるのです。
言葉は、人の中に残ります。
だからこそ、自分の中で育ったものを、
必要な分だけ、そっと差し出していきたい。
