何かをしている人82(『訂正可能性の哲学』10)
倍速で見てて広告が挟まるつんのめってたかのように思う
なんだか最近、読み終えることが結構あって、不思議な気持ちになっている。私は今年、すごくゆっくり本を読んでいるのだが、そのこと自体が終わろうとしている雰囲気すら感じてしまっているのだ。
都会は嘘と社交に満ちている。演劇はそれを強化することしかできない。他方で田舎には真実の愛が残っている。小説はそれを守り育てることができる。演劇と小説の対立は、このように、嘘と真実、都会と田舎、文明と自然といった対立と連動している。『ダランベール氏への手紙』の演劇否定論と『新エロイーズ』の序文は、相互に鏡のように照らしあったテクストなのである。
『訂正可能性の哲学』280頁
正直、引用のリズムを作るために、もっと極端に言えば「同上」と書くために引用している。一種の現代論を含む本を読んでみたいと思う。難波優輝の二冊がとりあえずその候補だが、さっき見た積読チャンネルも面白く、『カウンセリングとは何か』もいいなあ、と思っている。本当なら小説や、その他の文学がここに挟まるのではないか、という気もしている。(最近、なぜか短篇小説を読みたがっている私がいる。)ただ、私は文学が苦手なのだ。
ぼくは第六章で、ルソーの思想を支える「しまった」の論理に触れた。人間は自然状態でも幸せだった。にもかかわらず社会状態に移行して「しまった」。自然状態から社会状態への移行はけっして必然ではなく、また望ましいものでもなかったが、起きてしまったからにはしかたがない。人間はその状態から遡行して、社会契約の必然性を再構築するほかない。ルソーの哲学の核心にはそのような屈折が仕込まれているというのが、ぼくの理解だ。
同上、281頁
いまのところ、この本はここで書かれていることが一番面白い。二番目はおそらくこれから出てくる。ドストエフスキーを読みながら。いま読んでいるのは第8章だ。なぜここでは漢数字ではないのかと言えば、そもそも漢数字なのは本文に他の章の話が出てくるときだけだからである。こんなエクスキューズはなぜ必要なのだろうか。それは私にもわからない。
読みかけの本は布団みたいに、クッションみたいに、私を待ってくれている。
そしてその「しまった」の過程は、じつはけっして過去に生じただけではない。いまも生じているし、これからも生じうるものなのだ。それがルソーが『ダランベール氏への手紙』で訴えていることである。(/)
ジュネーブには素朴な人々が住んでいる。市民はセルクルをつくり、親密で共和主義的な関係を楽しんでいる。にもかかわらず、いったん劇場が設立されてしまえば、彼らもまた虚飾と社交に惑わされ、悪徳に侵されて健全な統治を歪めて「しまう」だろう。それが一七五〇年代半ばのルソーが憂慮したことだった。したがって彼は、『ダランベール氏への手紙』でその「しまった」に対し警鐘を鳴らすとともに、悪徳の進行を止めるために別の対抗手段を展開することも考えるようになった。そこで構想されたのが『新エロイーズ』の執筆なのではないか。ぼくはそのように推測する。
だからこの小説は、人為によって自然を守り、嘘によって真実を守り、創作によって純粋な愛を守るという矛盾した課題を抱えることになった。その課題から、実話のふりをした書簡形式の恋愛小説というかたちが導かれている。そこではもはやルソーは、自然の価値を称揚するだけの理論家ではない。自然を守るために逆に人為が必要とされるという逆説のうえで、自然を捏造しようとする実践家へと足を踏み出している。
同上、281-282頁
続きの引用である。二つのことを思った。一つはさっきも言った積読チャンネルの『カウンセリングとは何か』に関する回で、「物語が本当かどうかが重要なのではなく、その物語によって治癒されるかどうかが重要なのだ」、的なことが言われていて、それにはある種の発見があったが、そのあと、「義務とか責任とかなしに何かを思うことは良いことだ」、みたいなこと(さすがに雑すぎるかもしれないが気になる人は見てきてください。)が言われていて、私はそれになんらかの違和感があった。それはおそらく、「思う」だけでも、「言う」だけではなく「思う」だけでも「物語」は起動してしまうという、その、ある種の遊び(ハンドルの遊び、とかの「遊び」)のなさこそが問題なのではないか、ということなのだろう。そんなことを思った。もう一つは私は東浩紀のルソーを基本的に上野修のスピノザと対比させつつ考えているのだが、スピノザは、「理論家」から「実践家」へ、ということが存在するかどうかすら疑い、すでに「実践」はなされているのだから「理論」はそれをよりよく説明するものであるしかないのではないか、と、少なくともポリティカについて考える文脈では思っていたのではないか、と思った。つまり、逆だ、と思ったのである。私は。まあ、その「逆」は雑すぎるので、考えたいならちゃんと考える必要があると思うが。(ちなみに最近『スピノザ考』も読み終えた。)
まあ、積読チャンネルでビビッと来たのは、おそらく上に書いたようなことではなく、「物語の組み替え」みたいなときに「物語」には演じさせる力があり、それが「治癒」に繋がるかどうかはわからないからそれを調節することが必要で、それが他人に委ねられること、つまり自分でカウンセリングするのではなく他人がカウンセリングすることの意味を私は考えたい、みたいなことだったと思う。上のは、別に嘘ではないが、弾みで書いてしまったものだと思う。言い換えれば、演じたものでもあると思う。完全に演じているわけではないと思うが。
本章の冒頭で触れたように、ルソーはこの小説の執筆中に友人の恋人に恋をしている。頻出する三角関係は、伝記的な事実としてはその経験が影響したと考えられている。けれども、それは同時に欲望のルソー的な理解の本質を表すものだと理解することもできる。
同上、290頁
これは「見てから書く」のか、「書いてから見る」のか、それが識別できるのか、という問題と少なくとも相同性は持つような問題であると思う。私は伝記に全然興味が持てないのだが、それは「書いてから見る」をある種守ろうとする態度なのかもしれない。
面白い気づきだ。トイレに行こう。
別に私は、生まれや育ちが書くものに影響を与えないと思っているわけではない。影響を与えるとは思っているが、その影響もまた語られるだけだと言えば語られるだけだし、その影響を深く取りすぎるとある種の崇拝(もう少し抽象的に言えば、隔たること)に近づいていってしまうとも思う。そして、それは、たしかに、孤独の共鳴、というような逆説的な、しかしそれゆえに強固な繋がりを作ることはあると思うけれども、私はそのような関係を好まないのである。おそらく。
さて、帰ってきた。続きを読む。
最近、「読んだ本を要約できなければ(研究者として?その本を?)使うことはできない」みたいな言説を見た。私も確かにそのように思い、訓練さえ積めばそれができるようになりそうな人たちのことをある種尊敬してもいるのだが、別にそうなりたいわけではない、という感じもする。
なぜこれを書いたのかはわからない。最近ぼうっと思っていて、忘れそうだからだろか。
なんか、にわかに批評への関心が高まっている。それはおそらく、私が物語に感動できないからであり、それによってある種の生きづらさを感じているからである。おそらく。
サン=プルーとジュリは確かに愛しあっている。けれどもこの小説では、読者は彼らの言動をじかに見聞きすることはできない。サン=プルーとジュリ自身の解釈を通して、間接的に推測することしかできない。ルソーはひとは自然のままであるべきだと訴えた。社会や文明は障害でしかないと告発した。だから若者たちの純粋な恋愛を描いた。にもかかわらず、文明という障害(書簡への依存)はけっして排除できな(/)かった。愛は最後まで透明にならない。この不能性の意味については、本書でときおり名前が出てくるデリダも、『グラマトロジーについて』の第二部で論じている。
同上、291-292頁
東のある種の一貫性が感じられる、というか感じられそうだが、それはいいとして「サン=プルーとジュリは確かに愛しあっている。けれどもこの小説では、読者は彼らの言動をじかに見聞きすることはできない。サン=プルーとジュリ自身の解釈を通して、間接的に推測することしかできない。」というところで私は別に「書簡への依存」がなくともそうなのではないか、と思った。ただ、そこにわざわざこだわったことが東の、そしてデリダの個性なのかもしれない。二重化する、ということ。個性はどこに「二重化」を見出すかに存在するのかもしれない。そして、そのように個性を存在させる構造があるのだろうと思う。
あの、変な引用をしますが、ゆるしてください。
ルソーは『社会契約論』で、一般意志は社会契約によって一気に産出されるものなので、その実現には市民間の議論はむしろ障害になると主張していた。
同上、294頁
ルソーは「全体意志」と「一般意志」を区別している、という話だったじゃないか!とどこかで困惑しながら書いた記憶があるが、ホッブズが「あたかも」でジャンプしたところをルソーは概念的に区別することで跳躍したのか、ととりあえずは納得できた。この引用文で言われていること自体はここでの本題ではないのだが、そう思ったので書き記しておく。
いやでも、結局何もできていない感があると言えばあるな。その区別が。だって、「市民間の議論」が「障害」になるのは「全体意志」の話で「一般意志」はそんなことはなく、もうすでに成立している社会がなぜ成立したのかを問うときそこに遡行的に発見される、のだとしたら、そして社会が成立していないということが実際には存在しないのだとしたら、「全体意志」のほうに「議論」の有無が「障害」の有無的に関わることはあれどそれ以外はあり得ないというのが「一般意志」と「全体意志」の区別の意味だと思われるから。まあ、「市民」というタームがこの矛盾を接合しているのかもしれない。「市民」という概念と「全体意志」と「一般意志」という概念の区別が手を取って議論が進んでいる、とここでは理解しておこう。
ルソーは『新エロイーズ』の後半で、『社会契約論』の「立法者的な思考」では取りこぼす、「小さな社会」の理想を文学的に提示しようと試みていた。そしてヴォルマールは、まさにその理想社会を構築し運営している人物として導入されていた。だとすれば、その人物像もまた、あるていど作家の理想が投影されていると考えなければならない。
同上、295頁
いやあ、こういうふうに解決できるのかなあ。この解決は、なんなんだろうなあ。
ああ、自分自身の中での連関としては、「問われたら存在する」の構造が「遡行的発見」によって存在するという「一般意志」に見られる、みたいなこととして、そうなると「私」と「一般意志」は存在の領域は異なるものの存在の構造は同じなのだ、と理解することができる。そうなると「特殊意志」は「私」に影響を与えたりその影響を受けたりする様々な微小な「私たち」であり、その「私」と「私たち」の関係は並行論的に考えられないとそもそも分離してしまって「問われたら存在する」という存在の構造が安定して発動しないからスピノザはああいう議論、「神あるいは自然」とか「観念」とか、ああいう議論をしたのだと理解することができる。そうなると逆に「特殊意志」が集まったものであるとされる「全体意志」こそがよくわからないもの、というか、少なくともここまでの議論からすると理解しにくいものなのではないか。そんなふうに思う。
続きを引用する。
ここに『新エロイーズ』を読むことのおもしろさとむずかしさがある。物語をふつうに読めば、ルソーは明らかにサン=プルーのほうに自分を投影している。彼らはほぼ同年生まれで、同じ平民で、同じレマン湖畔に生きている。対してヴォルマールはさまざまな点でサン=プルーの裏返しの人物だ。にもかかわらず、作家はけっしてサン=プルーの情熱だけを讃え、ヴォルマールの老練を貶めているわけではない。
ふたりはともにジュリを愛し、彼女の愛を手に入れようとした。最後のジュリの告白から遡行して読むと、サン=プルーだけがその試みに成功したかにみえる。実際に多くのひとがそのように読んでいる。(/)
けれどもその読解は十分ではない。なぜならば、それではなぜ小説の後半でクラランの村の描写にあれほどの紙幅が割かれているのか、まったく説明がつかないからである。
むしろぼくたちは、この物語においては、ヴォルマールもまた成功を収めていたのだと理解しなければならない。彼は「小さな社会」の運営に成功し、ジュリとの穏やかな家庭生活を手に入れていた。それはサン=プルーの帰還によっても壊れることがなかった。"もしジュリが事故死しなければ、サン=プルーはむしろ最後まで成功することかなかっただろう"。ヴォルマールの愛こそが成功し続けていただろう。ルソーはそのような小説を書いたと理解すべきなのである。
同上、295-296頁
いやあ、……おもろい解釈ぅ。凄えなあ。
まあ、それはいいとして、私の物語への乗れなさは物語では「遡行的発見」がありありと存在しすぎていて、それを作者に預けてしまいたくなるところに存在しているのかもしれない。これはかなり核心を突いた人物評、自己自身に対する人物評だと思う。そして、冒頭のあたりで「物語」の話をしていたが、あれはむしろアイデンティティに、(「私」ではなく)「自己」の措定に関わることだったから、「弾み」で書かれたことのほうがむしろ本質的だったのかもしれない。というか、「私」と「自己」の関係こそが問われるべきことであり、その関係において物語は基本的に「自己」に占有されているのであり、そのシステムをこそ分析する必要がある、みたいな気づきがあそこには見られるのかもしれない。
私は、教育学を学んでいたときに、物語文で「最後の段落は必要か?」みたいな授業を作ったのだが、あれは「遡行的発見」に気がつくことを目指したものだったのかもしれない。ここで東浩紀がしているような読解の種を植え付けようとしていたのかもしれない。その授業を受けた人に。また、そのような授業を作ることによって、自分が何を見ていて、見てしまっていて、それにどう苦しめられているのか、逆にどう助けられているのか、それを分析しようとしていたのかもしれない。
自分自身のことがわかってきて、なんだか、いろいろなことが到来しているが、別にそれを書いていて楽しいのは私だけだし、読み進めることにしよう。しかし、素晴らしい洞察だと思う。この洞察は。
ちょっと読めないなあ。昨日、ある人と『お嬢さん』という映画について話していて、私は次のようなことを書いた。
引用しようと思ったが、文脈を補足するのが面倒なのでやめた。そこで私は、書かなかったがこんなことを思っていた。
ここで「欲望」について書いているが、もしくはその「駆動」について書いているが、それはただ単にそれらに対する私の見解を多少の援護を受けて暴力的に何かに適用しているだけなのではないか。
これは福尾匠の仕事に対するある種の応答、のようなものなのだが、別にその応答はひたすら適用し続けて、その限界が来てからしてもいいかもしれない、と昨日思っていたのだが、そうしてみよう!と思った。これが「批評」に入る道だったのかもしれない。(それに、もしかすると限界は来ないのかもしれない。少なくとも福尾匠のようには。)
というか、むしろ、そうすることによって「物語」をありありと存在させる必要が私にはあるのだと思う。「物語」に惹かれて、その惹かれを分析するために「批評」に入るのではなく、そもそも「物語」に惹かれるために「批評」に入るのである。私は。ある種の適応に向けて。
あ、現代論について言えば、増補されてないほうは一度読んだのだが、『スマホ時代の哲学』もいいかもしれない。からだがあつい。読み進めてはいる。時々タバコを吸うかのように「〜と思っている/思っていた」と書きながらではあるが。
だめだ。自分から離れらんない。
とりあえず章の最後まで読んで、あとは後から読み直すときに役に立ちそうなところを引用して、今日は終わろう。疲れてきた。
忘れたらもったいない、と思うことはみっともない、とは思うが………
「とりあえず章の最後まで読んで、あとは後から読み直すときに役に立ちそうなところを引用して、今日は終わろう。」と宣言して以降に読んだなか(296-303頁)でいくつかのことを思ったが、一つだけ挙げて、今日は終わろう。
それは、優しすぎる人、「優しさの天才」はなんだか哀しい、ということである。この「なんだか哀しい」と言われるときの哀しさはその「優しさ」が「人工的自然」(同上、298頁)であると判明する哀しさでもあるし、そのように「優しさ」を存在させている対立(=「素朴な自然と人工的自然」(同上、298頁))自体が見えてくる哀しさ(「彼[=ヴォルマール:引用者]は、サン=プルーに、そして彼への言葉を通してジュリに、真実を話しても嘘を話してもどちらでもいいが、"真実と嘘の境界、それだけは見せるな"と命じるのである。」(同上、301頁))でもあるし、さらにはそのような対立がもはやないようなところではじめて「優しさ」は発見される(「真実と嘘の境界をなくすことで、はじめて自然は「訂正」される。そして自然が人工的かつ遡行的に発見される。」(同上、301頁))という哀しさでもある。あれはそれらが圧縮された哀しさだったのである。おそらく。
なんだかもったいないような気もするが、今日はこれくらいで。最近短篇小説を読みたがっているのは終わり方がよくわからなくなっているからなのかもしれない。「死」のある種の近さもそれに由来するのかもしれない。実際に死ぬかどうかは別として象徴的に死ねないから困っているのかもしれない。
