『現実性の問題』第9章を読んでいた
なんとなく『現実性の問題』の第9章を読んでいる。読み直している、と言ったほうが、いや、読み始めていると言ったほうがいいかもしれない。まだ、1-1だが、色々な触発を受けている。端的に最高だ。
1-2に進んでいる。ある種のリテラリティを感じつつ、Any-nessの予感も感じつつ、グッチさんが書いておられた入不二上野対談のスピノザの、ある種の「閉域」性、そのことを思い出した。千葉雅也の弁証法、と言えるようなことも。
これは、なんというか、言い方が難しく、その難しさこそが楽しさなのかもしれないが、私は、「純粋現実性」を、なんと言えばいいか、………ダイラタンシー流体的なものとして、「的なものとして」語ることを可能にさせる何かとして語ることもわざわざなされている感があるのだ。
まだ読んでいないが、1-3のタイトルにあるような「肯定主義の徹底」ではなく、………というか、その「徹底」は逆流なのだ。逆行なのだ。それがそうであること、そのこと自体を、論じたいとかではなく、………うーん、感じたいのだ。まだ全然うまく言えないが。
「「消失=交代」というアイデアによって、ベルクソンのように肯定主義を唱えるだけでは、まだ徹底性が不十分なのである。むしろ、肯定主義を徹底するためには、或る項と別の項のあいだでの「交代」や「選択・確定」さえも不可能になる方向へと、
差異化の装置(すなわち言語)から離れなければならない。その離れた先とは、差異がなく(差異化以前であり)、交代や選択が不可能な、すなわち、ただ一つに決まっていざるをえない「現実」あるいは「充実」のはずである。」(『現実性の問題』336頁)
江川隆男のことを思い出す。まだ全然わかっていないのだが、これに対しても「器官なき身体」的な、何かを立てるのだろうか。でもなあ、あれはスピノザの独特の「構成」主義の作り変えだと私は思っているから、入不二にはそういう主義はないように感じられるから………
ここで「現実」だけでなく「充実」が出てきているのは面白い。近藤和敬か誰かが「ドゥルージアンは『現実性の問題』を読むといい」みたいなことを言っていたが、ドゥルーズも分岐点に立たされる、必然的に立つことになるから「読むといい」のかもしれない。晩御飯を作るので一旦中断。
戻ってきた。1-3を読んでいる。「中立的一元論」の話も気になるがとりあえずスルーするとして、入不二の「円環」の理解にはここで言われている仕方で言えば「「現に」という現実性の力」からの理解とそこに向かう理解とがあり、私は後者に「わざわざ」感を感じやすいのだと思った。
千葉雅也との対談の後だったか前だったか、とりあえず対談の付近で「現実性と潜在性は分身である」みたいに言っていたことを思い出した。私は、ある軸があって、「現実性の力」に寄っていく場合といわゆる「現実」に寄っていく場合とがあると思い過ぎているのかもしれない。「分身」………
「「形相なき質料的現実」は、概念化・差異化に対して開かれてはいて、概念化・差異化を"待っている"。」(同上、338頁)["で囲まれている箇所は傍点が振られている。強調は入不二自身。]かあ。「待っている」ことになるようなそれとならないようなそれ、とかではないと思う。
江川隆男が「間接無限様態」の解釈によって「本質の存在」という次元を作り出したことに似ているのかもしれない。あれこそ「分身」的に、裏に何かが張り付いている感じに思えた。いや、「落下」のイメージとあまりそぐわないかな。文脈を整理しないと。また今度。
うーん、言っていることはなんとなくわかるが、わかっているそれと言われているそれがうまく結びついていない気がする。私のなかで。まあ、レトリックと言えばレトリックなのだが、だから別に、そんなに気にしなくてもいいと言えばそうなのだが、うん。
340頁の二段落目はとても重要だと思う。引用すると長い(し、テキストは情報量が多い)のでとりあえず引用せずに書くとすれば、私は「現実」のレトリックを学ぼうとしているのかもしれない。永井の「累進構造」はレトリックの骨格と作動形式についての考察であると言えるかもしれない。
私が考えている(転がしている?)「二重化」は圧着と剥離を圧着させたものであり、剥離した場合は存在しているかが怪しい。そんなふうに感じているのだろうと思う。私は。そこから「問題」を組まないと「問題直観」には至れない。
入不二の「レトリック」は、この段落を読む感じ、(まあ、ここまでもたくさんのものを読んでいるからそう「読む」のだろうけれど)「ある」の領域全体を連続と不連続のリズムやスケールで処理すること自体を「レトリック」にするような「レトリック」だと感じられる。
江川にも独特のレトリックがあるんだよな。適切な箇所かはわからないが、「人間の有限精神における分裂症をモデルにするのではなく、むしろそれらが結果となるような、無限知性の分裂症化を〈哲学-エチカ〉は、論究しなければならない。」(『アンチ・モラリア』178頁)とか。独特の「結果」論。
それで言うと上野のスピノザにもこの感じはあるかもしれない。『スピノザ考』でヴェイユと近づけて論じているところとかに特に現れていた気がする。「分身」を「表裏」にすることで「分身」を複数性の謂れであることにするような「レトリック」。
楽しいなあ!続きを読もう。
「否定性が蒸発してしまって働きようのないベタ」(『現実性の問題』341頁)。千葉も『意味がない無意味』で(もちろん他のところでも使っているとは思うが)「干上がっている」というような表現を使っていた。あれはまあ、入不二ほどメタフィジカルじゃないが、極めてあわい的な表現だったと思う。
というか、だからこそ私はあの本が好きなのかもしれない。(『動きすぎてはいけない』や『ツイッター哲学』の)「束」とかの話も好きだけれど、こちらも好き。
「否定によって構成される「全体性」は、ドメイン(議論領域)という仕方で境界線を持つのに対して、現実の現実性は、むしろ、そのような境界線がないことによって「外がない」。」(同上、341頁)私はこれを「主題」というテーマで探究してきたのかもしれない。たまにレヴォナスのことを思い出す。
「元基」とか「無限」とか。ここは「無限」。あの、「形相なき質料的現実」らへんは「元基」。まあ、あんまり知らないんだけど。私は「無限」の近くは「主題」で、「元基」の近くは「ダイラタンシー流体」かなあ。どちらにも独特の経験性がある。ドゥルーズにおける「観想」と疲労」みたいな。
1-6の前で一旦立ち止まっている。面白すぎるなあ。とりあえずお風呂を入れてこよう。スイッチを押してこよう。いろいろなスイッチが押されているような感じだ。自分のなかの。そして色々なスイッチがあったことに気がついている。そんな感じだ。
戻ってきた。1-6を読む前にラファ鉄さんの「大無」という概念(?)を思い出したり、スピノザ(や江川や上野)の独特の「構成」感を思い出したりした。さて、続きを読もう。
「「無内包の現実」においては、「ある」と「ない」が矛盾的に一体化していて、認識論的には「ない」ことによって、むしろ存在論的に強く「ある」。」(同上、342頁)「存在論」が入不二の言う「現実」を考える特権的な入り口であることを「大無」は批判しようとしているのかもしれない。
まあ私は、「存在論」がなんなのかよくわかっていないのでなんとも言えないが。私は多分、「存在論」と「意味論」が混ざり合ったものとして「二重化」を考えていて、「認識論」は、うーん、「二重化」を作ることと「存在」させることの近さに近い話だと思っているのかな?わかんないけど。
「メビウスの輪」ねえ。なんというか、表裏性には「ヤヌスの顔」(これは宮野真生子の九鬼周造論からの引用である、と私は思っている。)型と「強度」型(?全然定まってはいない。)と「メビウスの輪」型があるのかもしれない。「分身」型もあるのかな。
「"強い切り離し(無関係性)によって成立する単一体"」(同上、345頁)という表現は江川の表現であると言ってもおかしくないような表現である。ただ、内実は全然違う。入不二には複数性の感じがない。「円環」の可能性が増殖していくところには、感じられるかもしれない。
が、それは「感じられる」、「感じようと思えば感じられる」というだけで、「感じる」という感じではない。少なくとも私は。私は、何回も言っているが「円環」の下半分がよくわからないのだ。
「存在論と認識論の一体化」(同上、345頁)かあ。そもそも「存在論」「認識論」「意味論」の普通言われる意味での関係がよくわからないからある意味逆方向に理解してしまうなあ。ここからそれらを理解するような感じ。この「逆」感は哲学の文学性に通ずる何かかもしれない。
お風呂がもう少しで沸くらしいので1-7の手前で一旦閉じておく。「二重化」と「存在論」「認識論」「意味論」の関係が気になるなあ。
なんか、昔、同居人に、「認識論」「意味論」「存在論」の順に人間が必要(「認識論」が一番必要。)だ、みたいに言ったことがある気がする。「二重化」に人間は必要だと思うから、いや、逆か?人間に「二重化」は必要なのか。どっちもかな。「必要」の意味が違うか。
うーん、お風呂が沸くらしいのでとりあえず置いておこうかな。人間に「二重化」が「必要」なのは、人間が殺し合わないためであり、孤独になりすぎないためである。レヴィナス的だなあ。影響を受けているのか?まあ多少は受けているが、受けるための何かは元々あった気がする。ではお風呂に行きます。
戻ってきた。途中、結婚式の招待状に返事する、ということが挟まって、少しぶれたが、続けて読んでいこう。同居人が寝ている。
「その場合には、ベルクソン的な「答え」(人間の関心等に依存)が回帰して来ることになる。」(『現実性の問題』347頁)「その場合」については気になる人は確認してほしいが、ここでの「人間の関心」にも入不二的な、「現実」ではない「現実」と同じ構造、「レトリック」があるように思われる。
だからなんだ?と思われるかもしれないが、この「レトリック」を十全に取り出すためには入不二的な「現実」、的な何かが必要なのである。そしてまた、その「レトリック」同士は、一直線上に並ぶわけではない、というのが私の言いたいことなのかもしれない。
まあ、別の関心としては「人間の関心」と言われる前に何があるか、何がどうなってそれになるかには関心がある。「漂う注意」(フロイト)の問題である。(私はフロイトを全然知らない(この「漂う注意」も『置き配的』で見ただけ。)から全然的外れかもしれない。)
「漂う注意」的なもの、「ダイラタンシー流体」的なものが前からあるか、遡行によってあることになるか、それはとりあえず私はあんまり関心がなく(こうやって分けるくらいには関心はあるが)、そこでの「構造」、「レトリック」が気になるのである。「レ・トリック」。
「二種類の差異化」、使い勝手いいな。「矛盾」と「反対」も。私はこれを、概念の制作における方向性として、「矛盾」から「反対」へ、「否定による差異化」から「肯定による差異化」へ、みたいに使っていた。うっすら。
それでなんで「円環」の下半分がわからないのか、と思われるかもしれないが、「可能性の増殖」がわからないだけなのかもしれない。二つの「差異化」を区別することはできる(少なくとも使い分けることはできる)が、………なんだ?
私は正直、「反実仮想」しかわからない。そんな不能を持っている気がする。それは「否定による差異化」ではあるが、………うーん、ここがポイントなのかな。自分について理解する際には。とりあえず読み進めよう。その前に同居人を起こそう。
あんまり、348頁にあるような「高階化」を許容できていないのかもしれない。なんというか、「世界」がある種の「全体」になること自体がよくわからないという、「世界」を「個体化された」ものとして考えるなら「個体化」を「全体」として考えることが許容できないと言えるかもしれない。
同居人が起きた。起こしたときは「もうちょっと寝る。」と言っていたが、ひとりでに起きた。私が「反実仮想」を、それだけがわかる気がする、と言うときにイメージしているのはそれが「凝固」と「選択」を分けつつ同時に起こったものとして考えられる、みたいなことだと思う。
なんだか眠たくなってきた。
「動物的な「現実ベッタリ」という状況もまた、諸可能世界という設定自体をしないことの一形態である。」(同上、355頁)というところで千葉雅也の「動物は人間から見ればめちゃくちゃ「去勢」されているように見える。」みたいなツイートを思い出した。目を逸らしたら。眠たくて?
「深度の異なる「無」のペア(対)を考える」(同上、356頁)とかで私は、「二重化」を想うんだよなあ。まあ、「ペア(対)は時間性に巻き込まれる」(同上、356頁)とかを考えないから私のそれはいまだに抽象的なのかもしれない。
「「死後の無」と「未生の無」には、何か根本的な違いがあるのだろうか。」(同上、358頁)ここから反出生主義の議論に入れるだろうか。まあ、そもそも哲学にしか興味がない可能性も大いにあり、勇気が出ない。
なんか、ここらへんの議論は、プリペアド・ボディ的だなあ。先に身体がある感じがする。別に悪いことではない。なんというか、もう少し通じそうな言い方で言えば、irifujingが先にあって、ここの議論が後にある感じがする。まあ、まだ途中(360頁の最初らへん)だからかも。
「未来繋がりの縦関係や過去繋がりの縦関係よりも、未来と過去を跨ぐ「より深い無」の横繋がりのほうが近しい。」(同上、360頁)これおもろいなあ。うん。後から読んでも思い出せるかはわからないが。この引用では。
「(現在=自己と)"絶対的に無関係である即自態"」(同上、361頁)という表現、もしくはその周辺により「分身」的な分身の可能性を感じた。千葉の「分身」はまだ、どこか、触れ合うところがあった。それはそれでいいのだが、それから離脱するニュアンスを感じた。
あと、もう指摘されているかもしれないが、誤植を見つけた。「第5章「無関係・力・これ性」」は第6章だと思う。361頁。
「マイナス内包」は、どうかなあ。うーん、アンチ・モラリアになぞらえるならアンチ・エチカな感じがするなあ。まあ、あの、「宙吊り」感はあって、それは楽しいが、うーん、極北、という感じ。私はあんまり乗れないかなあ。
あ、「極南」か。
読み終わった。とりあえず。めちゃくちゃ面白かった。今日はとりあえず終わりかな。だらだら何か書くかもしれないけれど。
