多面性と多面体性、そして多-多面体性

いいタイトルだ。引き連れられて書こう。

ただ、その前に読まなくてはならないもの、というかこれはそもそもいま読んでいるものによって触発されたものである。ただ、いま読んでいるこれについて書くためには結構な回り道が必要で、私はそれをする気はないので何を読んでいるかだけ書こう。檜垣立哉の「はじまりの鷲田清一 臨床哲学への一批判」(『現代思想』第51号第5号)である。一つだけ引用させてもらおう。どういう種類の引用、例えば肯定したいとか否定したいとか共感できるとか違和感があるとか、そんなことは置いておこう。とりあえずは。

鷲田の議論は<中略>日常の「藪」という錯綜や脆さを浮きあがらせながらも、一面では日常という常識的=コモンセンス的場面についてあまりに肯定的である。戦争も災害も近親の死も病も、それ自身はあくまでも"「日常」の藪"にすぎない。「藪」の「潜伏性」が錯綜してあるだけで、日常そのものが「根拠」化されない「変形」のうえにあるものなので、それをどうするかについての能動的なあがきは低くみつもられがちである。この点は「聴くこと」を重視する、臨床哲学以降のベッドサイドの倫理などにおける世界への「受動的態度」自身の重視につながるものであるが、これでは世界は「変わるべくして変わる」という議論にしかならないことも確かではないか。
『現代思想』第51号第5号288頁

「この点は」以降は正直興味はないが、ここから読むうえでこの箇所は重要だと思われるので残しておいた。確認できるように。では読もう。

読んだ。やはり引用してきたところが最も重要なところであった。ただ、檜垣が言っていることもよくわからない。鷲田の言っていることだけではなく。

なんというか、言っていることはわかるのだが、それがどうした?みたいに思ってしまう。まあ、鷲田もしくは鷲田世代が私の身に染みていないからだと思うが。

さて、「多面性と多面体性、そして多-多面体性」について考えよう。ここには「多面性と多面体性」、「多面体性と多-多面体性」という二つの対比、そして移行がある。いや、そもそもの始まりには「一面性と多面性」もあるだろう。つまり三つの対比、そして移行があるのである。

一面的なものの見方をやめ、多面的なものの見方を獲得せよ。これはよく言われることである。三つの移行はこのよく言われることをescalationしていく、言うなれば誇張していくものであると考えられる。

ここでescalationされているのは「一から多へ」という移行である。「面」において、「体」において、移行は存在している。前者は「一面性と多面性」において、後者は「多面体性と多-多面体性」において。では、「多面性と多面体性」はどうなるのだろうか。ここが肝だ。おそらく。

「多面体」を「多面」的である立体のことであると考えよう。しかしそもそも、相当特殊な数学的操作を行わない限り、立体は「多面」的であろう。だから、「多面体性」は「多面性」との対比においては「わざわざ『立体』性を示す」ものになっている。それは「多面体性」が「多-多面体性」との対比においては「一と多」に収まるようなことを示しているのとは異なることである。

「多面性と多面体性、そして多-多面体性」の「そして」はまるで最終段階として「多-多面体性」があるかのように思わせる力があるが、本質はそこではなく、むしろ「多面性と多面体性」をescalationから切り離すことにあるのかもしれない。そこで切り離されるのは「立体」にすること、もっと抽象的に言えば一つにすること、レトリカルに言えば塊にすることである。

なんというか、私は怒っていたのである。食堂で同じゼミの人に。その人に怒っていたのではない。なにかに怒っていたのだ。「多面的って言うじゃない?あれって変だよね。私たちはそもそも立体になるのかね。なるとしてそれは一つなのかね!」と。もっとちゃんと怒っていたはずである。あの人はいまどこでなにをしているのだろうか。

ただ、他人の「多-多面体性」が見えるのか?みたいな疑問はある。「多-多」とカタコトみたいに話せるのは「ああ、こんなことも書いてたっけ?俺。」みたいなことを思うことなしに可能なのか、私にはわからない。結局一つの「立体」にはなってしまうのではないか。他人は。その諦めが「一面性と多面性」の対比、対立にあるのだとしたら、その「面」の慎ましいったらありゃしないとも思える。ただ、私はescalationして、他人も私のように生きているという、あの極めて恐ろしい事実に向き合う必要が出てくるとも思うのである。

平面と立体とでは何が違うのだろうか。立体と「平面と立体」における「立体」の位置にあるものとでは何が違うのだろうか。私はやたらと平面的に見える、見えてしまう夜景を見ながらそんなことを思う。「奥行き」とは忘れられたが確実に私だと(制度的に、もしくは言語的に、そして道徳的に)言われる存在なしに「多-多面体性」を確保する努力なのかもしれない。

もしかすると以下を読めば少しわかるかもしれません。ここまでの話が。わからないほうが普通です。


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