クオリアビーバーのダム建設

なんか、二つのことがほとんど同時に起きて、それが私の本質、のある側面を提示しているように思われたのでそれについて書きたい。

それはクオリアがよくわからないということと「言葉にできないことがある」ということがよくわからないということである。

「クオリア」のほうがよくわかっていないので後者からいこう。なんとなく掴んでもらうために言えば、「〜の(主観的な)感じ」のことを「クオリア」だと、とりあえずは思っていてくれたらいい。

「言葉にできないことがある。だから音楽があるんだ。」みたいなつぶやきを見た。私はよくわからなかった。それは単純に音楽をしないからでもあるのだが、別に言葉にすることにおいても「言葉にできないことがある。」と思ったことがないと思ったのだ。

だから、「言葉にできないことがある」ということがよくわからない、というのは「そんなものはない」ということではなく、それがなにを言っているのかがわからない、ということである。

このように言うと、私のことをよくわからない人だと思う人もいるだろう。困ったなあ。「よくわからない人だ」と思われることに困っているのではなく、どうやって話をすればいいのかがよくわからないのだ。

仕方がないので「クオリア」のほうにいこう。私は「クオリア」についての永井均や入不二基義、青山拓央の議論を哲学の議論のなかでは比較的好んでいるが、彼らの問題構築に納得しているというよりもその「構築」自体が魅力的だと思っているに過ぎないのだと思う。今日は特に。

私が「クオリア」に近づきうるとすれば「気分」という概念を通してである。おそらく。とりあえず入不二の、手元にある説明を使えば次のようなものが「クオリア」だと考えられる。(もちろん入不二はここで「クオリア」を導入しているだけで、これを使って「構築」される問題が面白いのだと上で私は言ったわけだが、とりあえずここではその手前に留まりたいのである。)

意味・概念の水準とは区別された、直接経験の水準での「味わい」が、味のクオリアである。「甘さ」と名指されている味が、"自分にどのように直接感じられているか、その質感"を「クオリア」と呼ぶ。<中略>味のクオリアだけでなく、「秋空の青く清々しい感じ」のクオリアもあれば、「フルートの音色の高く澄み切った感じ」のクオリアもある。
『問いを問う──哲学入門講義』112頁

私はこういう記述を読むと、よくわからなくなるのだ。そのよくわからなさをここでは考えようとしている。そして上では「気分」というキーワードを出した。

話が広がってばかりだが、話が進みそうでもあるのでもう一つ話を出そう。私には「他人が私と同じ本を読んでいるとは思えない。」という感覚がある。もちろん(別に確認したわけではないが)私と同じ本を買って、読んでいる人はいるだろう。例えば、『問いを問う』を買って読んでいる人はいるだろう。頭ではそのことはわかっているのだが、そのことは頭でわかっているに過ぎないのである。本当は他人は私と同じ本を読んではいないのではないかという奇妙な感覚が私にはあるのである。(1)

「クオリア」の話は、少なくともその一部分は入不二の言い方を借りつつ言えば「意味・概念の水準とは区別された、直接経験の水準」が見える形にならない(2)ことに由来しているように思われる。同じように「甘い」と言葉では言っているとしてもそれで意味されていることが同じであるとは限らないということに「クオリア」は由来しているように思われる。私の奇妙な感覚はこの「甘い」、そしてそれに類するものがさらに実在的な本、文章、文字においてもそうであるという点で奇妙であると言えるかもしれない。(3)

ただ、この話を同居人にすると「あなたの周りには(Twitterやnoteなどを除いて)実際に読んでいる人がいないからでしょう?」と言われて、「それもそうかもしれない」と思ったので、これはパロール/エクリチュールというデリダの問題も関わってくるかもしれない。(4)ややこしいなあ。

うーん、別に万策が尽きた感じはないのだが、うーん………

ここまでを一度読んで、書きたいことがあったら書こう。なかったら「終わりです」みたいな文章を書いて今回は終わりにしよう。

読んだ。うーん、形にならない感じで訴えてくることはあるんだけどなあ、思いついた順に書こうか。

まずは注意なのだが、私は別に同じ本を読んでいても違う仕方で読んでいるから「同じ本を読んでいない」と言っているわけではない。では何を言っているのか。それがよくわからないのだ。

話が広がるのであまり掘り下げないが、福尾匠が言っているような「引き継ぎ」の問題、どうしても人は偏った仕方で「読んでしまう」のであって、その「読んでしまう」を考える必要がある、みたいな話はここでの話に近いかもしれない。「同じ本」が後から作られるというか、「同じ本の話をしている」ことになることと「同じ本」が存在するのが同時、というか。そういうイメージもあるが、それはまた別の、「ものがあると話しやすい」みたいな話なのかな。これが福尾の話なのか自分の話なのかはよくわからない。別にどちらも話しているだろうけれどまだ、「ここは私の話で、」みたいに分離できていないからよくわからないのだろう。

本質はこの分離できなさにあるのだろうか。そしてそれを識別不可能性と考えたくはないということに。(5)

私も「これはなんか違うなあ」と思って、言葉をたくさん繰り出してみることはある。もしくは繰り出せず、「うーん………」と悩むこともある。しかし、それは「クオリア」の話と関係があるように見えて、別に関係がない話だと思うのだ。(6)

あれ、だとすれば、別にほとんど同時に起こったことは関係のないことだったのか。早とちりか。そうだとしても「早とちり」の理由を考えることはできる。別にしたいとは思わないが。(7)

それで言えば、私は「哲学的ゾンビ」についても興味がない。「哲学的ゾンビ」とは福尾匠の言を借りれば以下のようなものである。

哲学的ゾンビとは他者に主観的な意識が存在することをどう証明するかという問題を考えるときに仮定されるもので、見かけ上ふつうの人間と変わらないが心をもっていない──『攻殻機動隊』的に言えば「ゴースト」が宿っていない──いわば「形だけの人間」を意味する。チューリングテストに満点合格したCPUを搭載した人型ロボットと考えてもいいだろう。
『ひとごと──クリティカル・エッセイズ』106頁

別に優れた説明だから引用したわけではなく(別に優れていないというわけでもない。優れているか否かがよくわからないのだ。)入不二の説明と同じように手元にあったから引用したものである。私はこれに興味がない。

あるとき妹が似たようなことを言っていたのだが、そのバージョンはなんだか面白いと思った。それは「世界は本当は動いていなくて、私が見ている世界だけ仕事として動いている。」みたいなバージョンである。あれ、違ったかな。まあでも、これに似たことを言っていた。

この面白さを語るにはもう少し時間が必要だ。(8)「哲学的ゾンビ」に興味がないというのはアーニャ問題を感じているということでもあるだろう。

アーニャというのは『SPY×FAMILY』という漫画に出てくるキャラクターで人の心が読める。そんなキャラクターはたくさんいるので別にアーニャに限る必要はないがとりあえず呼びやすいのでアーニャ問題と私は呼んでいる。それはどんな問題かと言えば、「人の心が読める」というのは大抵「人の心の声が聞こえる」ということである(9)が、私たちは問われることなしに心の声だとされるものを発しているのか、という問題である。私は「大抵の場合は発していない。し、発している場合は後から問いが作られる。」と思っている。(27)

これが「哲学的ゾンビ」への興味のなさと繋がるというのは「哲学的ゾンビ」にはあらかじめ「心」がビルトインされているが私はそういう発想を取っていないから「哲学的ゾンビ」の話がそもそもわからないのではないかという筋道が見えているからである。しかし、反復によって物事は存在するのだと言えば、問いとこたえのシステムも反復の発見によって発生し、それは反復されているのだから存在すると言えるのではないか、という道はある。たしかに。(10)

うーん………

もうお風呂の時間だ。お風呂に入ってこよう。お風呂から上がったら日記を書いて、ここまでを読んで、書けたら書こう。書けなかったら、明日に引き継ぎたかったら引き継ぐし、そうではなかったら終わりだ。私は引き継ぐのが苦手だ。一気に書いてしまいたい。「気分」が変わるから。(11)

さて、お風呂に入った。し、日記も書いた。ここまでを読もうか迷っている。何か、この、間隙を挟んだからこそ書ける何かがあるような、ないような。とりあえず引用しようか。

クオリアという主題は、その特殊性・独自性を主張する側(クオリア擁護)と、それを否定する側(クオリア批判)に議論が分かれやすい問題である。
クオリア擁護の側は、クオリアが本人にのみ直接観察可能な質である点を強調して、その主観性や私秘性を、クオリアの特殊性・独自性として擁護しようとする。一方、クオリア批判の側は、その特殊性・独自性を崩そうとして、クオリアの記述や説明の可能性を追求する。クオリア擁護の側は、クオリアの在り方(どのようであるか)を体験的な'直接性'に求めるが、クオリア批判の側は、クオリアの在り方(どのようであるか)を、文脈や状況の'関係性'の内に位置づけて解明しようとする。
『問いを問う──哲学入門講義』138頁

この、「クオリア批判」の側を弱毒化であると見なすことができるだろう。つまり、「関係性」によって「記述や説明」を試みることによって「クオリア」というコミュニケーションを揺るがすようなものを弱毒化しようというのが「クオリア批判」なのだと言うこともできるだろう。(12)

ここからしようとしていた話があったのだが、別にここでするべき話ではなかった。「恣意性」と「参照」の話。いや、「参照」の「恣意性」の話。そう思うとあの話(『ポスト構造主義フェミニズムとは何だったのか』の「参照」の話)はそれ自体が「参照」であると捉えられてしまう、言わば構造的に「参照」の話が取られると「参照」の「恣意性」は「参照」の「恣意性」の話をすること自体にも適用されてしまうところがあるという話、というかそこまで含んでしまうのかもしれない。あの話は。無限に足を取られる。そして取られないようにする。千葉雅也的な実践。(13)

うーん、全然うまくいっていないが、いま持っている手札を全部使い果たしてしまおう。とりあえず。また引用だ。

「わたしが赤色を見ているときに見えている色が、きみが緑色を見ているときに見えている色と同じ色だということを、誰が見ているの?だって、色の見え方というのは、必ず、"誰かにとってのもの"でしょ?いまは、光の波長とかそういうものが問題になっているんじゃない。たとえ同じ光の波長でも二人には色が逆転して見えているかもしれない、という話だったはずだから。だとすると、わたしでもきみでもない立場から、二人の色の見え方が逆転しているって言っている人も、その人なりに色が見えているんじゃなきゃいけない」
『哲学の問い』29頁

「<わたしが赤色を見ているときに見えている色>を神様が見たときに見えている色と、<きみが緑色を見ているときに見えている色>を神様が見たときに見えている色が、神様にとって同じ色に見えている……、みたいな?でも、それじゃ、その神様と別の神様とのあいだで色の見え方が逆転している可能性は、もっと偉い神様が語ることになるのかも。そうだとすると、一番偉い神様が最終的な立場でそうした可能性を語るとき、その神様はいったいどんなふうに色を見ることになるんだろう?それはもう、わたしが知っている<色を見ること>とは、ぜんぜん違ったことなんじゃないかな」
同上、32頁

正直後者だけ引用して、青山の象徴的なレトリックというかエスカレーションというか、そういうものを味わってみようと思ったのだが、前者の「だって、色の見え方というのは、必ず、"誰かにとってのもの"でしょ?いまは、光の波長とかそういうものが問題になっているんじゃない。たとえ同じ光の波長でも二人には色が逆転して見えているかもしれない、という話だったはずだから。」というところが青山的なescalationを導く視座なのだということに気がついた。それが嬉しかった。(14)

話を戻すと、ここでは「関係性」に話が移されていると言えばそうだが、別に「直接性」を捨てたというわけでもない。そういう塩梅が前者の上に挙げた箇所にはあるように思われる。ちなみに『世界は時間でできている』もこの「塩梅」を取りつつ、別の仕方で話を展開していると見ることもできる。たぶん。まだ全部読んでいない。乱読すぎるかな。私。ベルクソン読んだりスピノザ読んだり………

この集中力のなさを肯定しようとしているだけ、と見るのも面白いかもしれない。まあ、おもんないか。

さて、とりあえず話し始め(と言ってもどこがそれかと言われると難しいのだが)で用意していた手札はすべて使い果たした。

………一旦休憩………

なんか、とりあえずメモから始める。詩を作るというのは何か鮮烈なものを鮮度を保つためになされるものであると言える。少なくとも幸福な詩作は。それを突き動かしているのは「これではない」の連続であるが、「これである」もまた後から読めば「これではなかった」の可能性に晒されている。そして、「これであった」という僥倖においても「これではなかった」の可能性はいつまでも取り憑いている。しかしそれが祓われるのは私だけがこの世に生きているわけではないからなのである。(15)

蛇足だ。端的に言えば、鮮度が保てているかは後からしかわからないが先んじてそれがわかるような場合があり、そのときにだけ「意味・概念」とともに「直接経験」が存在しているように感じられる、という話である。この場合は「水準」のようなものはなくなり、ただ単にそれらは二つで一つになることで「クオリア」らしきものを感じさせるという話である。(16)

引用箇所が思いついた。

どういう長さで引用するのが適切かはわからないが私が引用し慣れた長さで。

少し話がずれますが、こうした「あれであれ、これであれ」という肯定の技法は、ドゥルーズの哲学では「離接的綜合」と呼ばれます。映画のイマージュであれ、世界(日常経験)のイマージュであれ、固有の自立したリアリティを備えています。映画は日常経験ではないし、日常経験は映画ではない。でも映画を見るのは日常の「なか」ではないかとも言いたくなりますが、離接的綜合のメリットは、さまざまなものを安易に包含関係や前後関係や優劣関係に置くのでなく、「とりあえず並置してみる」ことにあるのではないかと考えています。普通に言えば芸術は人間がつくったもので、そこには容易に自然/人為という分割が生まれます。しかしたとえば、モネの睡蓮と実際の睡蓮、セザンヌの山と実際の山の間には、「蘭と蜂の並行進化」のような関係、ドゥルーズが「自然に反する婚姻」と呼ぶような関係を想定するほうが生産的なのではないでしょうか。山は山の絵を可能にしますが、山の絵によってしか実現されえない山の感覚もあります。山と山の絵をとりあえず並置してみること、映画的経験と日常的経験をとりあえず並置してみること、こうした離接的綜合の技法によって、派生的なものとして劣位に置かれるもののポジティビティ=実定性を捉え、両者の関係をより創造的なものとして考えることができます。
『ひとごと──クリティカル・エッセイズ』250頁

「山は山の絵を可能にしますが、山の絵によってしか実現されえない山の感覚もあります。」だけでもよかったのですが、まあ、よしとしましょう。「とりあえず並置してみる」ということが成り立つのがいい詩なのかもしれません。(17)ただ、私にとっては、ですが。他人にとってどうなのかは正直よくわかりません。また、ここでの話は「絵」や「映画」の話で「詩」や「音楽」とはまだ違うような気もします。

うーん、とりあえず私の態度をここまでの話に絡めて提示して今回は終わりましょう。私は「直接性」よりは「関係性」に重きを置いていると思います。そして、その「関係性」を青山のように「見る」ことのメカニズムに見るのではなく「問われてこたえる」ことの構造に見ているのだと思います。(18)ここからまた話ができるかもしれませんが、今回はとりあえず推敲をしつつ、思ったことを覚え書きとして書いて、それを最後に掲載(?)して終わりたいと思います。

いや、明日にしよう!形式はとりあえず「覚え書き」にする。補足、注釈型ではなくて。(19)

(1)「本当は」と言うとその後に言われたことの反対のことが嘘だと思っていると思われる(ここでは「他人は私と同じ本を読んでいる」が言わば関数的に嘘だとされてしまう)ので使いたくないのだが、ここではそれでも使わないと伝わらないと思って使った。似ている言葉として「実は」という言葉がある。「本当は」と「実は」は似ているが後者のほうがより実在にこだわっているように見える。「本当は」は実在ではなく解釈にこだわっているように見える。こういう細かい差異を使いつつ文章を書くことは文章を書くことの快楽だろう。なぜなのだろうか。なぜ気持ちいいのだろうか。(20)

(2)書いていたときにも思っていたと思うが「見える形にならない」というのは変な言い方だなあ。まるで「見える形にする」ことがいつも行われているかのようである。仮にこの見方を取るなら程度の問題になるのかもしれない。し、(ちゃんと読み直していないので大したことは言えないのだが)入不二が『問いが問う』で展開している「クオリア」の議論もこの方向性を先鋭化させていると思われる。(『問いを問う』第3章を参照。)ただ、ここには「見る」という行動・行為が挟まっていて、そのことでむしろ青山の議論に近づいているようにも思われる。入不二の議論はもっと、「見る」ということから、行動・行為から離れている。

(3)うーん、正直ここでの議論はうまくいっていないように思われる。「同一性」を支えるものの強度の話をしていると思うのだが、「甘い」はそもそもメディアが指定されていない(「甘い」と言うのか、書くのか、そういう振る舞いをするのか、物理的な相関を示すのか、等々が指定されていない)のでそれが「本、文章、文字」と比較して「奇妙」かどうかはよくわからないと思う。もちろん、すぐ後にデリダの問題系を参照している、というか参照を求めているので「言う」なのだろうが、それならそれでそういう話をしたほうがいいと思う。なんというか、前フリとしてちゃんと機能していない、という感じがする。

(4)まあ、あんまりデリダについて知らないから書かなかったのだが、未来に向けて書いておくとすれば、パロール/エクリチュールの対比には様々な価値判断の織り込まれた対比が連なっていると思うのだが、私はそのなかで自分の発言(言うことも書くことも「発言」と捉えてみる)を擁護できるか否か、が重要な問題なのではないかと思った。言い換えれば、自分で言ったことが誤解されたら「誤解」だと、理解されたら「理解」だとある程度即座に示すことができることがパロールの重要な、そしてここでの文脈で言えば「同じ本を読んでいる人がいる」というリアリティの重要な要素なのではないかと思ったのである。ただ、これが経験論絡みの問題も提起していると思っていて、リアリティの獲得の問題に縮減してしまうのはもったいないという感じもあってひよっていたのだと思う。(21)

(5)これは正直本文に関係がないというか、「分離できなさ」を「識別不可能性と考えたくはない」ということに関わるだけなのだが、私がそう考えたくないのは「識別不可能性」が「分離」及び「識別」を前提としていて、それはゆるされるのか、と思うからである。例えばここでの話で言えば、私の話なのか福尾の話なのかわからない、と言うためにはぼんやりとでも私の話と福尾の話が分離されている必要があるだろう。なぜならそうでなければそもそも「わからない」と言うことすら不可能だからである。「引き継ぎ」の話もこの話なのであって、福尾は「別にベルクソンの話をしていると思ってもらっても、ドゥルーズの話をしていると思ってもらっても、福尾の話をしていると思ってもらっても、別にいいです。」みたいなことを言っていた(結構雑な要約なので詳細を知りたい方は『眼がスクリーンになるとき』の文庫版解説として収録されている座談会を参照してください。)ので、むしろ「識別」及び「分離」の問題を福尾は扱っているのだと私は思っている、と思う。たぶん。なんの話してたっけ。ああ、「分離」と「合成」と「識別(不可能性)」の話か。これらが「他人が私と同じ本を読んでいるとは思えない。」という(奇妙な)感覚の話と繋がるならば、綺麗に繋がるならばこの話をした甲斐があるのだが、現時点では「本」が「分離」の梃子となるという感覚がないのだな、くらいしか言えない。すみません。(22)

(6)めちゃくちゃ長くなりそうなコメントを思いついたのだが、どれくらい書こう。まず、入不二は次のように書く。

「他者の心は在るのか無いのか、在るとしても、その在り方は大きく異なるのではない(/)か」という問い方が、逆立ちしている。'話は逆であって、そのように疑いが生じること(疑いが深まること)自体が、他者の心の他性──埋め終わらない穴性──を生み出す'。他者の心についての懐疑論(疑い)によってこそ、他者の心の他性が、まさにその疑いの遂行において構成される。他者の心"について"疑う(問う)"のではなく"、疑う(問う)こと自体が、他者の心の「他性=穴性」を生み出す。
疑いの遂行において、「このよう"ではない"かもしれない」と〈不在〉が反復することが、他者の心の他性=穴性を遂行的に構成している。ということは、疑いの遂行を媒介にして、他性は、疑う私としてのコギトと繋がっている。他性は、疑いの生起であるコギトと、表裏一体の関係にある。コギトと他性は、疑いの遂行において出会っている。
コギトは、疑いの遂行・生起それ自体であり、特異な出発点である。他性=穴性は、その疑いの遂行が終わらないことである。コギトと他性は、あたかも一つの楕円(疑い)を構成する二つの焦点のようであり、コギトは今のこの疑いの'一回性'に対応し、他性は終わらない疑いの'反復可能性'に対応する。さらに、楕円の極限形態としての円を表象するならば、コギトと他性、あるいは疑いの'一回性と反復可能性'は、一つの点(中心)へと潰れる。コギトは疑い(思い)の遂行・生起それ自体であり、その中身・内容とは無関係にそれ自体として働く。中身、内容との無関係性ゆえに、コギトは「空っぽ」である。他性=穴性(/)は〈不在〉の反復であり、埋め終わることがない。ゆえに、他性=穴性もまた「空っぽ」である。潰れた一点としての中心は、その「'空っぽさ'」を共有する。
『問いを問う』140-142頁

私は本文で基本的に詩を作るときの話をしているのだが、詩を作る場合ここで言われていることと似ていることをそのつど遂行(スイコウ!推敲と同じだ。)しているのだが、その場合は「穴」が「他」ではなく「実」と接続されているように思われる。(23)しかし、ここで重要なのは言葉と現実が、詩と実景が、前者が後者を表現している、という形であるわけではなく、言葉と何かが、詩と何かが混ざり合って現実や実景がそれとして存在するという、そしてその「何か」が「穴」として存在することが「実」の、リアリティの正体なのだということである。(24)その点で言えば、入角晃太郎の入不二基義批判(「マイナス内包という神話」)の展開はここでのコギトと他性の関係でも私のような詩と実景の関係でもないような関係を想定していると言えるのではないかと思う。その詳細についてはまた書けたら書きたい。(25)

(7)しょうもない答えを言うとすれば、これが私のスタイルなのであり、それは実験に過ぎないから、そしてそこで起こっている反応は別に横滑りしたり何かを呼び込んだりしてもまったく構わないと私は思っているから「早とちり」でもいいと思っているのだと思う。(26)

(8)こういう場合、「仕事として」をレトリックとみなして、問題を純化する必要がある。ただ、「仕事として」と事実言われたことは重要なのであり、そのことを忘れてしまってはいけない。何気ない発言をきっかけにすることは「きっかけにする」ことなのであり、そこでの難しさはこのようなことにあるように思われる。

(9)ここでの「大抵」を厳密に理解しようとするならば、高度に発達した異星人が私たちの脳の信号を読み解き、私たちの振る舞いや言葉との相関を取ることで実質的に「心を読む」ということをしていることを想定すればいいだろう。この想定から「クオリア」に向かう道もある。この点についてはいまは正直語る用意がないが、『哲学の問い』の「20 隠された意識」とか、『世界の独在論的存在構造』の第1章、第2章とかを読むのがいいと思う。私も読むだろう。

(10)ここには明確な背景があって、「ビルトイン」されていないのではないかという発想は『それは私がしたことなのか』を背景にしていて、「反復によって物事は存在するのだ」はいろいろあるが思いつくのは『ウィトゲンシュタインの誤診』について言及したツイート(『哲学的洞察』55頁)である。それぞれ要点となりそうな箇所を引用しておけば、「ある行為を成立させた意図をまさにそれとして輪郭づけることができるのは、実際にその行為が成立した後に──あるいは、何らかの外的要因によって行為の遂行が妨げられた後に──その行為やそこに至る状況を回顧することによってなのである。」(『それは私がしたことなのか』109頁)(28)と「心の働きは根本的にコミュニケーションにおいてある──理由への問いと応答の中で輪郭づけられる──のであって、そうしたコミュニケーションから離れて「脳」や「霊魂」といったモノの働きとして自立的に存在するのではない。」(『それは私がしたことなのか』99頁)と「「『文學界』の連載では、注の一つ〔『存在と時間』一三九頁〕で『ウィトゲンシュタインの誤診』に触れつつ、私はこう書いている:「累進構造図に最上段の存在を認めることに対応するのが「実痛み」と「虚痛み」の対立で、それを認めないことに対応するのが「自痛み」と「他痛み」の対立である。「自-他」の反復可能な対立にもなお「実-虚」の一回性の対立を読み取るか、逆に、「実-虚」の一回性の対立にもなお「自-他」の反復可能な対立を読み取るかが問題の本質であって、たとえば「独我論」などといってもどちらに取るかによってまったく違うものになる(というのが私の議論(/)の肝である)のだが、どういうわけかあまり理解が得られない。併せて参照していただけるととてもうれしい。」
「独我論」に関する哲学的問題は、この二面性にあってそこにしかない、というのが私の考えです。
その注の直前の本文ではこう言っている:「知覚されているときの赤とそれを思い出すときの赤がたとえどんなに違っていても、知覚の赤を「あかい」、想起の色を「あくかった」などと(現在形と過去形の違い以外の内容にまでその違いをとどかせて)呼び分けることはできないのであれば、それと同様に、自分が現実に感じる痛みと他人が感じているらしい痛みとがどんなに違って(何しろ片方は感じられないのだから)いても、自分の痛みを「私はいたい」、他人の痛みを「彼はいだい」などと(第一人称と第三人称の違い以外の内容にまでその違いをとどかせて)呼び分けることはできないはずである。たとえどんなに違っていても、それらはまったく同じ赤、まったく同じ痛みなのである。それが「語りの原理」の根幹にある世界把握だからである。」」(『哲学的洞察』55頁)とがある。他にも入不二や青山、千葉雅也や中島隆博なども思いついてきたがキリがないのでこれくらいにしよう。

(11)このような理由付けはいつも怠惰であることを疑われる可能性を持っている。「書くのが面倒だから『気分』に逃げているだけだろう?」と。それはそうかもしれないのだが、そうではないと言うことも難しい。例えばこれは「こだわり」にも言いうることであり、そう考えると「こだわり」はあらかじめこの疑いをシャットアウトするものであると考えることもできる。ただ、そのように疑われてもなお、私はこう思っているというのは(おもねって言えば)私にとっては事実であり、文章を書いてみればよくわかることである。と私は思う。そして特に小説は、それを書くこと、そしてそれを読むことはこの感じが特に強いという感覚もある。だから小説を読むのが面倒なのだが、面倒だからそう言っているだけかもしれない。うん。(29)

(12)「弱毒化」って特徴的なレトリックだな。誰に学んだんだ?似たレトリックとして入不二の「矛盾を先延ばしにして棚上げするという「微温的な」方向」(『現実性の極北』283頁)、「中間項の挿入によって、両項が直接にぶつかって矛盾することのないように「緩衝材」を付け加えるという方向」(同上、283頁)というレトリックがある。なんというか、入不二に比べると当事者性が薄いのかな。「弱毒化」って。いやむしろ、包み込んでしまおうとする感じがあるのかもしれない。「話をする」ことを成り立たせるにはそうするしかないよね、と温和に、しかし包み込んで殺してしまうような感じがあるのかもしれない。

(13)読んでいない人のために要約する(こともまた鍛錬なのである)と、あの本はセックスとジェンダーの関係について、ジェンダーの構築性だけではなくセックスの構築性を主張することに変わって不適切な場面でセックスの非構築性を「参照」することを批判する、みたいな本だと思う(まだ全部読めていない。すみません。)のだが、その「不適切な場面」もまた「参照」なのであり、その「不適切な場面」をそれとして、「恣意性」のないものとして剔出する必要があるという、問題が「参照」という切り口には存在するということをここでは言っている。(30)そしてその問題を千葉雅也は考えていると見なすことができるのではないか、と言っているわけである。

(14)これは私の哲学者観なのだが、哲学者にはそれぞれに固有のescalationがある。これは「誇張」でもあるし「強調」でもあるのだが、それぞれにはそういうものがあるという哲学者観を(おそらくレヴィナスに、そして中島隆博に学んだ千葉雅也(『現代思想』の「哲学のつくり方」という特集の千葉雅也と山口尚の対談を参照。)に学んで)私は持っている。そしてescalationにはそれを支える視座、少し露悪的な言い方をすればtrickがあるのだとここで気がついて、私はそれを喜んでいるのである。ちなみにこのescalationとかtrickをわざわざ英語で書くのはドゥルーズが「セルフエンジョイメント」という単語をずっと翻訳せずにそれとして使っていたという話(『動きすぎてはいけない』(河出文庫)71-77頁参照)に由来すると思う。たぶん。

(15)急に何の話?と思うかもしれないが、私は結構な度合いで「鮮度を保つ」ことによって「鮮烈なもの」をそれとしているところがあると思う、と思った。(31)何の話?詩の話。急になんでここで?「クオリア」を語ることの困難は詩を作ることの困難に似ていると思うから。ふーん。

(16)(15)は早まっちゃったな。まあでも、別のバージョンを書けたから良しとしよう。ちなみに本文で言われていることは(6)の違うバージョンであると言うこともできる。端的に言えば、本文は融合することで「水準」というメタ/ベタの区別のそのものが消えるという話をしていて、(6)はその融合の前と後とで「何か」が消えるという話をしていると思う。「鮮度」の話をするとすれば、前者は「鮮度が保てているかは後からしかわからないが先んじてそれがわかる」ことの不思議さを「水準」という概念を用いて語っていて、後者は「鮮度」を感じるということがどういうシステムで成り立っているかということを語っていると思われる。前者は記述的で後者は説明的であると言えるかもしれない。(32)

(17)例えば「ネモフィラの小さく青い地球かな」という句がありますが、この句は「ネモフィラ」と「地球」を「とりあえず」「小さく青い」「で並置してみる」ことであると言えると思います。まあただ、「小さく青い」と言ってしまっているので「ネモフィラ」と何か、とか何かと「地球」とか、そういう可能性はよぎるかもしれませんが。また、この小さいものから巨きなものへ、という流れはそれ自体が「崇高」のシステムに則っている、ということもよぎるかもしれません。まあ、よぎり方がそれぞれ違いますが。(33)

(18)ここ、よくわかんないっすね。にこにこ。なんというか、私はむしろ「見る」が「問われてこたえる」の構造から導出されたものだと思っている節があるのかもしれません。いや、これもよくわかんないっすね。うーん、わかるのは青山が「見る」のメカニズムに「関係性」を代表させることで「直接性」を異なる形で語っている、と考えられるということくらいでしょうか。また、「一番偉い神様が最終的な立場でそうした可能性を語るとき、その神様はいったいどんなふうに色を見ることになるんだろう?それはもう、わたしが知っている<色を見ること>とは、ぜんぜん違ったことなんじゃないかな」
(『哲学の問い』32頁)ということはむしろ始まりで、そこを出発点として「(色を)見る」ということは導出されているというのが私の感覚としてあるというのもなんとなくわかる。私たちは「ぼーっと」しているから。この「ぼーっと」も「導出」という感じも「実は」福尾匠の『ひとごと──クリティカル・エッセイズ』からの借用なのだけれど、それぞれ示すのは面倒なので場所だけ書いておこう。前者は106-107頁、後者は243頁。(34)

(19)ちゃんと「覚え書き」になったかはわかりませんが楽しかったです。おはようございます。お昼です。夜、そして朝は雨がたくさん降っていましたが、今は恐らく降っていません。頭が痛くないので。注釈の推敲は地獄ですね。(35)にこにこ。だからこそ注釈にしかない軽さのようなものがあるのかもしれません。では。結局「注釈」でしたね。今回はたぶん。まあ、「覚え書き」的なところもありましたが。では。

(20)ここで急に一般的な、少なくともそう見えるように仕立てられた問いが発せられている理由を私は知っている。それは「実在」とか「解釈」とかの話で入不二基義の議論や千葉雅也の議論を呼び込みたくなかったからである。言わばこれはお札なのである。哲学的キョンシーに貼るお札。

(21)そんな君には「僕の経験から言って、他人は、文・論旨の飛躍に対して、書いている本人が思っているところとは、違うところに反応するものである。だから、書いている最中に、「ここの飛躍を難じられるかもしれない」などと神経質にならない方がよい。」(『ツイッター哲学』(河出文庫)54頁)という金言を授けよう。

(22)話を引き継ぐが、「分離」と「識別」のあいだには難しく言えば存在論と認識論の違いが、簡単に言えば人間がいるかいないかの違いが関わっているように思われる。「「分離」及び「識別」」及び「「識別」及び「分離」という表現は推敲時に書き加えたが、そこがよくわかっていないのだと思う。そしてそうなると、最後に「現時点では「本」が「分離」の梃子となるという感覚がないのだな、くらいしか言えない。」というところは「分離」ではなく「識別」の梃子になるという感覚はあって、それゆえに「本」との距離感がわからなくなる=「私がXと読んだAという本をBはCと言っていてDはEと言っている」の「私がXと読んだ」が消えてしまうということがここでは言われているのではないかと思う。BがCと言っているXとDがEと言っているXはあるのだが、そのXになってしまう=自分もXになんとかかんとか言うという感じではなくなってしまうということがここで言われているのではないかと思う。なんというか、変な観念論、私に由来するのではなく本に由来するような変な観念論がここでは言われているのである。もう少しいけそうだが、とりあえず置いておこう。ちなみに注釈のようなものが二周目に入っているが三周目はさすがにしない。お腹が空いているし。

(23)別に入不二がそうしていないわけではない。ちなみにここでは(10)で引用された永井均の「実-虚」と「自-他」のどちらが前提となるか、という話が透かし見られている。いや、なんというか、それが見えて唆しているように見える。私にこう書くように。

(24)この「何か」こそ本文で言うところの「気分」なのかもしれない。

(25)(13)と同じように鍛錬として要約するとすれば、入角の論文は「幽霊のごとき「この言語」が事物そのものへと届くことなどありえない」のだが「誠実性原則」によってそれが可能であるかのように見えている、に過ぎないということを認識し損ねた=「かのように」を通り過ぎた入不二が作ったのが「マイナス内包」であるという論文だと思うが、私は「事物そのものに届く」とかは存在せず、そもそも「事物そのものに届く」かどうかなんてことはどうでもいいと思っている、と思う。「事物そのもの」らしい「この言語」とそうではない「この言語」があるだけだと思う。しかも大抵(詩においてはそうではないかもしれないが)別に届こうが届かなかろうがそんなことは問題にならないのであって、そのことがむしろ問題なのではないかと思う。まあ、入不二と入角の関係がどういうものなのかはまだよくわかっていないので結局書けないのだが。あと、これは「覚え書き」なのだが、「他者の心についての懐疑論(疑い)によってこそ、他者の心の他性が、まさにその疑いの遂行において構成される。」と言われる場合の「他者」について國分功一郎の「類似的他者」という概念(『ドゥルーズの21世紀』の國分の論稿を参照)と突き合わせて考えてみたり、そもそもこの「クオリア」の議論がウィトゲンシュタインにおける「梯子」のようなものであり、大きく見ればウィトゲンシュタインの「治療」のようなものであると考えることもできるのではないかという方向に進んでみたりしてみたい。

(26)ここでは言い訳みたいになってしまっているが、私を詩を、というか俳句を基本的に「早とちり」で作って、それを修正して、そこに生まれたもの、詩想(?)を異なる形で反復して、またそこに生まれた「詩想」を異なる形で反復して、みたいに「詩想」を一応のハブのようなものとして続けていくものであるから、そのことを書けばよかったかもしれない。まあ、後で詩作の話をするだろうと思って抑えていたのかもしれないが。そう考えると「横滑り」は「異なる形で反復」することであり、「何かを呼び込」むというのは「詩想」をハブにするということであると考えられるだろう。まあ、自分で書いたから後から注釈しやすいように変形したのだろうと言われるかもしれないが、別にこんなことを言っても意味はないが、変形はしていない。ふはは。

(27)ここ、注目しそびれていたが面白いな。ただ、「後から問いが作られる。」というのは変な言い方で、正しく言えば「問い-こたえ」の構造の「こたえ」に「言われたこと」が当てはめられて、そこから遡行的に推測して「問い」がそれとしてほぼ自動的に生まれる、という言い方がいいだろう。ちなみにこのような見方は千葉雅也が『勉強の哲学』の文庫版の補章で述べている(実践)哲学(?)に似ている。

たとえば、女性はこうあるべきだとか、管理職ならこう考えるべきだとか、人は何らかの価値観ないし規範から人を判断していて、日常はそういう価値判断の連続です。そこでアイロニーをかけて、本当にその判断は正しいのかと考えてみる。会社で、この業務を担当する者はこうふるまうべきだ、と思っていたけれども、いや本当にそうだろうかと疑ってみる。価値判断を一時停止する。そこで、ユーモア的に別の見方をしようとする。……すると、だんだん、ある特定の価値観のもとでの判断ではなくて、ただ目の前で起きている出来事をそのまま見て受けとめるという感じになっていくでしょう。
目の前で起きている出来事、人の言動の良し悪しを即断できなくなる。判断が宙づりになる。朝、会社で上司が私に言ったことを、アドバイスとして受け取る価値観もあれば、皮肉として受け取る価値観もあるし、冗談だと捉える価値観もあるかもしれない。そのように、さまざまなフィルターをユーモア的に並列させる練習をすれば、人から言(/)われたことの解釈はひと通りではなく、いろいろだと考えることができるようになる。
そうすると、多様な解釈のいわば「交差点」としての、ただ言われたこと、ただ起こっている出来事に向き合うことができるようになる。言われた文字通りの言葉、そのトーン、リズム、身ぶり。それだけ。誰かが、音として言葉を発し、脚を動かして去って行く──野生の動物のように。あなたはその出来事に、自然を観察するみたいに立ち会っている。
『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』(文集文庫)226-227頁

ただ、まあ、違うところもあって、ここには「問い-こたえ」のような関数がない。だから、ここでは「言われたこと」は鳴き声のようなものになるだろう。そして、そこまで行けば関数自体を見ることができるだろう。が、そうしすぎると危険な気もする。ちなみに、これは引用しないが、この「関数」的な発想は私が『ひとごと──クリティカル・エッセイズ』のなかで一番好きなエッセイ、「見て、書くことの読点について」に触発されたものである。

(28)引用にかまけて見ていなかったが「ある行為を成立させた意図をまさにそれとして輪郭づけることができるのは、実際にその行為が成立した後に──あるいは、何らかの外的要因によって行為の遂行が妨げられた後に──その行為やそこに至る状況を回顧することによってなのである。」には「回顧」をどう正当化するか、という問題があると思った。言い換えれば、「実際にその行為が成立した後に」その「意図」を問うことと「何らかの外的要因によって行為の遂行が妨げられた後に」その「意図」を問うことには問うこと自体を正当化する際に異なるロジックがある、もしくは異なる困難、そしてその程度があると思った。ここが本質なのかもしれないなあ。問題の。誰にとっての?さあ?

(29)ここでの「気分」と(24)で言ったような「気分」とではその存在の仕方が違うように思われる。が、ちゃんと言える気はあまりしない。というかそもそも、ここでの「気分」は時期的なもので、(24)のそれは、そしてその奥の(6)の「何か」は流れが流れ込んだものであると言えそうである。もちろんそれは幅を持った瞬間的なものなのだが、その点で共通点を持つのだが、まだよく区別できていないし正直あまりしたいとも思っていない気がする。

(30)いやでも、逆な気もするけどな。というか、メタになり続けない気もするけどな。うーん、だって「恣意性」があるのにそれがないかのように振る舞っている(難しく言えば偶然を必然化しているのにその「必然化」を隠している)ということを指摘することに抗するということは「そうしないとなにも話せないじゃん」みたいなことであって、ああ、よくわかんない!疲れてんのかな。現物、原文がないからかな。でも、あったとしたら語れないことを語ろうとしているのが尊いわけではないのだとしたらここでしていることはなんなんだ?という感じもするし。なんというか、実は「クオリア」は「話をする」ための条件の明確化に使えるのであって、『ポスト構造主義フェミニズムとは何だったのか』もポスト構造主義フェミニズム批判のように見えるけれどそこでのロジックは、「参照」という問題を導くロジックは「話をする」ためにはこういうことが成り立っていないといけないですよね、的なことだと思うから、うーん、うーん。………お腹空いたなあ。なんか、『謝罪論』での古田徹也のなんか、手元にないから正確なことは言えないんだけど、Sorry運動みたいな運動に関する考察の依拠する、言葉は揺れる、という、もう少し言えば事実にも比喩にもなってしまう、的なそれこそ、「見て、書くことの読点について」で書かれていること、もしくは『臨床とことば』(朝日文庫)の「事例研究と文学の違い」で語られているような、うーん………とりあえず終わり。また『ポスト構造主義フェミニズムとは何だったのか』を読みつつ考える。お腹空いた!

(31)(26)の話に似ているが、少し広げておこう。入不二は次のように書いている。

クオリア擁護の側とクオリア批判の側の両方で、一致している点がある。それは、クオリアの在り方(どのようであるか)を"確定的な何か"と考えている点である。クオリア擁護側にとっては、クオリアは"直接的に確定されている何か"であり、クオリア批判側にとって(/)は、クオリアは"関係の中で(関数的に)確定されている何か"である。いずれにしても、クオリアは「確定されている何か」である。
『問いを問う』138-139頁

入不二はここから「確定されていない何か」を問うていき、それは現在の進行中だと思うが、それはいいとして、私はむしろ、「鮮度」が保たれなければならないということについて考えている。「確定」したら古びていくから「確定されていない何か」を求めているとも言えるし、「確定されている何か」に対してしか「鮮度」という概念はそもそも使えないから「確定」を求めるしかないとも言える。そこで、その場所で、その地点で私は考えているのだと思う。

(32)そうだとすると(31)も別のバージョンだな。バージョンをまとめるだけでいい論稿になりそうだ。眠たくなってきた。お腹も空いたし充電もないし。

(33)このよぎり方の違いは「関数」がどのようなものとしてあるかという違いだとも言えると思います。(36)が、いまはもう書けません。お腹が空き過ぎていて。「気分」の他にも「体調」という概念もあります。「気分」は「体調」とも関わりますが、それぞれは別の概念でしょう。これにも注釈をつけたくなるでしょうが、つけません。つけられません。

(34)「導出」ならそれこそ「見て、書くことの読点」の「関数」的発想かな。「導出」ではなく「発生」かな。ここで言いたいのは。

(35)(20)から(35)は推敲しません。修正はします。では素早く!(37)

(36)正直本文も注釈(17)も読み直してはいないのですが、ここで「関数」の違いは「崇高」の文法を「関数」とみなすそれと「並置」の文法を「関数」とみなすそれとの違いがあるのではないかと思います。後者は「関数」に何かと何かを入れれば「並置」度合いが数値として出されそうで面白いですね。前者は広い意味では人間学、美学だと思います。

(37)結局(36)を書いてしまいました。(35)と(本来(36)だったはずの)(37)を並べて終わって、注釈にも本文のような流れを生み出して綺麗に終わろうとしたのですが。まあ、いいです。お昼です!やったー!

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