動機づけ、escalation、オリジナルとコピー
・「ありがとう」と言われたくない
・私はああいう感じの人を好きになってしまう
・夢から悲しさを引き継いでしまう
私は起きて、カーテンを開ける前にこの三つのテーマを書いた。メモした。ここではこの三つについてそれぞれ、軽く、何か、書いておきたい。書いて、起きたい。便宜的にそれぞれのテーマに番号をつけよう。
①「ありがとう」と言われたくない
②私はああいう感じの人を好きになってしまう
③夢から悲しさを引き継いでしまう
まあ、普通に①から行こう。私は次の質問をGemini君に投げた。
心理学の用語で、楽しくてやっていたことなのに報酬をもらうとそのためにやっているかのように感じられてやる気がなくなる、ことをなんと言いますか?
するとこういうふうに返ってきた。
内発的動機づけと外発的動機づけという2種類の動機づけの関係から説明される現象ですね。
これは**アンダーマイニング効果(overjustification effect)**と呼ばれます。
もともと「楽しいから」やっていたり、「好きだから」やっていたりする、内的な要因に基づく内発的動機づけが、金銭的な報酬やご褒美といった外的な要因に基づく外発的動機づけによって阻害されてしまう現象です。
例えば、趣味で絵を描くことが好きだった人が、絵を描いてお金をもらうようになると、次第に「お金のために絵を描く」という意識が強くなり、純粋に「絵を描くこと自体が楽しい」という気持ちが薄れてしまうことがあります。これがアンダーマイニング効果の典型的な例です。
この記述がどれくらい正しいのかはわからないが、この「アンダーマイニング効果」というものを私は心理学の講義で知った。大学(院)の。そのときは「名前ついてるんだ、」くらいの感じだったが、いまはもう少し踏み込んで考えている。
私が考えている、というか思っているのは、外発的とか、内発的とか、そういうことそのものが(広義の)「ご褒美」がそれとなることから生まれてくるのではないか、ということである。そして、それがぽっと生まれてくるのではなく大体の人に普通に現れるのは、「動機づけ」という次元が大体の人に普通に存在するからではないか、と思った。
ところで、このテーマは「「ありがとう」と言われたくない」というふうに表現されているが、それはなぜなのだろうか。
一つのエピソードがある。あるラーメン屋さんに行ったとき、扉の向こうから足の悪そうなお爺さんが歩いてきているのが見えて、私は扉を開けて待っていた。すると、おじいさんは通り過ぎたあと私に「ありがとう」と言ってきた。私は(なぜか)それを聞いてある種の不機嫌になった。こんなエピソードがあるからこのテーマはこのように表現されているのである。
私は別に優しくしようと思って扉を開けて待っていたのではなく、そして別にしたいと思ってそうしたわけですらなく、ただ単にそうしていただけで、上の「エピソード」も「ありがとう」と言われなければ生まれることすらなかった。この「生まれることすらなかった」と上の「エピソード」のあいだにある、お話を作らせる、「動機-行動」みたいなお話を作らせる、そのことに私は居心地の悪さを感じているのである。おそらく。
そして最近も、同居人と喧嘩(?)みたいになることがあって、その原因が結局「ありがとう」と言われたいか否かに収斂した。そういうこともあって、上のような踏み込みはなされ、それは、正しいか否かは別として、少なくとも私にはそれほど的外れであるようには思われないのである。ここからどのように進むかはまた別の機会に任せよう。
③から行こうか。
私はたまに、こわいというよりもかなしい夢を見る。人間のかなしさがそこに象徴的に凝縮されているような、そんな夢を見る。それは「夢」なのだが、しかし起きてからもかなしくて、ときには泣いてしまうことがあるのだ。しかし、考えてみればこれは不思議なことではないか。しかし、考えてみればこれは普通のことではないか。このように揺れている。
不思議ではない=普通であるという見方からすれば、「夢」は映画やアニメのようなもので、そこでかなしくなったりした場合も引きずることはあるのだから、あれと同じだと考えれば普通だと考えても不思議はない。それはそうだ。
しかし、それとは少し違うとも思う。他の人がどうかは知らないが、大抵私の「夢」には私が登場して、私からしか世界が開けていない。もちろん、そこから世界が開けているのが私なのでありその逆ではないと言えばそう(これは永井均の議論を背景にしたエクスキューズである。エクスキューズの哲学というものをずっとうっすら構想している。)だが、とりあえずそれは置いておこう。私にかなしみが生じ、「夢」のなかで生じ、それが「夢」から起きた私にも引き継がれ、それがescalationして私は泣いてしまうのである。
そうなると、図式的には、「夢」のかなしみ→「夢」のかなしみを引き継いだわたくし→「夢」のかなしみがescalationして泣いてしまったわたくし、という段階があると言える。私はもしかすると「escalation」に不思議を感じているのかもしれない。そして、それがそれとして感じられることが不思議だと思っているのかもしれない。映画やアニメはもっと直接的な、なんというか、共鳴をしていると思うのだが、この「夢」のかなしみの場合はそうではないのだ。
ただ、これにも程度があって、直接的な共鳴に寄っている場合もあれば、間接的な共鳴に寄っている場合もある。まあ、もしかしたら後者は「酔っている」のかもしれない。かなしみ、のようなものに。それに、覚えている限りでは一人で、一人の部屋で寝起きしていた実家では泣いてしまうまでのことはなかったので、いまは同居人が居て、慰めてもらおうとしているだけなのかもしれない。そうなると、引き継ぎとか、共鳴とか、escalationとか、そういうことのメカニズムには他者が必要なのかもしれない、と考えることもできる。これくらいにしよう。ここくらいにしておこう。
②に行こう。
これはなぜか、今日、③があったあと、同居人に慰めてもらって落ち着いて、同居人が出かけて、トイレに行こうとして立ったときに思いついたことなのだが、私にも好きなタイプというか、好きな感じというか、そういうものがあることが直観された。時系列順に行こう。
まず、私には好きな女友達がいる。(わざわざ「女友達」と書く必要はないが、とりあえず区別のために書いている。)その人をSと呼ぼう。そしてまた、別にSに対しての好きとは違うが好きな女友達Nが居る。
次に、私はある集まりに行ったとき、ほとんど知らないのにある人を「ああ、俺はあの人が好きなんだろうな。」と思った。その人を(あ、名前知らないや。被らないからAにしよう。友達というほどではないが女性ではある。)「Sに似ているから好きだわ。たぶん。」みたいに処理(?)した。
そのあと、私はある集まり(上の「ある集まり」とは別の集まり。)でIという人と仲良くなった。女友達だ。そしてあるとき、Nに「あれが(T(私のこと)と仲良い)Iか。Sに似てるね。」と言われた。私はIについてNに話してはいたが、 NとIはそのときはじめて出会った。私はそのときは「そうかなあ。」と思っていた。
最後に、昨日、Iがある人(別にこの人はこのあと出てこないと思うのでアルファベットをつける必要はないかもしれないが、まあ付けておくか。Mだ。女友達だ。つけたらつけたであとで出そうという気になってきた。)のインスタのストーリーに出てきた。そのいくつかの写真を見たとき、私はすごく惹かれた。そして、そのときにやっとNが言っていた意味がわかった。顔とか振る舞いとかは全然違うと思うが、雰囲気(?)はとても似ていたのだ。
そして、朝、泣いたあと、「私はああいう感じの人が好きなんだ。」と自覚したのだ。
で、まあ、それはいいのだが、私はSのような人が好きなのか、それともSやAやIのような人が好きでたまたまSが時間的に最初だったからAやIを「Sのような人」と言っているのかどちらなのだろうか。
これは構造としては「初恋こそが真の恋なのか」みたいなことと同じ問題だと思う。ただ、私が前提にしている「初恋こそが真の恋なのである」という名言のようなものを誰が言ったのものなのか思い出せない。ので、なんだか踏み込めない。ツルゲーネフか?それとも、それは『初恋』というタイトルに引っ張られているだけなのか。なんか、もう少しひねった表現だったような気がする。「初恋以外の恋は初恋を模倣するものである。」みたいな。まあ、別に名言を追いかけても仕方がないか。
この問題はオリジナルとコピーの問題(私がこの「問題」をそれとして知っているのはトゥルーズによってである。)でもあるだろう。そもそも、Sが好きなのもいろいろな偶然によることだろうし、Iはもうちょっと必然よりだがそれでも偶然によることだろう。Aに関してはほとんど一目惚れみたいなものなのだが、しかしその一目惚れには本当かどうかは別として「Sのような人だ」という判断があると思う。
NやMが居なかったら、私は私のタイプについて知ることはなかったのだろうか。まあ、そんなことはわからない。居た世界にしか私は生きていないのだから。フッサールの用語で「想像的変更」みたいな用語があったと思うが、あれは意味の次元に頼っている感じがする、と今思った。
もう特に書くことはないが、「私はSのような人が好きなのか、それともSやAやIのような人が好きでたまたまSが時間的に最初だったからAやIを「Sのような人」と言っているのかどちらなのだろうか。」という問いは極めて問い甲斐のある問いだと思う。
さて、三つのテーマを抱き合わせてみた。①と③はある程度近い感じがしたが、②がまだよくわかっていない。まあ、楽しかったのでよしとしよう。三つとも箇条書きにしてなんとなく思い描いていたときよりも踏み込んで考えることはできたと思う。では。「たとふれば心は君に寄りながらわらはは西へでは左様なら」(紀野恵)。カーテンを開けましょう。
