何かをしている人80(『訂正可能性の哲学』9)
少し頭が痛い。少しだ。少しだけ、頭が痛い。
東浩紀のルソーと上野修のスピノザ、『訂正可能性の哲学』と『スピノザ考』、そのあいだに私は居る。どちらも超越的なものの素朴な(?)実在をブロックしている。そのブロックの仕方が異なるのだ。
私はいま、『訂正可能性の哲学』の第8章を読んでいる。
言い訳、というのは面白いものだ。されると面倒なものだが………
顔を洗いに行こう。まだ、なぜわざわざ『新エロイーズ』を読んでいるのかがわからない。なんというか、東浩紀は非常にエクスキューズフル(これは造語だ。エクスキューズに満ち満ちている、みたいな意味だ。「エクスキューズ」というのは「断りを入れる」みたいなことである。)な書き手であり、それはおそらく私が「エクスキューズ」に興味があるからそうであるくらいには顕在的な特徴ではない。おそらく。しかし、「エクスキューズ」と言わずに別の言い方をするならば、福尾匠が「言葉と物」という連載の初めのあたりに柄谷行人と東浩紀を比較しているときに似たようなことが言われていたような気がする。(「そんなにエクスキューズフルにならなくても………」みたいな議論だった気がする。)もしかするとこの関心も福尾匠に触発されたものなのかもしれない。まあ、それを明確に判別するのは極めて困難なくらい、私にとっては大きなテーマなのだ。
顔を洗ってくる。節の切れ目だ。
トイレに来た。顔は洗った。11月20日に出る、福尾匠の新刊、『置き配的』は連載、「言葉と物」を元にした本である。
このように書く場合、とりあえず、「トイレに来た。顔は洗った。」は無視すると、単に「11月20日」と書くか、「2025年11月20日」と書くか、という分岐が私には見える。後者なら来年にも再来年にも読まれうるという想定があると考えることができるだろう。しかしそれは過剰な「エクスキューズ」、いわばお節介にもなりうる。この狭間を私は考えている(生きている?)わけである。
「本質の本質は喪失の喪失である」と書いた私はまだ、私のなかに生きているのだろうか。
「なんか見た」というハッシュタグは極めて面白い。が、それをまだ十全に語ることはできない。
社交の拡大がなぜ問題なのか。それはじつは『社会契約論』の議論と関係している。第六章で記したように、ルソーは一般意志が討議や合意によって生まれるものだと考えていなかった。
一般意志は確かに特殊意志の集まりではある。ただしそれは、社会契約によって一気に出現するものであり、けっして市民が議論を交わして生み出すものではない。ルソーはむしろ、市民が集まり、論争したり党派をつくったりして相互に利害を調整する過程は、特殊意志の表出を歪め、一般意志の形成にとって障害になると考えていた(第二篇第三章)。同じことが社交についてもいえる。社交とは要は、他者からの視線を意識することで、市民ひとりひとりが特殊意志の表出を歪めるふるまいのことだからである。演劇はまさにその社交を強化するものであり、したがって一般意志の形成を阻害し、健全な統治も阻むという結論になるのである。
この懸念は二一世紀のいまも有効である。演劇が社会を壊すという主張に戸惑う読者も、さきほどの引用[=「[パリでは]みんな芝居の楽しみを求めて劇場に行くのではなく、人の集まりを見に、人から見られるために、終わったあとのおしゃべりの種を拾い集めに行くのでして、見ているものを心に留めるのはあとでなにか言うことを見つけておくためにすぎません」:引用者]の「みんな芝居の楽しみを求めて劇場に行くのではなく」を「みんな作品の質を求めてリンクをクリックするのではなく」と置き換えれば、多少の想像力が働くのではないか。ルソーの危惧は、かりに現代の娯楽に対応させるならば、ツイッターやYouTubeが導入されることで、人々が「いいね」とリツイートばかりを気にするようになり、つまりは虚飾と社交ばかりを求めるようになり、親密な対話と観賞の空間が壊れて社会が荒れるといった事態に向けられている。それはまさに、いま世界が直面しているポピュリズムの問題そのものである。
『訂正可能性の哲学』278頁
私はやはりスピノザのことを思い出した。
『政治論』の冒頭(第一章第一─七節)は、一つのマニフェストである。これまで哲学者たちは国家を論じる際、あるがままの人間たちでなく、自分が望んでいるような人間たちを念頭に置いてきた。だが為政者なり民衆なりがもっぱら理性の掟に従って生きるように導かれうるなどと夢想してはならない。それではまるで「黄金時代やおとぎ話」ではないか。このように言うスピノザが斥けるのは、「理性の教説」を政治論の基礎に置くような一切の言説である。実際、人間は「野蛮人たると文明人たるとに関わりなく、いたるところで相互に結合し、何らかの国家状態を形成している」。とすれば問題は、理性の教説を共有してもいないそうした人間の群れが、それでいてけっして国家状態を解体せず、現に「あたかも一つの精神によってのように導かれる」ことをやめないでいるという事実そのものではないか。逆説としての群集。これが問題なのであって、『政治論』の核心はそこにあると見てよい。
『スピノザ考──人間ならざる思考へ』143頁
この箇所を引用して私は、次のように書いている。
同じようなバイブスを『訂正可能性の哲学』の東浩紀にも感じる。東浩紀はクリプケンシュタインに依拠した「訂正」にこの「あたかも一つの精神によってのように導かれる」ことが作り出されるロジックを見出したが、スピノザはどうなのだろうか。私は、真っ直ぐここであるわけではないが、ここに近いどこかに少なくとも一つの核心を、確信を感じているように思われる。
「何かをしている人79」
私がスピノザの何を思い出したのか、それを明確に言うことはまだ難しいが、当ては付いている。私はおそらく「実際、人間は「野蛮人たると文明人たるとに関わりなく、いたるところで相互に結合し、何らかの国家状態を形成している」。とすれば問題は、理性の教説を共有してもいないそうした人間の群れが、それでいてけっして国家状態を解体せず、現に「あたかも一つの精神によってのように導かれる」ことをやめないでいるという事実そのものではないか。」というところを思い出していた。
東浩紀のルソーも上野修のスピノザも、ある次元を析出しようとしている点で同じであるように思われる。上で『スピノザ考』から引用した箇所に付いている注ではないが、こんな注がある文章に付けられている。別に元の文章がなくてもわかると思うので注だけ引用する。(これは明らかに「エクスキューズ」だし、「上で『スピノザ考』から引用した箇所に付いている注ではないが」も「エクスキューズ」である。)
おそらくここで、人はマキアヴェッリを思い浮かべるだろう。実際マキアヴェッリは『政治論』が名指しで称讚する唯一の著者である。冒頭で実際政治家を哲学者に対立させるとき、スピノザはおそらくマキアヴェッリのことを念頭に置いていたに違いない。しかしスピノザがマキアヴェッリ的大衆操作を是としていると断ずるのは性急である。ここで問題になっている一種の狡智について、マトゥロンは的確な指摘をしている。すなわち「実践の組織が可能となるのは、臣民たちの情念が現実にいかなるものであるかが配慮されていて、彼らが体制システムを再生産するような行動へと必然的に決定されるような、そうした体制システムの配置によるしかない」。しかしかかる体制システムの認識は、もはや経験的な政治家の知でもなければ、実践が従わねばならぬ規範の決定でもない。それは「〈実践〉そのものを〈対象〉とするような〈純粋に思弁的な〉理論」、すなわち「情念に突き動かされる人間たちの現実的な行動を統御するような条件総体についての客観的な(現代的な意味で〈科学的〉な)認識」であって、「そこから自己制御的な政治システムにはどんな異なるタイプがありうるかが演繹されるだろう」。そのと(/)き、かかる「自己制御的構造」は、マキアヴェッリ的大衆操作をも取るに足らないものにしてしまうだろう。つまりは「体制の客観的〈狡智〉(astutia)」が政治家の計略に取って代わるのである。「かくて〈哲学者〉と〈政治家〉という対立は、それら二つの項のそれぞれがラディカルに覆されることによって乗り越えられる」ことになる
同上、373-374頁
すごく雑に要約すれば(雑ではない要約など存在するのだろうか?これは「エクスキューズ」なのだろうか?)、生み出されたものの次元と生み出すことの次元があり、スピノザもルソーもその区別そのものを析出しようとしているように、私には見えるのだ。
もう少しスピノザの話、というか、ホッブズとスピノザの話をしてもいいが、長くなりそうなので要約しておこう。ホッブズは「あたかも」という表現で「まだ」と「すでに」を架橋した。それに対してスピノザは「あたかも」という表現でその「架橋」を指し示そうとした。(詳細については『スピノザ考』の第6章を参照。)ルソーは、「まだ」と「すでに」が絡まる様子=「架橋」が一筋縄ではいかない様子を描き出した。いや、少なくとも「東浩紀のルソー」はそういう意義を持つ存在として描き出されている≒東浩紀はルソーをそういう意義を持つ存在として描き出している。それで言えば、ホッブズとスピノザも同様に描き出されている≒上野修が描き出しているのだが、『スピノザ考』のほうはそれが見えにくいので私は「上野修のスピノザ」と言うときの「の」と「東浩紀のルソー」と言うときの「の」は似ているようでかなり違う。しかし、似ているのは似ているのでそう書いている。まあ別に上野修が不親切であるというよりは東浩紀が親切なのだと思う。このことと「エクスキューズフル」は重なるところがあるにはあるが、冒頭で「エクスキューズフル」を造語したときにはこのことは念頭になかったと思う。あったかもしれないが、このことを思っていたと言えば嘘になると思う。
『訂正可能性の哲学』に戻る。
それでは、あらためて『新エロイーズ』に戻るとしよう。
『訂正可能性の哲学』279頁
一つだけ。上で引用した箇所に次のようなところがあった。
一般意志は確かに特殊意志の集まりではある。ただしそれは、社会契約によって一気に出現するものであり、けっして市民が議論を交わして生み出すものではない。ルソーはむしろ、市民が集まり、論争したり党派をつくったりして相互に利害を調整する過程は、特殊意志の表出を歪め、一般意志の形成にとって障害になると考えていた(第二篇第三章)。同じことが社交についてもいえる。社交とは要は、他者からの視線を意識することで、市民ひとりひとりが特殊意志の表出を歪めるふるまいのことだからである。演劇はまさにその社交を強化するものであり、したがって一般意志の形成を阻害し、健全な統治も阻むという結論になるのである。
同上、278頁
ここで私は、そのように「歪め」られることによってしか「一般意志」は存在しないのではないか、みたいなスピノザを見たのだった。おそらく。引用するだけに留めよう。長大な引用になってしまうので、ここまでの話が気になっている人は読んでくれたらいい。まあ、そんなことを言ったら全部そうなのだが。
国家ないし「統治」(Imperium)を規定するのは「各人の力能」ではなく、「あたかも一つの精神によってのように導かれる群集」の力能であると考えねばならない。「群集の力能」によって規定される「自然の権利そのもの」、それが統治なのである。
<中略>(/)
社会契約説が、各人相互の信約という(少なくともその主張によるかぎりは)対称的な二者的相互性によって超越的第三項を立て、その高みへとこれを排除する論理であったとすれば、『政治論』の提示するロジックは何かまったく違うものと言わねばならない。各人が群集内部で差し引かれ〈残りの者〉からそれぞれに排除されながら、しかも同時に他者に対してはその他者を凌駕する〈残りの者〉の力の一翼を担って現われ、そうやって結局は皆が、おそらくは各人の意図とは別なところで非対称的な力関係に互いを等しく置きあってしまう……そんなロジック、いわば〈非対称的なるものの相互性〉から成る〈残りの者のロジック〉とでも言うべきものを、このスピノザの与える国家の唯一の定義は提示しているのである。群集を一つにするもの、それは相互承認をもたらす「理性の導き」ではない。「何らか共通する情動(affectus)」であるとスピノザは言う。つまりは全員が同一のものを恐れあるいは期待する情動の体制、これが国家状態であって、そこでは皆がそれぞれに、自己を差し引いた〈残りの者〉全体の力を等しく恐れ、期待するのだ。しかし〈残りの者〉とは何なのか。
それはしかと現前するものではない。『エチカ』の定義によれば、「期待」(spes)や「恐れ」(metus)とは、現前しない不確実な事柄、「われわれがそのなりゆきに幾分疑念を抱いているような、そういう未来あるいは過去の事柄」の観念から生じる不安定な情動である。契約説のXが示していた[ここでは詳述できないが上でホッブズの「架橋」に触れたようなことがこの記述の前に示されていた。:引用者]ように、統合された〈残りの者〉の力がめいめいにとって本当に現出するかどうか保証はな(/)い。にもかかわらず、いや、期待と恐れの本質からすれば、むしろそれゆえに、めいめいがイマジネールな仕方で等しくそのなりゆきの不確実な力を恐れあるいは期待するのである。こうして各人は恐れと期待が続く限り、〈残りの者〉の力がその下で統合されるやもしれぬとそれぞれに表象する、その法の声に服するだろう。するとどうなるか。当然にもこのことは、まさにそのように表象する身体の振舞いの総計が、その恐れあるいは期待されている当の力を、各人の表象の外部で遂行的に実現してしまうことを意味する。皆がめいめいに、さして根拠もなしにそう思うから、思われていることがあたかも根拠のある合意にもとづくかのように各人の外で生じる、と言ってもよい。そうやって各人は互いにとっての〈残りの者〉の力を、実のところは何の保証もないまま、相互に対して実現しあってしまうわけである。保証なき〈残りの者〉の力を各人が期待し恐れ、それが互いにとって現実の〈残りの者〉の力の実現となり、今度はこの実現が各人の期待と恐れをまた備給し……。そこには保証なき履行があたかも保証があるかのごとき現実を産出し続けるといった逆説的な、いわば産出的循環といったものが存在する。〈残りの者〉の力が現実に存在し始めているのか、それとも各人の表象上の定かならぬ先取りにすぎぬのか、それを決定できる当事者はそこにはだれもいない。むしろだれもいないからこそ、それは現実化してやまないのである。こうしてわれわれは、契約説が抑圧していたあの決定不能なX、〈他者たちの履行〉が、そのまま〈残りの者〉のロジックの中に、しかし今度はそれ自体において決定不能でなければならぬ構成的要素として組み込まれているのに気づかされるのだ。
『スピノザ考』144-146頁
私の拙い編集のせいで読みにくくなったかもしれないが、「歪め」られることなしには、そもそも「国家」なりそれを形成する「群集の力能」なりは機能しないのであり、そうはなっていない=「野蛮人たると文明人たるとに関わりなく、いたるところで相互に結合し、何らかの国家状態を形成している」というところからスピノザは論をはじめているのである。この態度そのものについて、もしくはこの態度がただの現状追認にならないようにすることについても『スピノザ考』では描かれていると私は思う。前者については第1章、第2章で、後者については第15章、そしておそらく(まだ読んでいない)第7章で描かれていると私は思う。このことに関する『訂正可能性の哲学』の箇所を引用して、今日のところはおしまいにしよう。続きを読もうとも思ったが、そろそろ同居人が帰ってきそうなので、私は晩御飯を作る係なので、推敲もあるので、これくらいに留めておこうと思う。
ルソーは、社会契約は「訂正」によって遡行的に発見されるものだと考えていた。それはもともとは実在しない。しかし発見されたあとは実在する。懐疑論者が問題提起することで、クワス算が実在してしまうように。
ぼくはさきほど、ルソーの思想には矛盾があるようにみえ、哲学者のあいだで問題になってきたと記した。訂正可能性の論理への注目はその疑問を解消してくれる。ルソーはじつはあらゆる著作で、一貫して社会が悪で自然が善だと主張している。そこはまったくぶれていない。同じように、人間が不平等な社会をつくって「しまった」、その現状への嘆きも変わっていない。ただし彼は『社会契約論』では例外的に、まずはその現実を受け入れ、遡行的に理由を探るという、ほかの著(/)作とはまったく逆の順序で議論を組み立てているのである。だから『人間不平等起源論』では社会契約は必然ではないはずなのに、『社会契約論』の論理では社会契約は必然になるという表面的な矛盾が生まれるのだ。
ルソーは前述のように、なにが公的な発言でなにが私的な呪詛なのか、その区別すら怪しい人物だった。しかしそんな彼も、社会なるものが存在し、自由を制限していることは知っていた。というよりもそれにこそ悩まされていた。それゆえ彼は、その愚かな現実の起源を探るために歴史を再構成した。『社会契約論』は要はそのような書物なのではないか。
だとすれば、一般意志もまた、もはや単純に実在するものだと考えてはいけないだろう。それはあくまでも、「"もし"いま不平等な社会が成立しているのだと"すれば"」という条件のもとで、遡行的に見出される仮説的な存在と理解するべきなのである。
不平等な社会はどこでも成立しているのだから、その仮定は現実には条件節として機能しない。だから『社会契約論』をふつうに読めば、一般意志は素朴に実在すると語られているようにしか受け取れない。けれども、その隠された仮定を想定するとしないとでは、同書の多くの箇所の読みが異なってくる。
『訂正可能性の哲学』195-196頁
まだ少し、頭が痛い。栞を、栞になるものを探しに行ったとき、立ったときに気がついた。
一つだけ。いまは読み直さないが、ルソーは「全体意志」と「一般意志」を区別していた。「一般意志」は理論的に言えば(?)そもそも「歪め」られることのないものであると言えるのではないだろうか。だとすれば、(東浩紀の)ルソーは変なことを言っていることにはならないだろうか。
