ダイラタンシー的存在論とか

存在と浮かび上がりにも存在と二重化のような関係があるが、後者のほうが結びつきが強いと思われる。ここにスピノザの「構成」を見る余地があり、この差分が何に由来するか考える余地もあるように思われる。

私がよく言うダイラタンシー的な存在論はこの二つの短絡化の短絡化であり、それに甘えている時がないとは言えないが、基本的にその「短絡」そして「化」を考えるためにそのイメージはあると言って差し支えないと思われる。

ダイラタンシー的な存在論のポイントはダイラタンシーにおける「力」が「二重化」であることだと思う。そこをある種スケール的に、もしくは強度的に、まあ、考えても一向に構わないけれど、うーん、という感じがする。

「力」を考えるとき、それが遡行によって生じたことになるのか、ただ単に生じるのか、どちらかであると考えるとすれば、前者は人間に近くなり、後者は人間から遠くなる。ここにあるのは遠近の運動であり、人間はその運動の名前であると言えるかもしれない。

「私は、「決定論」から「確定論」へと、運命論を読み換えようとしている。」(『現実性の問題』154頁)入不二はこのように言う。これは「二項関係性」から「単項性・単独性」への移行を「運命論」に見るということだが、私はこれを「二重化」やスピノザにおける「構成」に近いものとして感じる。

これは、なんというか、ほとんど自動的にそうなされているのであり、私はそれを選んだ気がしていない。ただ、運命的なものであるとも感じていない。ただ、千葉雅也の「去勢」の議論はある種のフックになる=手がかりになると思っている。変わることについての。そして変わらないことについての。

私は(千葉がいつか動物に見たような)非常に強い「去勢」を感じつつ、(千葉がいつか國分に見たような)「環世界移動能力」と言うと綺麗すぎる変化も感じている。なんというか、それはまだ問題になっていないのだ。そしてその予感も………

いやあ、なんというか、「強度」も「スケール」も、跨ぐことによって深みを出している感じがするからなあ。横断か縦断かは難しい(仮に考えるとすれば前者が「強度」で後者が「スケール」かな)が、それはそれとして「構成」にはある種の浅みがある。

頭が痛い。低気圧で。ただ、入不二のものは読めるような気がする。今はご飯の前だから読んではいないが、そんな気がする。私はナチュラルボーンフィロソファーではないと思うが、それでもそんな感じなのである。不思議なことだ。からだに合うだけなのか、入不二哲学が凄いのか、それはわからない。

もうこのツイート、連続ツイートは今日の日記のようなものにしようと思っている。なんか好きなんだよなあ。吊るしていくみたいで。

入不二哲学における「人間」の宙吊り感は、非人間も、それからescalationした何かも、それぞれその「宙吊り」の開発であると考える余地を与えてくれる。江川哲学は、スピノザを経由して、この開発の、ルール自体の開発をしている感じだと思われる。この流れを汲めば。

江川哲学はわかったりわからなかったりする。近づいたり離れたり、遠ざかったりする。入不二哲学にそういうところはない。言い方は良くないかもしれないが、どんどん悟っていくだけである。

頭が痛くて、眠れると思って、さっきまで目を瞑っていたのだが、そこではいろいろな何かが浮かんでは消えていたのだが、その中の一つに「入不二は自身の哲学を(書くとかではなく)語るときどういう感じになるのか」という疑問があった。どういう種類の疑問かはよくわかっていない。

「[運命論における:引用者]「あらかじめ」とは、未来もやがて現在になり過去になること、そして、その未来を現在の時点でも過去として捉えることができること、これらをすべて一語に凝縮した表現である。」(同上、157頁)ここでの「圧縮」はいいなあ。

圧縮・解凍モデルは基本的にあんまり好きじゃないんだよなあ。それがなぜかを考える「ジグ」として、「短絡化」とか「後付け」とか、そういう言い方はあるのだと思う。

どうでもいいことだが、『自分ということ』を誰かに貸した記憶があるが、実家にあるような気もする。もう一度買ってもまあ、いいっちゃいいんだけど………ラカンはなんだか心がざわざわしてしまうからなあ。

AであるかAでないか、もしくはAであるかBであるか、この二つは「主題」の在り方が異なると言えるだろう。そして、このように捉えることは、「主題」の在り方にも存在論的差異のようなものがあると考えることを可能にする、より強く可能にするのではないか。そんな思いが私にはあるのかもしれない。

「初発の現実には、否定が追いつかない。」(『現実性の問題』160頁)というのはそういうことを言っていると思われる。いや、近いから勘違いしているのかもしれない。最近もあったんだよな。『アンチ・モラリア』を比較的読めていると思ったら全然だったこと。

直前の「その[=「初発の現実」の:引用者]肯定に対しては、否定は遅れざるを得ない。」(同上、160頁)のほうが私のイメージに近いかな。「追いつかない」だとアキレスと亀みが出てくる。それはそれでいいが、それはまだ、わざわざ言われていることであるように感じられるところがある。

「もちろん、この「論証」が述べる「現実の必然性」と、前段落で私が述べた「初発の現実の必然性」のあいだには、すでにして「ズレ」「隙間」がある。論理の内と外の「ズレ」と言ってもよい。

その「ズレ」「隙間」こそが、以下で述べる転化──偶然⇄必然──のための「蝶番」として働いていると捉えることもできる。」(同上、161頁)読んでいない人にはわからない引用だが申し訳ない。ここはとても重要だ。私はこの「ズレ」を、「隙間」をどう活用するのだろうか。

「排中律(可能性)の内に飼い慣らされて偶然性を帯びていた「現実」は、その野生を回復することによって必然化する。それは、第1章の円環モデルで言えば、右半円側から、円環の始発(/)点へと向けて遡るように「現実」を見ていることに相当する(偶然から必然へ)。

だからこそ、円環の始発点から右半円側へと(時計回りに)もう一度辿るならば、その必然性を帯びた「現実」は再び偶然化する(必然から偶然へ)。」(同上、160-161頁)これまた読んでいないとわからない引用だが、「円環モデル」の逆流は私の中で一つのテーマなのだと思う。

私は「始発点」を逆流的に構築しつつ、その点を繋げて線にする、そこにも同じような、しかし異なる構築を施しているのかもしれない。そこに千葉雅也の「可塑」的な「儀礼」の話が繋がっているのかもしれない。だからそれは特別の「可塑」性なのだ。

「偶然⇄必然の転化は、同一水準の「時計回り」⇄「反時計回り」のところで繰り返されるだけではない。」(同上、161頁)以降は、まだ「評価」(この単語を私は数学に関する会話の中で聞いて「いいね」と思った。)できない。

私は結構、「円環モデル」の上半分しかわからないと言っているが、上半分すらわかっていない可能性がある。高階化も潜在性の場も、あんまりfeelする感じがないのだ。

なんというか、決定されている持続が、複数化することも順序化することもなく、ただ単にそれぞれ存在している感じがする。これは確かに経験論的だが、………

「絶対現実」もなあ、わかるけど、前から何度も言っているけれど、それを語る、勇気のようなものが私には不思議なんだよなあ。不思議を勇気に変換してしまっているのかもしれないが。

「上半分」は「絶対現実」のことなのかもしれない。誤読であるとは思うが、164頁の図の左側、「絶対現実-接触点-相対現実」というところを見てそう思った。ここには見事な「二重化」が効いている。し、そこには、なんというか、強度がある。

「ベタな時間推移」における「一様であることの必然性」は「決定されている持続」に近いし「可塑」的ではない「儀礼」にも近い。ただ、それは「近い」だけで、それらに「一様であることの必然性」への傾きが見られていてそれがそれらの魅力を支えている、くらいのことは言える、が、それしか言えない。

「「無でさえない未来」は、未来への反運命論的な(常識的な)関与を台無しにするという仕方で、アンチ・アンチ・運命論的に(ということは運命論的に)働く。」(同上、175頁)びび。「翅音びび」。

続きも面白そうだったが、今日はこれくらいで。

『足の裏に影はあるか?ないか?』の話が触れられていたので『足の裏に影はあるか?ないか?』をポリ袋にダニの薬と一緒に入れていることを思い出した。あれいつ開けようかな。目を遣ればあるのだけれど。

バイクに乗っているときにはためかせれば、いい感じに、イメージ的にもいい感じになるかな、と思っていたのだが、それはどうやったらできるんだ?といま思っている。はためいてほしいんだよなあ。気のせいである可能性を消して、受け入れたいから。

普通にもう一つ買ってもええけどなあ。でもそれも痒くなったら、それはそれでかなしいしなあ。うん。

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