何かをしている人72(『訂正可能性の哲学』6)

さて、『訂正可能性の哲学』第2部に入る。

イヤホンを外した。物干し竿に頭をぶつけた。

反論を想定し、それに反論する。基本的に(特に哲学に類する)本はそう書かれている。

だからなんだ?と思われるかもしれないが、とりあえずこのことを私は考えているのだ。この本を読んでいるとき。内容についてももちろん、たまに思い出すが、それはそれとして、私はこのことを考えているのだ。この本で。

比喩は精密になればなるほど、その必要性を失っていくのではないか。

ちなみにこれは別に本を読んで思ったことではない。手を洗いに行ったときに右腕にあるぶつぶつと地球における私の存在とを繋いでみたとき、その不充分さが目立ち、それならば、と比喩を精密にしていこうとすると、結局なにものでもない私に到達する気がしたのである。

全体と群れと………

第6章も読むか。昨日私は「第1部第4章」という書き方をしたが、この本は部ごとに章が1からになるタイプではなかった。なのであれは必要ない配慮だった。エクスキューズだった。その失敗が私の書物観をあらわしていると読む人はどれくらいいるのだろうか。実際そのように読むかは別としてそのように読むことができると思う人はどれくらいいるのだろうか。まあいい。第5章の最後を引用しよう。感じとしては第1章に似ていた。この章は。東浩紀の書き方の癖なのだろうか。それはよくわからない。

ぼくはさきほど、シンギュラリティの物語は過剰な人間信仰と呼んでもいいし、逆に人間批判と捉えてもかまわないと記した。人間はあまりにも能力があるから、逆に人間の限界を超えることができる。共産主義もそう考えた。だから彼らは、私有財産と資本主義を克服し、家族や民族を解体することが可能だと信じた。過剰な人間信仰と素朴な人間批判の両立、それこそが「大きな物語」の本質である。
それに対してぼくはここからさき、きわめて常識的に、人間にはたいして能力がないので、人間の限界を超えることなどできないという主張を展開する。私有財産と資本主義は克服されない。家族も民族も解体されない。格差も戦争もなくならない。人間はいつまでも人間としてくだらない間題で悩み続け、文句をいい続ける。ぼくは民主主義の可能性については、なによりもその前提で考えるべきだと思う。(/)
だから本論は、哲学に驚きや過激さを求める読者には退屈な議論かもしれない。けれども、もし本気で世界を変えたいと欲するならば、ぼくたちはまずは退屈な現実に向かいあわなければならない。人間の限界を知らなければならない。最近の哲学者は、リベラルもテック系もあまりにその覚悟を欠いている。この認識において、第一部と第二部はまっすぐにつながっている。
『訂正可能性の哲学』166-167頁

正直、私は「哲学に驚きや過激さを求める読者」だと思う。し、正直、ここでの、少なくともこの章での東の議論は「退屈」と言えばそうである。しかし、それでもなんというか、芯に触れる感じはあり、だから読み進められている。あと、エクスキューズが丁寧。さて、第6章へ。

少し不親切な引用だが許してほしい。少し長く引用する。

さて、前述の「一般意志」は『社会契約論』では、そのような社会契約が成立したとき、必然的に生まれる集団の意志として定義されている(第一篇第六章)。人々が集団をつくると一般意志も現れるというわけだ。
集団の意志とはなんだろうか。ふつうに考えれば、個人の意志を集めたものだということになるだろう。実際、ほとんどのルソーの読者はそう理解して『社会契約論』を読んでいる。
ところが『社会契約論』をきちんと読むと気づくのだが、その理解は正しくない。というのも、ルソーは続いて「特殊意志」と「全体意志」という概念も導入しているからである(第一篇第七章、第二篇第三章)。特殊意志は個人の意志を意味している。そして全体意志こそが特殊意志の集まりだという。それでは一般意志はなにかといえば、一般意志もまた特殊意志の集まりではあるのだが、(/)しかしたんなる集まりではないというじつに厄介な書きかたがされている。ルソーによれば、両者の差異は公共性と関係している。私的な利害はいくら集めても私的な利害でしかない。特殊意志が集まってつくられた全体意志も私的な利害でしかなく、社会全体の公的な利害を代表することはできない。けれども一般意志には、全体意志と異なって公共性が宿るというのである。
これはどういうことだろうか。両者は具体的にはどう異なるのだろうか。全体意志は特殊意志を集めれば生まれるとして、一般意志は、それになにを加えれば、あるいはそこからなにを滅じれば生成するのだろうか。
ここには大きな謎がある。多少大袈裟にいえば、ぼくの考えでは、近代民主主義の困難は最終的にはこの問いに集約される。なぜならば、「一般意志は全体意志とは違うものであるはずだ」というその信念にこそ、この二世紀あまり民主主義が相互に矛盾するさまざまな期待を背負いながらも望ましい政体として語られ続けてきた、その最大の理由があるからである。
同上、169-170頁

ここでの見得の切り方はスマートで素敵だと思うが、それはそれとして、私はここで言われていることを類比によって考えたことがある。いや、今も考えている。

ただ、現時点でそれを細かく丁寧に言うのは難しい。キーワードは「キメラ」であり「セルフエンジョイメント」であり「個人」である。「セルフエンジョイメント」は『動きすぎてはいけない』に書かれている。他はまあ、「個人」は永井均の哲学もしくは大森荘蔵の哲学に、「キメラ」は仏教に由来する同居人との「集まる」ことについての対話に聴くことができる。ただまだ、このことをまとめる力はない。とりあえず読もう。続きを。

じつはルソー自身は民主制を支持していない。むしろ君主制を支持していた。けれども、そんなこととは関係なく彼の議論は民主制の熱烈な擁護として読まれた。そして現実にフランス革命の原動力となったのである。
なぜそんなことになったのか。理由のひとつは、ルソーがそこであらゆる統治は一般意志に導かれるべきだと宣言したことにある(第二篇第一章、第三篇第一章)。一般意志は社会の意志を意味している。ルソーはしばしば「人民」という言葉も使っている。そちらに従えば、一般意志とは人民の意志だということになる。統治が人民の意志に導かれるべきだというならば、統治そのものも人民(/)が担ったほうがよい、つまりは民主制がもっとも望ましいという発想が出てくるのは自然なことだろう。
ふたたび注意しておくが、ルソー自身はけっしてそうは考えていなかった。実際『社会契約論』を詳細に読むと、一般意志についての議論と政治体制についての議論がはっきり区別されていることに気がつく。『社会契約論』は四篇に分かれているが、第一篇と第二篇が一般意志論に、第三篇と第四篇が政治体制論になっている。つまり、一般意志が人民のものだという主張は、政治体制が人民のものであるべきだという結論と直接には結びつかない構造になっている。ルソーは、統治者が君主ひとりだったとしても、そのひとりが人民の意志を把握し、それに基づき統治するのであれば問題はないと考えていた。だから君主制を支持することができた。けれども多くのひとはそのような議論の構造は重視しなかったのだ。
いずれにせよ、ルソーは国家は人民の意志で統治されるべきだと主張し、それを読んだ人々はそれならば統治は人民が担うべきだと考えた。民主制こそが理想的な政治体制だと考える近代の歴史はここから始まる。
同上、171-172頁

この、ルソーのねじれ、に見えるところはとても面白いし、上に書いた「キメラ」「セルフエンジョイメント」「個人」の話にも大いに関わるところだと思われる。

ただまあ、そりゃそうだとも思う。なんというか、その関わりを明らかにしなくてはならないのだ。そもそも「全体意志」など存在できるのだろうか、という感じが私はする。

シュミットの主張は、ひとことでいえば、議会は全体意志しか摑むことができず、独裁こそが一般意志を摑むことができるというものである。じつはルソー自身も代議制を否定している。彼の考えでは、一般意志は社会契約からじかに生まれるはずのもので、党派による妥協が忍び込むものであってはならなかったからだ(第二篇第三章)。一般意志は議論によって生まれるものではない。シュミットによる議会の否定は、この点ではルソーの忠実な継承といえる。
同上、175頁

私は私とその私を構成する何かたちの関係と私たちと私の関係を類比することでやっと、政治も含めたコミュニケーションをそれとして存在させることができると思っている節がある。もしそれを「類比」ではなく直列するものとして考える場合「私」はその直列の中間に存在するものになる。しかし、それは二つの関係の中間に「私」的なるものを挿入すること、創出すること、それらであると私は思いがちなのである。これがなんなのか、私は、ある程度は明らかにしたいのである。

東はこの感じを上で触れたような「読者」の読解だと言って拒絶するだろうか。するかもしれない。

まあ、だからと言って別に変わることはできない。少なくとも急には。

年齢は月を考慮せず生年を減じて示す
同上、179頁

なんともない箇所だが、私はここに何か、何かを感じる。

変な引用をしよう。変な引用がしたいわけではないのだが。

ルソーを哲学者としてだけみれば、『学問芸術論』のつぎは五年後の『人間不平等起源論』であり、そのつぎは一二年後の『社会契約論』だということになる。前者は彼が四三歳、後者は五〇歳の著作であり、ともに円熟期の仕事といえる。両者とも古典として親しまれている。
同上、179頁

私はなんだか変だと思った。しかしそれは勘違い(?)だった。私は『学問芸術論』から『社会契約論』まで十七年かかったと思っていたのだが、そうではなかったのだ。私は「そのつぎは」の「その」を『学問芸術論』ではなく『人間不平等起源論』であると思いなしていたのだ。しかし別に、その読みが間違っているとは思わない。単に思い違いだったとは思えない。仮に「前者は」以降の文章がなければ、そのように思っていたとしても私が悪いわけではないだろう。

なんでこんなことを書いたのだろうか。別に東のことを責めようとしているわけではない。ただ、この「その」の捉え方が東と私のあいだのなんらかの違いを示しているかもしれないと思ったのだ。

まあ、その後を読むと、この、それぞれの著作のあいだをこじ開けてみるというのが全体の論旨だったと言える。だから、それがあらかじめここにも響いていたとも言えよう。ただ、だからと言って、ここから私と東の距離や方角について考えることができないわけではないと思う。

ムヒ、もしくはそれに類するものが欲しい。が、槇原敬之が歌っているようにムヒの場所さえわからない。

ホッブズやロックは、人間は孤独では生きていけないと考えた。だから社会契約が必要だと主張した。けれどもルソーは、人間は孤独でも生きていける、それどころか孤独なほうがよく生きることができると考えていたのだ。しかし、だとすれば、ルソーはなぜ社会契約が必要だと主張できたのか。
ルソーがなぜ一般意志と全体意志の区別を必要としたのか、その理由がここから推察できる。ホッブズやロックは一般意志の概念を必要としない。そこでは社会契約は、個人が私的な利害を守るためにこそ必要だと考えられていたからである。これはすなわち、社会は特殊意志の集積から、つまり全体意志からおのずと立ち上がってくるということを意味する。社会の成立を説明するためには、全体意志の概念だけで十分なのだ。
けれどもルソーの社会契約説ではそうはいかない。個人は自然状態のままで幸せに生きることができるのだから、社会契約は私的な利害から生まれる理由がない。特殊意志をいくら集めても、社会は立ち上がらない。それゆえルソーは、全体意志と区別される一般意志という新しい概念を導入し、社会の存在を特殊意志の集積から切り離す必要があったのである。
同上、190頁

面白い話だ。東からすれば「覚悟を欠いている」私としては、区別が存在することと存在しないことの違いが全体意志と一般意志の区別の本質なのであって云々、みたいな話が聞きたい。まあ、そんなに聞きたいなら私がすればいいのだけれど。うん。

同書[=『社会契約論』:引用者]の社会契約と一般意志の関係についての記述は、ふつうは、まず最初に自然状態があり、つぎに人々のあいだで社会契約が交わされ、結果として共同体が生まれ一般意志が生まれる、そんな直線的な経過を描いたものだと理解されている。実際、素朴に読めばそうとしか読めない。
けれどもぼくにはそれは単純すぎるように思われる。そこには逆に、最初には共同体のほうが存在し、つぎにその起源として社会契約が見出され、結果として一般意志があたかも最初から存在していたものであるかのように仮設されるという、そんな"遡行的な発見"の過程が隠されているのではないか。
同上、192頁

疲れてきた。次の区切りが来たら一旦終わろうかな。少し変なところで終わることになるけれど。まあ、それはいい。

「遡行的な発見」確かにルソー解釈としては新しいものかもしれないが、それ以上の意味があるかどうかは私が考えなくてはならない。

寝転んだ。寝ちゃうかも。

ああ、サビ的なところが来てしまった。引用するしかない。ああ。起き上がろう。

ひとはみな孤独で幸せに生きることができるのだから、社会契約は本来は必要ではない。にもかかわらずだれかが私的所有を発見し、不平等を発明してしまったので、みな社会契約を交わすほかなくなって"しまった"。これがルソーの基本的な構えだ。
だとすれば、ルソーの社会契約説は、先行の社会契約説を引き継いでいるかのようにみえて、本質的に異なる論理に基づいているといわねばならない。ホッブズやロックは、ひとはひとりでは生きられない、"だから"社会をつくったと考えた。対してルソーは、ひとはひとりでも生きられる、"にもかかわらず"社会をつくって"しまった"と主張しているのだからだ。
同上、194頁

変な言い方だな。ルソーが、じゃなくて、最後の「〜と主張しているのだからだ」の「だ」が。ただまあ、付けたくなるのもわからんでもない。なんというか、飄々とした感じが出過ぎてしまう感じがあるのだろう。まあいい。この箇所には注がついている。

ぼくがここでルソー読解の軸に据えているのは、形式化すればつぎのような論理である。A(自然)は自足している。B(文明)は存在しなくてよい。しかしAはAのままでいられなかった。AがAでいるためにBが必要になって「しまった」。Bの出現はある意味では必然ではないが、別の意味では必然だ。AにとってBはあくまでも「おまけ」なはずだが、現実にはBが存在しなければAも存在しない。
じつはこの屈折した論理は、ルソーに限らず哲学史で頻繁に現れることが知られている。第一部の注65で参照した哲学者、デリダはその屈折を「エクリチュール」という言葉で表現した。エクリチュールは思想用語としてはカタカナでそのまま書かれることが多いが、日常語としては「文字」を意味するフランス語である。声は声だけで存在する。文字は「おまけ」である。多くの哲学者がそういう。でも現実には文字がなければ声も記録されない。文字として書かれなければなにが音素かもわからない。そこには矛盾がある。デリダはこれをひとつの雛形にして、多くのテクストのなかに同じような矛盾を発見し、伝統的解釈を転倒する新しい読解(脱構築)を導こうと試みたのである。
同上、197頁

ここで言及されている「第一部の注65」も引用した記憶がある。哲学みがあるのだ。アクロバットな。

まあそれはいいとして、昨日私は「詩作」について詩が先かイメージが先かみたいなことを考えた(「詩を作らない」)のだが、あれもこのように「脱構築」されるのだろうな、という感じがした。しかし、それはここで論じられている「屈折した論理」についての別様での考察であるとも言えると思う。そんなことを思った。

とりあえず今回最後の引用になる引用をしよう。今回は五段落引用することが多かったような気がする。この引用もそうだ。少なくともこの引用はそうだ。他の回では三段落の引用が多かった。

ルソーは、社会契約は「訂正」によって遡行的に発見されるものだと考えていた。それはもともとは実在しない。しかし発見されたあとは実在する。懐疑論者が問題提起することで、クワス算が実在してしまうように。
ぼくはさきほど、ルソーの思想には矛盾があるようにみえ、哲学者のあいだで問題になってきたと記した。訂正可能性の論理への注目はその疑問を解消してくれる。ルソーはじつはあらゆる著作で、一貫して社会が悪で自然が善だと主張している。そこはまったくぶれていない。同じように、人間が不平等な社会をつくって「しまった」、その現状への嘆きも変わっていない。ただし彼は『社会契約論』では例外的に、まずはその現実を受け入れ、遡行的に理由を探るという、ほかの著(/)作とはまったく逆の順序で議論を組み立てているのである。だから『人間不平等起源論』では社会契約は必然ではないはずなのに、『社会契約論』の論理では社会契約は必然になるという表面的な矛盾が生まれるのだ。
ルソーは前述のように、なにが公的な発言でなにが私的な呪詛なのか、その区別すら怪しい人物だった。しかしそんな彼も、社会なるものが存在し、自由を制限していることは知っていた。というよりもそれにこそ悩まされていた。それゆえ彼は、その愚かな現実の起源を探るために歴史を再構成した。『社会契約論』は要はそのような書物なのではないか。
だとすれば、一般意志もまた、もはや単純に実在するものだと考えてはいけないだろう。それはあくまでも、「"もし"いま不平等な社会が成立しているのだと"すれば"」という条件のもとで、遡行的に見出される仮説的な存在と理解するべきなのである。
不平等な社会はどこでも成立しているのだから、その仮定は現実には条件節として機能しない。だから『社会契約論』をふつうに読めば、一般意志は素朴に実在すると語られているようにしか受け取れない。けれども、その隠された仮定を想定するとしないとでは、同書の多くの箇所の読みが異なってくる。
同上、195-196頁

すげえ、と思ったね。あと、『責任と物語』を読んでみたいと思ったね。『訂正可能性の哲学』が批判されていると小耳に挟んだので。あと、私は、「遡行」がはじまるということに興味があるのだ、と思ったね。だから、「懐疑論者が問題提起する」というところが輝いて見えたね。そこを考えたいと思ったね。「発見」がなされることを東のように「条件節」との関わりで読むことによって提示するのはとても面白いけれど、私は、それもまたコミュニケーションの開始、というある種暴力的なことからはじまるという話がしたいと思ったね。「ね」。

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