「ポジションとアテンション」(『置き配的』第8回)を読む
『置き配的』第8回、「ポジションとアテンション」を読む。なんとなく。
悠久か喫緊か。それ以外の時間が哲学からなくなってしまったかのようだ。
悠久も喫緊も、そこに寄りかかれば際限なく「言うべきこと」を調達できるのであり、その意味でこれもまた〈密〉の一形態である。悠久は大学の中に匿われ、喫緊はそこで蓄積されたものをその外へと「アウトリーチ」するための口実となる。
理論的な知はその内と外のスイッチを可能にする回転扉としてしか機能していない。つまり、中を中たらしめ外を外たらしめるためにだけ引かれ、通り抜けられる線のようなものになってしまっている。しかしひとつの理論が構築される現場には、ひとりの人間がものを考えるときの具体的な手触り、その時間の厚み、そのサイズ感も同時に刻まれているはずであり、図書館に敷き詰められたアーカイブの具体性と差し迫った急務の具体性とは別に、理論に固有の具体性があるはずだ。
先に述べた理論の実践性はこの具体性の把握によってこそ開かれるだろう。ひとことで言えば、'理論の場所の喪失とは、「考える」ということのサイズ感の喪失なのだ'。「考える」はおのおのの生のかたちと結びついたとても具体的な営為であるはずなのに、それは一方であまりに大きな歴史や急務に、他方であまりに些細な釈義や作法に引き裂かれてしまっている。
ポジションの関係論的な地獄は、文字通りGPS(Global Positfioning System)のように、われわれを一幅の地図の上に縛り付ける。しかしGPSとは異なり、われわれのポジションは衛星(/)によってではなく保守かリベラルか、ロシアかウクライナか、イスラエルかパレスチナか、中絶に是か非かといった一連の質問票によって割り出される。ドゥルーズ&ガタリはこのような無数の二者択一によって主体にポジションを割り当てる機構を「二項化作用」と呼んだ。非常に微妙な、しかしきわめて重要なことだが、これらの質問票のなかでいずれかの選択肢を選ぶことと、そのような質問票を突きつけられ続けること自体の違和感を思考することは両立するし、真にポジションの外を考えるということはこの両立可能性を考えることである。
『置き配的』168-169頁
最後が響いた。もちろんそこまでも響いたが、今日は最後が響いた。私は「質問票」から逃げがちなので。ただ、それが「逃げ」であるのはなぜか、を考えたいとも思っている。それはここで言われている「質問票を突きつけられ続けること自体の違和感を思考すること」にも似ているが、同じではない。
一見ナショナリズムや環境問題などの「大きな物語」が復古したかのように思える現状において起こっているのは、つねに私以外の誰かの大きな物語に対する私の小ささ、弱さにおいてしか、われわれはわれわれの実存を安定させることができなくなっているということだ。アテンションも欲しい、ポジションも欲しい。しかしアテンションやポジションを取りに行く身振り自体が私の表現から内実を骨抜きにしてしまうので、誰かの表現を示威的なパフォーマンスとして見なすことにおいて、私は私の表現が実のあるものであると、感じることができる。これが「注意の時代」の心性であるだろう。
同上、166頁
少し前にこれが書かれている。その流れを感じたのだが、するすると消えていってしまった。なので並べて置いておくだけにする。並べて置いておくことにする。窮状を「悠久」でも「喫緊」でもない、そんな仕方で存在させること。それが大事なのだと思う。
このポジションの関係論的地獄、「言うべきこと」の過密状態から抜け出し、「考える」ことのサイズ感を取り戻すこと、それこそが理論の構築に期待されるべきものだろう。ドゥルーズ&ガタリは二項機械に絡め取られた「下位システムとしてのマイノリテイ」とそこから脱する「創造的なマイノリティ」を区別したが、この二元論自体がふたたび二項機械に落ち込まないためには、'理論の創造性'によって二項機械の診断とその内在的な書き換えを同時に遂行しなければならない。それこそが「真の批判の条件と真の創造の条件は同じものである」(ドゥルーズ)ということの意味だ。
同上、170頁
私はここで言われている「創造」への傾きが弱い。別に私にとってそれは悪いことではないが、確かにその気概が必要であるとも思う。私は別に、何者でもない。ただの一介の、なんだろう。何かである。しかし、だからと言って汲み出せないことはない。ここから何も汲み出せないことは。このことも結構、重要なことであるように思われる。私のような人が必要なのだ、とは思わないが、それを見ないふりをするとわざわざ私がやっている意味がなくなってしまう。ただ、それを見過ぎる必要もない。なぜなら、私は「一介」なのだから。
哲学の特殊性は、必ずしも即座に他の分野に対する卓越性を意味するわけではない。哲学はたんに抽象化するのではなく、抽象化の多様性の場であるのだ。芸術学の理論が具体的な芸術作品を抽象的に取り扱うのと同じように、哲学は「抽象化」の具体的なプロセスを抽象的に扱う。二〇世紀の哲学において「形而上学の超克」としてなされたような哲学の卓越性への批判は、この'「抽象化」の具体性の忘却'に対してこそ向けられるべきであり、実際、哲学は往々にして、抽象的なものについて語るおのれの身振りを具体的なものから超出したものと勘違いしてしまうという罠に対して脆弱である。
同上、171頁
ここでの指摘はとても魅力的なものである気がするが、まだそれを充分にわかっている感じはしない。「抽象化」も具体的なのだ、という感覚はとてもわかる。私自身も、かなり抽象的なことしか書かないが、しかしそれに特別負い目を感じていないのは、
なぜだ?アナロジーばっかしてても仕方がない、とも思っている。しかし、あれはなんだ?一旦お風呂を入れてくる。ボタンを押す。栓を閉める。栓を閉めてから、ボタンを押す。
この罠を躲す「良い理論」があるとしたらそれは──とりわけゲーデルの不完全性定理以降──たんなる体系的な整合性や適用可能な領域の広さによってではなく、その構築や使用といったプラグマティックな契機によってしか判別することができない。そしてその判別の身振り自体がまた新たな理論の構築に寄与するのでなければ、それはダメな判別である。なぜならひとつの理論を単離してそれを客観的に評価することなどできないからだ。その不可能性は哲学の卓越性の批判という企図から必然的に帰結する。言わばひとつの理論を検討することはそれを「料理する」ことなのであり、その結果のどこまでが素材に由来しどこからが調理に由来するものなのか、究極的には決定不可能である。したがってここでもやはり、批判と創造とは同じものである。
とはいえ、もはやそれ自体で良い理論や悪い理論があるのではなく、あらゆる理論が良い/悪いという評価に対して相対的であり、その評価もまたつねになんらかの評価の対象であり・・・・・・という無限後退も、それはそれで、「抽象化」の具体性を忘却した観念論的な罠である。とするなら、ある具体的な所与と「それ以上」をブリッジする具体的な手続きについての評価を可能にする理論こそがなければならないだろう。
同上、172頁
うん。
絹とナイロンの差異は、一方のアプローチにおいて「階層」という概念の記号であり、他方のアプローチにおいては、そのような概念の存続を担う無数の要素のひとつである。両者のあいだで説明するものと説明されるもの、条件付けるものと条件付けられるものは反転する。ANTは、「社会的なもの」がアクターの局所的な連関から遊離してしまわないよう監視しつつ、同時に、ひとまとまりのものに見える社会=つながりがいかに異質なアクターのひしめき合う場であり、そこに数え入れられるべきものが膨大であるかということを示す。「社会」と呼ばれるもののうちに無数の蟻(ant)を導き入れるのだ。
ANTはこのように、抽象的な観念と目されるものが、現場で、いかにしてひとつならざる媒介子によって担われているのかということに目を向けさせる。それは探究の手立てであると同時に、すでにある理論のクライテリアとしても機能する。ここで含意されてい(/)るのは、「社会的構築」や「再生産」や「疎外」といった社会学的概念自体もネットワークに埋め込まれているということであり、ラトゥールはこの埋め込みを「グローバルなものをローカル化する」と表現している。まさに抽象的なものの構築の具体性が問題になるわけだ。
しかし、ラトゥール自身も強調するように、ANTはそれ自体が新たな理論の構築に向けて積極的な役割を果たすわけでもない。彼はANTを構成する概念はどれも消極的なものであり、「'インフラ'言語」なのだと述べるが、アクターや媒介子といった概念は、コンピュータの「マシンランゲージ」がそのうちでどのような「高級言語」が用いられるべきかにコミットしないように、あたうかぎり無性格であるためにこそ採用されている。煎じ詰めればANTは抽象化しないための、あるいは抽象化を減らすための理論であり、諸々のアクターの特異性があらわれるためにこそ、「アクター」'という概念'の無性格が要求されている。
ANTのこの限界と、本稿の前半で問うた、「注意の時代」におけるポジションの関係論的地獄の問題は同根であるように思われる。だとすればわれわれはANTを離れて抽象化の積極的な意味を考えなければならないだろう。
同上、174-175頁
私もおそらく、ANT的なものを作ろうとしている。それを作って、さっさと哲学、的なことをやめたいとすら思っているかもしれない。大森荘蔵のように。結局大森は無理だったわけで、私もそうなりそうだが、しかし、その「無理」を経験する体力が私にはなく、ただダラダラしているだけである。とも言えそうである。いずれにせよ、福尾は結構強大な隘路に入り込んでいるように思われる。勇気があるなあ、と思う。そして才能も。
アクターを「アクター」に変換する引用符の力の解体(ないし隠蔽)は、そのまま、言葉と物の異種性の消去、そしてロジスティクスの全面化という、この連載がはじめから標的にしてきた置き配的な秩序と同じ要素を共有する。ANTは言わば、もっとも高度かつ繊細なポジショントークなのだ。
同上、177頁
ここにある、ある種のスベスベ感は、そりゃあ、理論的にはそうだけど、的なツッコミを待っているように思われる。『コンビニ人間』的な、つるんとした人間。それを現実だと思う人はいない。それが現実でありうることによって、現実はゴワゴワしてくるのだ。そういう、ボケ性を感じる。ウィトゲンシュタインにも同じようなことが言えるかもしれない。
お風呂が沸いたらしい。まだ少し残っているが、一つ引用して少しコメントしてお風呂に入ろう。一応読み終えてはいる。
ANT論者は自身の論文において、個々の異質なアクターをそれぞれの名で呼ぶだろう。しかしそのバックグラウンドで作動している「インフラ言語」においてはそれらはすべてひとしなみに「アクター」として演算される。個別性と抽象性のあいだに極大の距離を設定しつつ、「アクター」をテクストとしてふたたびローカルなものへと埋め込みなおす手続きこそが、ANTの批判的な力の源でもあり、その限界でもある。
同上、178頁
なんというか、すごく適当に言えば、AはA的なものになり、そのA的なものが全面化しないようにする、というのがANTが行なっていることである、と福尾は言っているのだと思う。その「全面化しないようにする」というのは対比にならないようにするということであり、同時に、類比にならないようにするということでもある。それゆえにおそらく、「アクター」は最小でも三つは必要になると思われる。もちろん、「全面化しないようにする」ことが成功するなら二つでも構わないのだろうが、それは不可能であるという諦め=赦しがそこにはあるように思われる。この「全面化しないようにする」ということが「ロジスティクスの全面化」によって可能であると主張しているのがANTであると福尾は言っているのだろう(同上、178-179頁)。
これはただのまとめで、なんというか、面白いところを掴めている気はしない。引用する箇所は決めた。お風呂から上がったらここを読もう。
概念は理論を構築する手段であると同時に、そのプロセスの具体性が刻まれる場でもある。理論はどこまで行っても抽象的だが、概念は具体的な言語的実体であり、また、テクストという物質と同一視されるわけでもない。したがって概念は手を離れるものであり、ひとつのテクストから異なる理論を引き出す「解釈」と呼ばれてきた実践は、概念のこの二重の「手離れ」によってこそ可能になる。
言葉には、それを書く者の思考のプロセスが刻まれている。われわれはそこからひとつの理論が浮かび上がることを期待する。しかし言葉の連なりにおいて、何を理論のユニット、つまり概念とするかは、多かれ少なかれ読み手に委ねられている。それは第一に、概念とそうでないものの判別自体が(批判と創造が一致するものとしての)解釈といういとなみの一部をなしているからであり、第二にそもそも、ものを考えるのに概念は必須(/)のものではないからだ。概念はむしろ、思考の「ジグ」のようなものであり、あたうかぎり広い意味でのフィールドワークを通して自身が考えたことを言葉でまとめるための仮設的な支えとして要請される。もっとも興味深いのは、当人にとってたんなる局所的な目的に応じたジグであるものが読者にとっては概念となる、そのダイナミズムである。
書く者がただ「書き写す」ことを試みたとしても、読む者は勝手にそれ以上の思考を幻視する。思考とはひとりの人間の頭のなかにあるのではなく、言葉が可能にするこのネットワークとして実現される。しかしそれは「ポジション」のネットワークではなく、書かれたものから透かし見られる、書く者の「スタンス」のネットワークである。ポジションからスタンスへ、立ち位置から立ち姿へ。ポジションが関係論的であるとすれば、スタンスは表現論的なものであるだろう。テクストからいくつかの語を概念として採用するとき、読む者が見出しているのは理論であり、スタンスである。
同上、179-180頁
一旦読んでお風呂に行こう。
一つだけお風呂上がりの私が忘れていそうなことを書いておこう。覚え書きだ。ここでの「解釈」は107-109頁や131-132頁など、他にも挙げられるが、「フーコーのポジティビスム」をもとに理解されなければ価値が分かりにくいものだろうと思う。そこでは「制度」と「固有名」が識別不可能になっているのであり、それは結果的にそうなるとしか言いようがないものの、それをもとに考え始めることはできるように思われる。では、お風呂に入ろう。
上がった。お風呂で軽く考えたが、特にひらめきとかはなかった。読み直そう。最後の引用を。
うーん、難しいなあ。「ジグ」感がよくわかんないのだろう。ただ、その一つ前の、「言葉の連なりにおいて、何を理論のユニット、つまり概念とするかは、多かれ少なかれ読み手に委ねられている。」ということはなんとなくわかる。「幻視」や「リレー」くらいなら見出せるだろうが、「テスト」とか「骨絡み」とかは見出しにくいだろう。福尾から。しかし、私はどうしてもそこを見てしまう。「骨絡み」のバキバキなる音と並べられている静かさが聞こえるし、「テスト」の単調さとそれを楽しむ感じも見える。「幻視」や「リレー」は福尾の公式的な見解として、「テスト」や「骨絡み」は私の非公式的な見解として、(おそらくは)分離している。
これくらいの感じである。そして、これくらいの感じでしかない。私たちは「概念」を見るが、それは前後不覚のうちで見るのであり、そのことを気にしない時にしか、そしてそのことを赦す=諦めるときにしか見えないのである。
今日は福尾のあるツイートを引用して終わろう。
『非美学』は福尾がフーコーの『言葉と物』に「ドゥルーズ」と署名する本で、『眼がスクリーンになるとき』は福尾がベルクソンの『物質と記憶』に「ドゥルーズ」と署名する本でもある。ドゥルーズにとって固有名はそのようにして意味を獲得する。
2024/09/27/0:12
「固有名」は「制度」から、この「署名」によって引き剥がされるのであり、それは誰かがやらなくてはならないことなのである。
推敲後記。「推敲後記」と書くまでもないことかもしれないが、今日の私、今回の私はふわふわしていたように思われる。なんというか、剥離する前の、はらはら感。「女身仏に春剥落のつづきをり」(細見綾子)という句を思い出していた。まあそこまで、出会ってないし見続けてもいなかったが。
