ワインがつなぐ12の物語 5章


#創作大賞2026 #コミックエッセイ部門
サンジョベーゼ

玄場 和子さん ― サンジョヴェーゼ

第5章 法廷とタンゴとサンジョヴェーゼ ―
情熱の弁護士、ワインに目覚める ________________________________________  
弁護士という仕事には、二つの顔がある。  一つは、冷静に法律を読み解き、論理を組み立て、証拠を積み上げる知的な顔。もう一つは、依頼人のために全力で戦い、正義を貫こうとする情熱的な顔。  玄場和子さんは、間違いなく後者の顔が先に来る弁護士だ。  情熱的で、行動力があって、「やりたい」と思ったらすぐに動く。そしてなぜか、私の後を追いかけてくる。大学時代から三十年近く、この後輩との不思議な縁が続いている。 ________________________________________
慶應の教室の前で  和子さんとの出会いは、ワインよりずっと前に遡る。慶應義塾大学。私の一つ下の後輩だ。  正確に言えば、最初に出会ったのは和子さん自身ではなく、彼女の存在だった。私のクラスメイトに玄場くんという男子学生がいて、授業が終わると決まって、教室の前に一人の女の子が迎えに来ていた。  あぁ、また来てるな、あの子。  毎日のように現れるその姿は、もはや教室の風景の一部だった。当時はまさか、この女の子と三十年後にワインスクールで一緒に学んでいるとは、想像もしていなかった。  玄場くんと和子さんはその後結婚し、驚くことに二人とも弁護士になった。弁護士夫婦。法廷で戦う者同士が人生のパートナーになるというのは、なんとも頼もしい組み合わせだ。  大学の先輩と後輩という関係は、日本の文化では何年経っても変わらない。和子さんは今でも私に対して「先輩」としての礼儀を忘れない。そして私は今でも、あの教室の前で玄場くんを待っていた女の子の面影を、和子さんの中に見ることがある。 ________________________________________
イタリアワインの世界に閉じこもる女  和子さんは、ワイン好きだった。ただし、少し偏りがあった。  イタリアワインしか飲まないのだ。  キャンティ、バローロ、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ。イタリアの太陽をたっぷり浴びたサンジョヴェーゼを中心に、彼女のワインライフはイタリア一色に染まっていた。  気持ちは分かる。イタリアワインには、人を虜にする魔力がある。陽気で情熱的で、料理との相性が抜群。何より、飲んでいるだけでイタリアの風を感じられる。和子さんの情熱的な性格にも、イタリアワインはよく似合っていた。  しかし、ある時私は言ってしまった。  「あなたね、ワインの世界はイタリアだけじゃないのよ。もっと広い世界があるけど、あなたがそれでいいんだったらいいけど」  先輩の遠慮のない一言。  和子さんの表情が変わった。「えっ……」と目を丸くして、それから少し考え込んだ。  この瞬間が、彼女のワイン人生の転換点だったのかもしれない。 ________________________________________
目覚めの連鎖  それからの和子さんの行動は、早かった。  まず、イタリア以外のワインを積極的に飲み始めた。フランスのブルゴーニュ、ボルドー。ニューワールドのカリフォルニア、オーストラリア。「世界は広かった」と、まるで新大陸を発見した探検家のような顔で報告してくれた。  次に、ワインの体系的な勉強を始めた。そしてワインエキスパートの資格を取得した。弁護士として法律を極めた人が、今度はワインの世界でも資格を取る。一つのことを究めないと気が済まない性格は、法律もワインも同じらしい。  そしてついに、ワインを教える側にまで回った。アカデミー・デュ・ヴァンという別のワインスクールで講師を務めるようになったのだ。  ……ちょっと待ってほしい。私のワインスクールで講師をやってくれるならまだしも、なぜ別のスクールなのか。  正直に言えば、「なんで私のところでやらないの」と思わないでもない。けれど、それが和子さんなのだ。私の影響を受けて動き出すけれど、最終的には自分の道を切り開いていく。先輩の真似をしているようでいて、気づけば独自のフィールドを築いている。  後輩というのは、いつの時代もそういうものなのかもしれない。 ________________________________________
ゼロ期生の情熱  私がワインスクールを立ち上げた時、和子さんはゼロ期生として真っ先に手を挙げてくれた。  ゼロ期生。つまり、記念すべき最初のクラスの生徒だ。まだカリキュラムも手探りで、教える側の私も緊張していた頃から、和子さんは一緒にいてくれた。  「先輩がやるなら、私もやる」  大学時代から変わらないその一言が、どれだけ心強かったか。  ワインの醸造体験を始めると言った時も、やはり和子さんは「一緒にやりたい」と言ってくれた。山梨のブドウ畑で、弁護士の手がブドウの果汁に染まる。法廷では書類を握るその手が、裁判の合間にプレス機を押している。そのギャップがたまらなく面白い。  私の新しい挑戦には、いつも和子さんがついてきてくれる。ワインの定期便を始めた時も、すぐに申し込んでくれた。先輩のやることは、とりあえず全部乗っかる。その姿勢は、三十年間ブレることがない。
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タンゴを踊る弁護士  和子さんには、もう一つの情熱がある。アルゼンチンタンゴだ。  法廷で戦い、ワインを学び、そしてタンゴを踊る。この三つの組み合わせは、和子さんという人を完璧に表している。  タンゴは、二人の人間が音楽を通じて対話するダンスだ。リードする者とフォローする者が、言葉を交わさずに息を合わせる。一歩の踏み出し方、体の傾け方、視線の交わし方。微細なシグナルを読み取り、瞬時に反応する。  それは、法廷での弁論にも似ている。相手の出方を読み、適切なタイミングで反論し、裁判官と陪審員の心を動かす。そしてワインのテイスティングにも通じている。グラスの中の液体が発する微かなシグナル――香り、色、粘性――を五感で受け取り、言葉に変換する。  法律、ワイン、タンゴ。一見バラバラに見える三つの情熱は、実は「対話」という一本の線でつながっている。和子さんは、人生のすべてにおいて、目の前の相手と真剣に向き合う人なのだ。 ________________________________________
サンジョヴェーゼのように  和子さんにブドウ品種を一つ当てはめるなら、やはりサンジョヴェーゼしかない。  サンジョヴェーゼは、イタリアで最も広く栽培されている赤ブドウ品種だ。トスカーナ地方のキャンティやブルネッロ・ディ・モンタルチーノの主要品種であり、イタリアワインの心臓部と言ってもいい。  この品種の最大の特徴は、情熱と酸のバランスだ。豊かな果実味と力強いタンニンを持ちながら、イタリアの品種らしい生き生きとした酸味が全体を引き締める。濃厚なのに重たくない。情熱的なのに知的。  まさに、和子さんだ。  弁護士としての知性と、タンゴを踊る情熱。イタリアワインへの一途な愛と、「もっと広い世界を見たい」という好奇心。先輩の後を追いかける素直さと、自分の道を切り開く強さ。相反する要素が一人の中で見事にバランスを取っている。  和子さんが今もイタリアワインを愛し続けているのは、きっとサンジョヴェーゼの中に自分自身を見ているからではないだろうか。  あの慶應の教室の前で、玄場くんを待っていた女の子。あれから三十年。弁護士になり、ワインエキスパートになり、ワインの講師になり、タンゴを踊り、そして今、私のワインスクールのゼロ期生として一緒にグラスを傾けている。  三十年の時を経ても、先輩と後輩の関係は変わらない。でも、グラスの中のワインは確実に熟成している。私たちの友情も、サンジョヴェーゼのように、年を重ねるほどに深みと複雑さを増している。 ________________________________________
 

ワインコラム:サンジョヴェーゼ ― イタリアの魂を宿す品種 サンジョヴェーゼの名前は、ラテン語の「Sanguis Jovis(ジュピターの血)」に由来するとされています。ローマ神話の最高神ジュピターの名を冠する、まさにイタリアを代表する品種です。 最も有名な産地はトスカーナ地方。キャンティ・クラシコ、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ、ヴィーノ・ノービレ・ディ・モンテプルチャーノという三大銘柄は、すべてサンジョヴェーゼが主役です。 サンジョヴェーゼの魅力は、料理との相性の良さにあります。イタリア料理はもちろんですが、実は和食との相性も抜群。特にトマトベースの料理、醤油を使った煮物、焼き魚など、旨味のある料理と素晴らしいマリアージュを見せてくれます。 興味深いのは、サンジョヴェーゼは栽培される場所によって大きく表情を変える品種だということ。冷涼な高地ではエレガントで酸味の効いたスタイルに、温暖な低地ではふくよかで果実味豊かなスタイルになります。同じ品種でも、環境次第でまったく異なるワインが生まれる。 人間も同じかもしれません。玄場さんのように、法廷というフィールドでは鋭く、ワインスクールでは情熱的に、タンゴのフロアではエレガントに。同じ人間が、場所と相手によって異なる表情を見せる。それこそがサンジョヴェーゼ的な生き方と言えるでしょう。

ゼロ期生:和子さん

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