源重時
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| 時代 | 平安時代後期 |
|---|---|
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 康治元年10月4日(1142年10月24日) |
| 別名 | 無髪判官[1] |
| 官位 |
従五位上、検非違使、左衛門尉、宮内丞 信濃守、相模守、大和守 |
| 主君 | 白河院、鳥羽院 |
| 氏族 | 清和源氏満政流(美濃源氏) |
| 父母 |
父:源重宗、母:若狭守・源守忠の娘? 若狭守・平祐忠(平祐之の婿養子、昭登親王の外祖父)の娘? |
| 兄弟 | 重実、木田重長、重高、重時、重親 |
| 子 | 養子:実時、季遠、重俊、重範、光成 |
生涯
[編集]白河・鳥羽両院の北面武士を務め鳥羽院においては兄・源重実と並び「四天王」の一人と呼ばれたという(『尊卑分脈』)。右衛門尉を務め、嘉承2年(1107年)正月に検非違使宣旨を蒙る(『中右記』)。天仁2年(1109年)には源義忠暗殺事件の嫌疑をかけられた源義綱の三男義明及び藤原季方を朝廷の命により追討した(『百錬抄』)。その後叙爵して大夫尉となり、天永4年・永久元年(1113年)の興福寺による大規模な強訴(永久の強訴)では平正盛・忠盛父子などと共に防禦の任に就いた(『中右記』)。
翌永久2年(1114年)には「数多の物」を所有したまま源為義のもとに籠った公政なる郎党の引渡しを求めて白河院に訴えている(『中右記』)。その後は受領となり信濃守、次いで相模守を歴任し、大和守在任時の保延元年(1135年)には国司就任後の慣例であった下向神拝を興福寺によって拒否されたことがみえている(『中右記』)。康治元年(1142年)に卒去し、その極位は従五位上であった(『本朝世紀』)。
子孫
[編集]『尊卑分脈』では、重時の子息として挙げる人物を全て養子としているが、そのうち一人の季遠の子孫は飯富氏と称した。この系統は長らく北面武士などを務める京武者の家系として存続し、治承・寿永の乱で平家の侍大将となった源季貞(季遠の子)やその甥・則清(光季の養子)、また鎌倉期に『源氏物語』の研究者で歌人としても知られた源光行(光季の子)・親行父子などを輩出した。その一方、季貞の系統は武田氏に仕え、戦国期に飯富道悦、飯富虎昌、山県昌景などを輩出した。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 宮崎康充 「古代末期における美濃源氏の動向」『書陵部紀要』第30号(宮内庁書陵部、1979年)
- 宮崎康充編 『検非違使補任』第一(続群書類従完成会、1998年)
- 藤原公定撰 「清和源氏(上)」『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』8 (吉川弘文館・国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)