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浅野総一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浅野 総一郎
生誕 嘉永元年3月10日(1848年4月13日)
江戸幕府 越中国射水郡藪田村(後の富山県氷見市)
死没 (1930-11-09) 1930年11月9日(82歳没)
大日本帝国の旗 日本 神奈川県中郡大磯町
墓地 總持寺
国籍 日本の旗 日本
職業 実業家
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浅野 総一郎(旧字体: 淺野 總一郞、あさの そういちろう、1848年4月13日〈嘉永元年3月10日〉- 1930年〈昭和5年〉11月9日)は、日本の実業家。一代で浅野財閥を築いた[1]。通称セメント王。浅野学園理事長・浅野一の曽祖父にあたる[2]。

経歴

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越中国射水郡藪田村(のち富山県氷見郡藪田村、後の氷見市)で医師淺野泰順の長男として生まれた。幼名は泰治郎。姉夫婦が家督を継ぐことになったため、1853年(嘉永6年)に氷見郡氷見町の医師・宮崎南禎の養子となるが、理由あって離縁し、1861年(文久元年)に養家より淺野家に戻った。

周囲の反対を押し切り、家業の医師ではなく、銭屋五兵衛への憧れから商人を志す。1866年(慶応2年)、射水郡大野村の豪農・鎌仲惣右衛門の長女と婚姻し婿養子となる。越中の海産物等を運搬し北陸への販売を始めたが、船の遭難により巨額の資本を失う。これを契機に商売を諦めるように婚家や身内から説得されるが、商人となることを諦めきれず離縁となった。

一旦は実家に戻るが、1871年(明治4年)の春、23歳の時に上京。当初は、東京本郷の旅館を宿とした。この宿の主のアドバイスから、夏場は御茶ノ水の冷たい名水に砂糖を入れた水売り、冬は本郷の赤門前で暖かいおでん屋をすると予想以上に繁盛し貯金ができた[3]。

浅野はその資金を携え、一旗上げるために当時創業期であった横浜に向かった。横浜で勤めた味噌屋で贈答用の包みとして使われていた竹の皮に興味を持ち、贈答用の竹の皮の販売を手掛ける竹の皮屋となる。これを販売していたところ、医者であった父の旧友と横浜で偶然に再会、その勧めを商機と見た浅野は薪炭商(しんたんしょう)に転向した。

1872年(明治5年)に鈴木長右衛門の孫サク(佐久)と結婚。向かいの貸し布団屋の女中が実によく働くのに目をつけ浅野が求婚したもので、以来、妻の佐久との共働きで成功していくことになる。

1873年(明治6年)に石炭や薪炭を売り込む商いにより横浜瓦斯会社(後の横浜市瓦斯局)とつながりができ、石炭ガスを製造した後の産業廃棄物の処分に困っていたガス工場からコークスやコールタールを安値で買い取る。それをセメント製造の燃料としてただ同然のコークスを官営深川セメント製造所に納め、巨万の利益を得た[4]。また1881年(明治14年)にコレラが流行した際は、消毒薬(石炭酸)の材料として内務省衛生局にコールタールを大量売却して大いに儲けている[5][6]。国策事業として始められた官営釜石製鐵所が1882年(明治15年)末に廃止決定されると、1/3ずつ負担してその払い下げに応じようと浅野が渋沢栄一と古河市兵衛を誘った。一度は頷き遥々釜石まで視察に行った渋沢だが、鉱山局長・伊東巳代治から釜石には見込みが無いという話を聞いて断念。浅野もやめるよう渋沢に説得され、この話は無しとなった[7][注釈 1]。

浅野はセメントが建設資材の柱になることにいち早く着目。1884年(明治17年)には官営深川セメント製造所を好条件で払い下げられ、これが浅野セメント(後の日本セメント、後の太平洋セメント)の基礎となる。この払い下げには、取引で浅野の仕事ぶりを見込んだ渋沢栄一の後ろ盾があった。浅野は、王子抄紙部(後の王子製紙)にコークスと物々交換で石炭を納入していたが、人足等と真っ黒になって働く浅野に驚嘆した抄紙部総理の渋沢栄一は、浅野を私邸に招き、絆を深めた。以来、浅野は渋沢の助言をもとに、水力発電所や鉄道建設など急増する需要を受けて、積極的な経営戦略を展開する。浅野セメントの経営には、渋沢の代理として大川平三郎が加わった。横浜から深川までコークスを運搬するために運搬業も始め、それが東洋汽船へとつながっていった[4]。

1896年(明治29年)には欧米視察に赴き、イギリス、ドイツ、アメリカなどの港湾開発の発展ぶりを目の当たりにする。横浜港に戻るとその旧態依然とした港の様子に衝撃を受け、浅野は港湾を近代化し、工場を一体化した日本初の臨海工業地帯を東京市から横浜市にかけての海岸部に政府の支援を受けずに独力で建設することを計画する。この大規模計画に神奈川県は当初二の足を踏むが、浅野の計画の価値を認めた安田善次郎(安田財閥)が支援に乗り出したことで動き出す。浅野が浅野セメントを合資会社にする際に安田が出資に協力して以来、安田は渋沢同様に浅野の理解者であった。また安田と浅野は同じ富山県の出身でもあり、浅野総一郎と安田善次郎の個人的な信頼・友情に基づいて、浅野財閥が急速に発展した。

横浜市鶴見区から川崎市の海岸の埋め立て工事(浅野埋立)は、大正から昭和の初めにかけて約15年間に及ぶ年月をかけて完成、浅野は、浅野造船所(後の日本鋼管、後のJFEエンジニアリングおよび、後のジャパン マリンユナイテッド)など多数の会社を設立した。その後、第一次世界大戦の特需を受け、一代で浅野財閥を築いた。

東京三田の札の辻に金の鯱のある城の天守閣のような豪邸(紫雲閣)を建てたが、贅沢を嫌う明治天皇の逆鱗に触れた[8]ために、住宅ではなく接待用の迎賓館として用いた。その豪邸が悪趣味だとして、新聞が面白可笑しく脚色した批判的な報道を掲載したために、全国的に有名になった。その新聞記事の要約を以下に記す。

紫雲閣の敷地の隣に、洗濯屋がある。物干し竿に翻る洗濯物が目障りなので、浅野は土地を買収して立ち退かせようとしたが、洗濯屋は、どんなに大金を積まれても土地を売ろうとしない。この人は、財閥などものともしない江戸っ子気質の持ち主である。仕方がないので、浅野は塀を高くして洗濯物が見えないようにした。すると洗濯屋は物干し台の柱を高くして、わざと見えるようにした。浅野がもっと塀を高くすると、洗濯屋は、もっと物干し台を高くする。これを何度か繰り返した後に、浅野は根負けして諦めた[9]。

久邇宮が紫雲閣を訪れた時に、この洗濯物を目にした。浅野総一郎がこの洗濯屋に困っていることを伝えると、侍従が警察署長を呼び出して何か命じた。すると、洗濯物がすぐに下げられた。「此時程気持のよかつたことはない」と浅野総一郎は述べている。それ以降、紫雲閣に来客がある時は、洗濯屋は洗濯物を干すのを控えるようになった[10]。浅野は東洋汽船の一等船室の外国人客を必ず紫雲閣に招待して茶会を開き、浅野一族の娘・孫娘・嫁など20-30人でもてなした。合計で13万人ぐらいの外国人を招待したので、外国では「浅野の茶会」として有名だと、総一郎自らが述べている[11]。また、浅野財閥各社の社員や、浅野綜合中学校(後の浅野中学校・高等学校)の卒業生も紫雲閣に招いた[8]。太平洋戦争の空襲で焼失した。

産業における科学の重要性を認識し、科学に強い人材を育成して浅野財閥に供給するために、1920年(大正9年)に、横浜市神奈川区に浅野綜合中学校(後の浅野中学校・高等学校)を設立[12]。浅野総一郎はしばしば学校を訪れて、生徒たちに話をしたが、その話がとてもおもしろかったと当時の生徒が回想している[13]。

毎朝五時に自宅で朝食を摂りながら、重役たちと財閥運営会議を開いた[14][15]。

浅野総一郎の銅像 旧浅野セメント深川工場(東京都江東区)

1930年(昭和5年)5月より欧米視察に向かうが、6月26日にベルリンで発病し、8月2日に帰国して大磯町の別邸で療養していたが、同年11月9日に食道癌と急性肺炎のため死去した[16]。告別式には3000人をはるかに超える焼香客が訪れた[17]。総一郎は神奈川県横浜市鶴見区の總持寺に葬られた。法名は積功院殿偉業総成大居士。

巨大な銅像が浅野学園(浅野中学校・浅野高等学校)の敷地内の銅像山に建てられている[18]。東京都江東区清澄のアサノコンクリート深川工場(旧官営深川セメント製造所)に、「本邦セメント工業発祥の地」記念碑があり、浅野総一郎の銅像もある[18]。横浜市鶴見区安善町(浅野総一郎の埋立地)の東亜建設工業技術研究開発センターにも銅像がある[19]。

2008年(平成20年)7月、総一郎の出生地である氷見市薮田の海岸近くの児童公園の一角に、富山湾を臨むようにした大きな銅像『九転十起の像』が建てられた[20]。2012年(平成22年)4月、氷見市から渋川市へ銅像が寄贈され、総一郎が設立した関東水力電気の佐久発電所内のふれあい公園に氷見市の方向を向いた姿で設置された[21]。総一郎が設立した庄川水力電気小牧ダム近くの庄川水記念公園(砺波市)の銅像は、右手ではなく左手でステッキを突いている[22][23]。いずれの銅像も、横浜市鶴見区の海岸埋立や鶴見臨港鉄道などの工事現場を視察した時の姿である。「浅野さんは朝九時に...やってきた。銅像と同じ格好でね。シャッポかぶってストッキングはいて半ズボンだよ。...そのとき感心したことは、天下の浅野さんさぞこわい恰好をしてお供をゾロゾロ連れてくるのかと思ったら、お供は一人だけ。恰好も洋服はヨレヨレだしストッキングもつぎはぎだらけなんだ。側近とか家族はいろいろ言うけれども、『いや、現場へ行くのにはこれでたくさんだ』って頑張って、そういう恰好でステッキついて、達者なもんでしたよ。」と当時現場担当者だった小柴健太郎は述べている[24]。ストッキングとか脚半[25]とか半股引[26]と表現されているので、長靴ではなくゲートルの類を着用している。鶴見埋立工事現場の帰途、この恰好のまま外務大臣官舎の晩餐会に出席し、田中義一総理大臣や政治家の鳩山一郎と会合したこともあった[26]。

功績

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日本におけるセメント産業を軌道に乗せ、経営する浅野セメントを当時の最大手企業に育成した手腕から「セメント王」と呼ばれるとともに、1914年(大正3年)には鶴見埋築株式會社(後の東亜建設工業株式会社)を創立して鶴見で東京湾の埋め立て(浅野埋立)を始めるなど、京浜工業地帯の形成に寄与した「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」でもある。宮内省にセメントを納め、皇居建設の基礎となったほか、セメント会社で日本初の社内預金制度を採用している。

1882年(明治15年)、岩崎弥太郎が率いる日本郵船が独占していた海運の牙城を崩すべく、共同運輸会社(後の浅野回漕店)の設立に参加した。1924年(大正13年)、京浜工業地帯の埋立地に鶴見臨港鉄道(鶴見線の前身)を設立し、浅野駅にその名を残す。終点の扇町駅がある「扇町」の地名も、浅野家の家紋の扇に因むものである。群馬県渋川市に建設された水力発電所・佐久発電所に、総一郎の妻・佐久(サク)の名が残る。

福岡県小倉市(後の北九州市小倉北区)の埋め立て工事も行い、横浜市同様に浅野の地名が残る。同じく北九州市域では、戸畑市(後の戸畑区)の戸畑鋳物と共同で自動車開発を行い、後の日産自動車の基礎を築いた。 また、南武線、留萠鉄道、五日市線の運営にも携わっている。


北海道では、1886年(明治19年)に政府から官営ビール事業の払い下げを受けた大倉喜八郎(大倉財閥)に渋沢栄一(渋沢財閥)を加え、1887年(明治20年)にサッポロビール(札幌麦酒)を設立。一方、大阪では創業直後に発生した大不況によって行き詰まり、名義だけの存在となっていた大阪ガスの取締役に就任。同社の株式の過半数を取得・買収し、経営再建を行った。

1883年(明治16年)、総一郎は渋沢栄一と共に磐城炭礦(後の常磐炭鉱)の本格開発に踏み切り、ガラス会社(磐城硝子)を営む。磐城炭礦から東京へ石炭を輸送するために、渋沢の尽力で常磐線の日暮里駅 - 平駅(後のいわき駅)間を開通させた。東洋汽船社長時代の1921年(大正10年)、息子の浅野良三が大正活映を創設、谷崎潤一郎を脚本部に迎えて映画を数本製作した。興行成績が悪く松竹に売却したが、谷崎の映画活動として文学史に残る事業である。

横浜で立ち小便する日本人が多いと当時の神奈川県知事に相談されて、63箇所に公衆便所を設置し、その糞尿を下肥として販売して、利益も上げた。「日本に於ける共同便所の開祖」と自称した[27]。

総一郎は次々に新しい事業を始めたので、「事業狂」や「事業の権化」[28]、「事業王」[29]等と呼ばれた。総一郎の息子の浅野泰治郎は、「事業が父の道楽」と述べている[30]。

栄典

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位階
勲章等
  • 叙爵のご沙汰があった時に、「自分は教育がないから爵位を受けるには適当でない」と辞退したが、功績のない子孫が爵位を継承してゆく制度に反対だったのが、本当の理由だという[34]。財閥の総帥で爵位がないのは異例だった[35]。

系譜

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  • 浅野氏の先祖は清和天皇の苗裔源頼光の嫡流土岐氏と同祖。 土岐光衡の二男光時が、美濃国土岐郡浅野村を領して家号を名乗った。家紋は「丸に鷹羽違い」であったが総一郎が、事業を興すにあたり「扇」の開く姿を発案して「旗印」に用いた。すると商売が実ったのでこれを吉例として社号に用いついに家紋もこれに改めた。


 
清和天皇
 
陽成天皇
 
元平親王
 
 
経基王
 
多田満仲
 
源頼光
 
 
 
 
{{{清和天皇}}}
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞純親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
源頼国
 
源頼資
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
土岐光基
 
 
土岐国長
 
 
 
{{{源頼国}}}
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
源頼綱
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
土岐光長
 
 
土岐光経
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
源国房
 
源光国
 
土岐光信
 
 
土岐光重
 
 
土岐光衡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
土岐光行
 
 
浅野光清
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
{{{土岐光行}}}
 
 
 
 
 
浅野光時
 
 
浅野光房
 
浅野光経
 
 
浅野有光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
{{{浅野光時}}}
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浅野光忠
 
 
浅野光保
 
 
浅野重光
 
 
 
(略)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浅野光仲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浅野泰順
 
総一郎(初代)
 
総一郎(2代目)
 
浅野一治
 
浅野治史
 
浅野造史
 
 
 
{{{浅野泰順}}}
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浅野貫一
 
 
浅野良三
 
 
浅野博正
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
富
 
 
浅野八郎
 
 
浅野五郎[36]
 
浅野一(はじめ)
 
浅野一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浅野四郎
 
 
浅野忠男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浅野末一
 
 
喜子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中島房子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浅野義夫
 
浅野栄一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積松
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
白石満
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鶴田幸
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寺田安
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鈴木鷹
 
岩垂純子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
馬杉慶子
 
井上喜久子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Y染色体系統

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家族

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1909年に東京三田に新築された自邸「紫雲閣」。戦災で焼失するまで、家族の住居のほか、外国賓客の迎賓館として使われた。

浅野総一郎を主人公とした映画

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  • 『九転十起の男 -浅野総一郎の青春』2006年(浅野総一郎役:網本圭吾(青年期)・加勢大周(壮年期)・寺田農(老年期))
  • 『弁天通りの人々』2009年(浅野総一郎役:水元秀二郎)

関連項目

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参考文献

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  • 『浅野總一郎』浅野泰治郎、浅野良三 著 1923年6月刊 浅野文庫
  • 『浅野総一郎の度胸人生』新田純子著 2008年8月刊 毎日ワンズ
  • 『女の一心・淺野翁夫人正傳』北林惣吉 著 1931年2月刊
  • 東亜建設工業株式会社『東京湾埋立物語』東亜建設工業、1989年。doi:10.11501/13093931。全国書誌番号:92043546。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13093931。 

脚注

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注釈

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  1. ↑ この後、東京の商人・田中長兵衛が素人ながら釜石製鉄所の再建に着手。現地責任者を任された娘婿の横山久太郎は2年間で数十回の失敗を経てついに成功し、釜石鉱山田中製鉄所が設立された。

出典

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  1. ↑ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 25頁。
  2. ↑ “Yahoo!検索”. search.yahoo.co.jp. 2025年7月13日閲覧。
  3. ↑ 氷川隠士『現代実業家立身伝』(磯部甲陽堂、1912年)112頁
  4. 1 2 第4回講座 東京ガスの歴史とガスのあるくらし高橋豊、川崎区役所、平成18年10月19日
  5. ↑ 浅野総一郎『父の抱負』浅野文庫、昭和6年、137-141ページ。
  6. ↑ 実業界に大きな足跡、八十三歳で死去『東京日日新聞』昭和5年11月10日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p6 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  7. ↑ 浅野泰治郎、浅野良三『浅野総一郎』愛信社、1923年、357-361頁。NDLJP:971989/314。
  8. 1 2 浅野学園『浅野学園六十年史』昭和55年、500ページ。
  9. ↑ 山路愛山『現代富豪論』中央書院、大正3年、113-117ページ。
  10. ↑ 浅野総一郎『父の抱負』浅野文庫、昭和6年、133-134ページ。
  11. ↑ 浅野総一郎『父の抱負』浅野文庫、昭和6年、131-132ページ。
  12. ↑ 浅野総一郎(二代目)『父の抱負』浅野文庫、昭和6年、p.59.
  13. ↑ 『浅野学園六十年史』浅野学園、昭和55年、p.87.
  14. ↑ “経済第一線 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. www.dl.ndl.go.jp. 2022年2月16日閲覧。
  15. ↑ “日本財閥の解剖 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. www.dl.ndl.go.jp. 2022年2月16日閲覧。
  16. ↑ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)13頁
  17. ↑ 『東京湾埋立物語』, p. 134.
  18. 1 2 “「京浜工業地帯の父」浅野財閥・浅野総一郎像と墓”. senseki-kikou.net. 2021年2月7日閲覧。
  19. ↑ “東亜建設工業│技術研究開発センター│東亜発祥の地”. www.toa-const.co.jp. 2021年2月7日閲覧。
  20. ↑ “第1019回 富山県 6 浅野総一郎銅像 高岡市の古い町並み。- ツトムさん家の写真日記。”. 第1019回 富山県 6 浅野総一郎銅像 高岡市の古い町並み。- ツトムさん家の写真日記。. 2022年1月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月7日閲覧。
  21. ↑ “浅野総一郎 記念会-浅野総一郎と 群馬県 佐久発電所”. asano.p-kit.com. 2021年2月7日閲覧。
  22. ↑ 庄川の軌道を歩く 前編
  23. ↑ 北陸の私鉄ブログ
  24. ↑ 『東京湾埋立物語』, p. 128.
  25. ↑ 渋沢栄市記念財団 中外商業新報 第一三七二一号大正一三年五月一九日 努力主義の権化、浅野総一郎翁の寿像横浜子安ケ岡に除幕式挙行
  26. 1 2 浅野総一郎『父の抱負』浅野文庫、昭和6年、89ページ。
  27. ↑ 浅野総一郎『父の抱負』浅野文庫、1931年(昭和6年)、p.65-67。
  28. ↑ 西野入愛一『浅野・渋沢・大川・古川コンツェルン読本』春秋社、1937年、48ページ。
  29. ↑ 齋藤憲『稼ぐに追いつく貧乏なし : 浅野総一郎と浅野財閥』東洋経済新報社、1998年。ISBN 4492061061。 NCID BA38856030。
  30. ↑ 浅野泰治郎『ひもかがみ』浅野文庫、昭和3年、120ページ。
  31. ↑ 『官報』第5159号「叙任及辞令」1900年9月11日。
  32. ↑ 『正五位勲四等浅野総一郎叙勲ノ件』
  33. ↑ 『官報』第1351号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 黄綬褒章下賜」1887年12月28日。
  34. ↑ 浅野学園『浅野学園六十年史』昭和55年、500ページ。
  35. ↑ 安藤徳器『財界不連続線』育生社、昭和13年、p.67.
  36. ↑ 小早川洋一、「浅野財閥の多角化と経営組織」『経営史学』 1981年 16巻 1号 p.42-64, doi:10.5029/bhsj.16.42
  37. ↑ ISOGG Y-DNA Haplogroup Tree Ver.15.73(2020年7月11日版)に基づく表記。
  38. ↑ 浅野総一郎の男系玄孫・浅野造史ほか複数名の子孫から得られたサンプルの解析結果に基づく。※浅野総一郎の長男・泰治郎(のちの二代目・総一郎)は、板垣退助の四女・千代子と結婚しており、泰治郎の子孫は板垣退助の子孫でもあるため、一般社団法人板垣退助先生顕彰会の『明治維新150年・板垣退助百回忌記念事業』の一環として、退助の男系子孫らと同様にDNA解析が行われた。(『NPO法人板垣会 会報』第10号より)
  39. 1 2 3 “財閥研究. 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. p. 333. 2019年7月31日閲覧。
  40. ↑ 中外産業調査会『中堅財閥の新研究』関東編、中外産業調査会、昭和12年、p.215.

外部リンク

[編集]
先代
(初代)
浅野セメント社長
1912年 - 1930年
次代
浅野泰治郎