サン・キュロット

サン=キュロット(フランス語: Sans-culotte)とは、フランス革命期に出現した概念であり、上流階級が身に着ける膝丈のズボン(キュロット)やストッキングを履いていない男性を意味する[1]。なお、急進的な女性たちは上流階級の女性のようにペチコートを身に着けないことからサン=ジュボン(jupon=ペチコート)として知られる[1]。また、女性市民協会の活動家といった最も過激なサン=キュロットの一派はアンラジェという[2]。このページでは男女双方を扱う。
彼らは不足しがちな食糧を得ることに強い関心を持ち、行政当局に対して経済の統制、とりわけ価格の公定を求めた[3]。また、平等主義から資産の再分配を求め、これは共有所有の概念にまで及んだ[4]。
フランス革命における最大の特徴は、都市や民衆の政治参加が急激に拡大し、革命の行く先をも左右した点にある。バスティーユ襲撃、大恐怖、ヴェルサイユ行進、ヴァレンヌ事件、8月10日事件[5]、九月虐殺[6]、テルミドール9日のクーデターと、フランス革命を特徴づける複数の事件において都市と農村の民衆運動が大きな役割を果たしており、歴史学者の松浦義弘は、これらの事件は民衆運動がなければ起こりえなかったとさえ言えるとする。こういった民衆運動にどう対処するかは、当時から革命家にとって避けて通れない問題であった[5]。
後世の小説家といった人々はサン=キュロットを酒浸りの獣のような暴徒と考えたが、実際は一概に表せる存在ではない。彼らのリーダーは昔から名高い重要人物であることが非常に多く[7]、パリで750回起きたとされるサン=キュロットによる抗議運動のうち、物理的な暴力に繋がったのは12%だった[8]。
定義
[編集]1793年4月23日付けで書かれた筆者不明の文書で、サン=キュロットを表現した次のようなものがある。
おいみんな、サン=キュロットって何なんだい?お前らが皆なりたがっているような大金持ちじゃなく、お屋敷でもなく、仕えてくれる召使いもおらず、嫁・子供――子供がいる場合は、なのだけど――と一緒に5階か6階でごく質素に住んで、いつも歩いて行くようなやつのことさ。
役に立つやつさ。畑を耕し、鉄を鍛え、鋸を挽き、やすりをかけ、屋根をふき、靴を作ることができるし、また、共和国の救済のために自分の血を最後の一滴まで流すこと…ができるからさ。
そいつは夕方になると自分のセクションの会合に出席するんだが、傍聴席の女性市民たちみんなから注目を浴びることを期待して髪粉を振ったり、麝香の香水を振ったり、ブーツを履いたりはしないで、正しい提案を全力で支持し、政治家たちの中の嫌悪すべき分派が出してくる提案を粉砕するために、出席するのさ。
以上の定義はきわめて曖昧なものであり、実際はもっと複雑である(理由は後述)[9]。
サン=キュロットについて明確な定義があるわけではないが、直接民主制を主張し、自分たちの活動の正当性を意識し、アリストクラート(貴族)や反革命と対峙し、民衆生活に直結した食糧問題などで積極的に活動する人々を指す[10]。

彼らの中には様々な身分が見られた[10]。当時、貴族[11]、官職保有者、元聖職者、高い知性を持つ大学関係者[12]、ブルジョワ出身の活動家などが、革命においてあるべき公的役割に合致する私的振る舞いのモデルに従うため、自らの習慣・態度・服装・外見を急速にサン=キュロットのようなものに変化させるといった現象が起きた[13]。要はサン=キュロットとは、長ズボンを履いた服装、政治的討論への参加、「革命・反革命」の善悪二元論的な政治論、「お前呼ばわり」といったざっくばらんな会話や物言いなど、文化的な要素によって見分けられていたのであり、特定の社会階層に対応してはいなかったのである[10]。こうして公的人格が作られた結果、現実の人物を一部表現してはいるが、しばしば革命期に求められたものを表現する経済的・社会的理想が再構築された。するとサン=キュロットとは貴族でもなく、住居のない根無し草でもないが、日々の労働によって生活している小生産者・手工業者ということになる[13]。
また、社会経済的要因よりも政治的・道徳的要因による存在であり、ジャコバン派と対になる概念として形成された[10]。ジャコバン派が民衆と接点を持ちつつも、自身は代表制に基づく議員として民衆を上から指導しようとしたのに対し、民衆自身ないしは理想的な民衆の姿として、貧しさと政治的徳を一体視する道徳観をアイデンティティとして持つ者と定義されたのがサン=キュロットだった[14]。ジャコバン派はパリの民衆と特に友好的な関係を築くため、民衆の要求のいくつかを容認する一方で、民衆の危険性を理解していた。そのため革命期の新たな基盤の中で民衆に与えるべき指標や制限を設けようとしたのである。サン=キュロットの定義が曖昧なのは偶然ではなく、こうすることでサン=キュロットの概念に柔軟性を持たせ、民衆の政治的参加に対して認めないと思う範囲をその都度指定したのだった[15]。
背景
[編集]世論と公衆の出現
[編集]18世紀フランスにおいて、都市ではサロン・カフェ・アカデミーなどの基本的に個人から構成される新しい知的社交機関が次々と誕生した。また、識字率の上昇を背景として書物や印刷物の刊行も相次ぎ、教養ある自由職業のブルジョワや自由主義的な貴族は、あらゆる問題について各自で判断を下す「公衆」を形成し、これによって生み出された公衆の判断「世論」は王権も無視できない存在になっていく。そして王権みずからも印刷物によって公衆にアピールし、政策に対する世論の支持を獲得しようとした。こうして権力の正当性の根拠は、秘密のうちに決定を下す国王1人の意思から、公共の場で議論する公衆の判断である世論へと移行し、権力行使の条件が変化していった[16]。

アンシャン・レジームにおいては、読み書きのできない都市や農村の民衆は「公衆」を成す存在ではなく、世論の形成から直接的には排除されていた。しかしフランス革命によって封建制の廃止と人権宣言がなされると、状況に変化が訪れる。特権を持つ社団の上に存在していた絶対主義国家が全面的に否定され、国民を主権とする国民国家の創出が目指され、国王の意思から国民の意思へと、権力の正当性の根拠が決定的に移動したのである。国民の意思を無視することは、政治権力にとってもはや不可能となった。こうしてフランス革命期の政治は、自由・平等な個人によって構成される国民の創造を試みると同時に、権力の正当性の根拠としての国民や、その意思である世論に働きかけるというかたちをとった。同時に、主権者である国民を構成すると考えられた民衆の政治参加が急速に増えたため、政治エリートたちは権力掌握のための決定的な要素となる民衆・民衆運動とかかわり、世論の支持を広く獲得する必要に迫られた[17]。また、守るべき特権を持たない貧しい人々はアンシャン・レジームの維持に対して最も関心の低い層でもあった[18]。
フランス革命期には、通常よりも密度の高い時間を生きているという認識を人々が持ち、個人や集団の政治行動によって世の中が変わるという感覚が、はじめて広範で共有された。こうして当時の人々は、次々と発生する事件の単なる観客ではなく、主人公になろうとした[17]。革命期のパリの職人からもっとも下層の民衆まで多くの人々が、日常生活を疎かにしてでも戦闘的態度で革命政治に関わったのはそのためであった。このような民衆の態度は革命のさらなる激化を招き、政治に関する民衆の意見=言説の氾濫をもたらした[19]。
食糧騒擾
[編集]食糧騒擾は、17~19世紀半ばまで、ヨーロッパにおける多くの国々のとって重要で恒常的な要素だった[20]。ルイ14世の時代に家庭教師を務めた聖職者ボシュエは、王の最も崇高な権利=義務は、臣民に毎日のパンを供給することであると述べている。臣民の生活必需品を供給することは王にとって忌避できない義務であり、ひどく窮乏した際に王をあてにする権利は、王に対する臣民の正当な権利だと考えられていた。実際、ルイ14世は地方から飢饉が起きていない地方から小麦を大量に購入・輸入してルーヴル宮殿の回廊で安く販売する、自分の分の小麦を一部挽かせパンを焼いて人々に分配する(それに伴いチュイルリー宮殿にパン焼きかまどが建設された)など[21]、飢饉や食糧不足を緩和するため積極的に活動した。ヴェルサイユ行進の際にルイ16世をパン屋の主人と表現する者がいたことからも、こうした王=パン屋という認識は王権と民衆の双方に受け継がれていたことが窺える[22]。
フランス革命においては、ほとんど毎日のように大小の食糧騒擾が生じ[23]、特にバスティーユ襲撃とヴェルサイユ行進は、その背景に深刻な食糧危機があった事件である[24]。革命期、凶作によって1788年、1794年、1795年にはさらに危機が深刻化し、逆に1796年は大豊作で、この後は1798年まで3年に渡り豊作が続く[25]。天候不順による凶作によって食糧騒擾がもたらされたという点では、革命期もアンシャン・レジーム期と同様であった。ただし、特に1789年から96年にかけては、アシニャ紙幣の下落や対外戦争によってさらなる食糧の不足と価格高騰がもたらされた[26]。
やがて第一次対仏大同盟や戦局の悪化、アシニャ紙幣下落、西インド諸島産品からの輸入の途絶などによる生活必需品の不足・価格高騰とそれによって生じた食糧騒擾、なにより30万人徴兵への反対をきっかけとして発生したヴァンデ戦争によるフランス内外の軍事的・政治的危機に対して、国民公会の山岳派は平原派の支持のもとに急進的な施策を多数実行した。その中には1793年5月1日、パンの価格統制の導入を要求する民衆8000人に国民公会が包囲されたため可決された、穀物とパンに関する最高価格法(フランス語wiki)もあった[27]。
経緯
[編集]サン=キュロットの登場
[編集]ヴァレンヌ事件の後、一般民衆は自発的に議会に赴き、憲法への忠誠を誓った。そこには長ズボンを履いた民衆の姿も見られ、行列の中には武器を携える者もいた。また、「自由に生きるか、さもなくば死」という標語も使われるようになった。政治勢力としてのサン=キュロットが、まだシンボル的な姿ではあったが出現したのである。なお、「サン=キュロット」という言葉が用いられるようになったのは事件から半月以上経過した7月半ば以降であり、立憲君主政が目指されていた当時はまだ暴力的な民衆に対する蔑称だった[28]。

こうして民衆の政治意識が高まったものの、彼らは議会で自らの意見を表明できなかったため、選挙の第一次集会ともなるセクションでの会合を活動場所とした。主権者である人民がセクション集会で直接に表明する意見こそが真に正統性を持ちうるという、直接民主制的な意識が育ったのである。他方、カフェ、街頭、市場も重要な政治の場となり、農村でも地代の徴収が「神聖な所有権」の一部として続いたことや「経営・耕作の自由」の名のもとに共同体的慣行が掘り崩されていくことへの不満から、1791年夏以降、騒乱が増加した。彼らは、自分たちは1789年の改革によって保障された合法的権利を主張・擁護しているのであり、単なる反乱分子ではないと見做していた[29]。都市においても農村部においても、騒動の直接の原因は食糧問題であったとしても、それは政治の問題と結び付けられ、政治と一体化したものとして問題提起されるようになっていた[10]。
1791年秋から冬にかけて、「サン=キュロット」という語はコルドリエ・クラブのメンバーなどが自分たちのアイデンティティを示す呼称として積極的に用いた。同年10月1日に憲法制定国民議会から立法議会へと交代したのにともない政治的リーダーもある程度入れ替わったが、その移行期間の空白をつくようにして、サン=キュロットは自分たち独自の政治活動の位置を手に入れたのだった[30]。
飢えない権利の主張
[編集]他方、1789年に国有財産を担保にした利子付き債券として登場したアッシニア紙幣は、革命の先行きが不透明で国有財産を入手しても安定した資産になる保証がない状態では、人々の信頼を得られなかった。これは紙幣の価格の下落を招き、物価高騰を生じさせた。また、有産者が資産保護のために庶民が普段の買い物に用いていた貴金属貨幣をため込んだ事、サン=ドマングで起きた黒人奴隷の反乱によって、生活必需品のひとつであるコーヒーや砂糖の輸送が中断された事によって、各地で食糧騒擾が起きた[3]。
こうして、民衆は行政当局に対し、経済の統制、とりわけ価格の公定を求めることが増えた[3]。しかし1774年に財務総監に就任したテュルゴーの影響の元、1791年憲法の体制においては所有権と取り引きの自由は絶対視されており、立法議会もこれを支持していた。経済がうまくいかない理由は政策の欠陥ではなく政策の不徹底に原因があると考えられ、民衆の要求する統制経済策を容認することは、経済をいっそう混乱させるとされていたのである[31]。しかしこの頃、価格が基準を超えないことで穀物を食する「飢えない権利」「生存権」を主張していたサン=キュロットに理解を示し、彼らと連携する必要を自覚した人々も現れ始めていた。ジャコバン・クラブに所属していたロベスピエールや民衆指導者ジャック・ルーなどがこれに当たり、こうした考えを持つ議員は後の山岳派に位置づけられた[32]。

戦争と王権停止
[編集]1792年6月11日、戦況の悪化を受けた議会は国内の騒乱要因を取り除くため、小群で能動的市民20名の要請があれば可能となる非宣誓聖職者の国外追放、ならびに連盟兵の徴募およびパリへの駐屯させる法令を採択する[33]。しかし亡命者や外国政府にフランス軍の動きや作戦を通報していたルイ16世は[34]法令に対して拒否権を行使し、これに抗議した内務大臣ロランをはじめとするジロンド派大臣を罷免し、フイヤン派の人物に置き換えた。この措置を不服とするパリのサン=キュロットは同月20日に蜂起し、立法議会の議場を行進した上でテュイルリー宮殿に押し寄せ、拒否権行使の撤回とジロンド派大臣の呼び戻しを要求した[33]。民衆は午後2時から10時まで国王の居室にとどまり、ルイ16世は民衆の要求に従って赤いフリジア帽をかぶりワインで乾杯するも政治的な要求はいっさい拒否し、結局、民衆はなんの成果も得られないまま引き上げている[35]。
7月25日にコブレンツで出されたブラウンツヴァイクの宣言では、パリ住民が即座に、かつ無条件で国王に服従しない場合はパリを徹底的に弾圧することが示唆されていた。これは民衆の怒りに火を注ぎ、ルイ16世へと批判が向かう結果となった。8月9日の深夜に警鐘が鳴らされ、主にフォブール・サン=タントワーヌ(英語版wiki)とフォブール・サン=マルセル(フランス語版wiki)のサン=キュロット、および全国連盟祭のためパリに来た後もこの地に留まっていたマルセイユとブレストの連盟兵を中心として、人々が動員された[36]。翌日、8月10日事件が発生し、王権は中断されることとなる[37]。
9月に入ると、オーストリア軍・プロイセン軍がパリに入れば、逮捕されている反革命容疑者が革命派の殺害にのり出すという噂が広まり、住民の不安と恐怖はさらに増した。同月2日、九月虐殺が開始される。監獄を粛清してパリ市内における反革命の不安を取り除いた住民は、武器を取って志願兵となり前線に駆けつけて行った。これはサン=キュロットの主張する直接民主制のもとで主権者たる人民が自らの手で主権を行使した結果だった[38]。
恐怖政治の開始
[編集]その後、ジロンド派に近い存在と見られていたデュムリエ将軍が幕僚とともにフランスを裏切ったことで、ジロンド派は不利な立場に立たされる[40]。彼らはライバルへの攻撃によって立場を回復しようとし、サン=キュロットのリーダーであるエベールとヴァルレ(フランス語版wiki)の逮捕、議員でありながらサン=キュロットから支持を得ていたマラーへの逮捕の要求、パリのコミューン廃止とジャコバン・クラブの閉鎖などを行った[41]。5月26日、マラーはジャコバン・クラブでジロンド派に対する蜂起を訴え、これにロベスピエールも同調する。翌日にはサン=キュロットが国民公会の議場に押しかけ、一旦置いた6月2日、サン=キュロットと国民衛兵は再び国民公会に侵入した結果、議会は蜂起民の圧力のもとでジロンド派議員29名と2人の大臣の逮捕を決定した[42]。逮捕されたジロンド派に対する監視はゆるく、何人もが逃亡に成功して地方に逃れ、パリを批判する反乱を煽動した[43]。
7月13日にマラーがジロンド派支持者コルデーに暗殺されると、人々は祖国と革命が脅かされているという不安と危機感に駆られる[44]。これは革命政府の形成と恐怖政治の遠因となった[45]。この頃に食糧不足が生じ、サン=キュロット層からは食糧の価格公定や生活必需品の最高限度額を定める一般最高価格法の要求が出ていた。これに対し国民公会は、民衆層の要求にはそれなりに対応するが、自由放任経済の原則にさしさわりない施策をとる方針だった[46]。しかし9月4日から5日にかけて、武装したセクションの国民衛兵や[47]サン=キュロットが[48]国民公会を包囲し、革命軍の創設と反革命容疑者の逮捕、革命委員会の粛清を要求したことで革命政府が成立した[47]。この一件に関しては、議会に押しかけたサン=キュロットが「恐怖政治を通常状態に」と要求したことを恐怖政治開始のシンボルと見ることもある[48]。
やがて民主運動は公安委員会からの規制・束縛を受けるようになる。政治活動を制約された民衆層、とりわけパリの民衆は、非キリスト教化運動によってキリスト批判という文化面での活動にエネルギーを向けた。これは18世紀半ばより信仰心の希薄化が始まったことや聖職者民事基本法により出た宣誓拒否聖職者が王党派などによる反乱と結びつくことが多かったことなどから帰結したものだった[49]。これは暴力を伴う激しい動きとなり、革命全体の進行に影響を及ぼしかねない事態に発展し[50]、理性の祭典がその頂点となった。国民公会は書物・絵画・彫像・浮き彫りの破壊を「いかなる口実であれ」禁止し、そういった議会の基本姿勢は11月21日におけるロベスピエールの演説で明確になった[51]。そして12月6日、国民公会が「礼拝の自由に反するあらゆる暴力や措置」を禁止する法令を採択した頃から非キリスト教化運動は下火になっていった[52]。
各党派の処刑
[編集]一方、10月半ばからインド会社の清算に関し、大規模な横領や汚職が行われていたことが判明した。その中にはエベール派やダントン派、保安委員会委員も含まれており[53]翌年春には両派は腐敗分子として粛清された[54]。エベール派処刑が民衆に与えた衝撃は大きく、信頼してきたエベール派に裏切られたと感じたパリの民衆は極度の人間不信に陥った。その結果として国民公会やジャコバン・クラブ、公安・保安委員会が気持ちのよりどころとされる。要は、民衆の信頼する対象がエベールなどの個人から国民公会といった組織へと大きく移行したのである[55]。こういった現象はヴァレンヌ事件の際、革命を支持しているように見せていたルイ16世が革命のすべてを否定する宣言を残して逃亡したのを知り、パリと地方の人々の一部は国王から議会へと忠誠の対象を移した時にも見られたが、エベール派処刑はヴァレンヌ事件の時よりいっそう広範かつ大規模に事態を生じさせた[56]。また、革命政府がエベール派処刑の後に行った民衆的制度の廃止(革命軍・買占め対策委員・人民協会の廃止)は、セクションやクラブの活動家以外の一般民衆からは一様に歓迎された[57]。
革命政府とサン=キュロットの、より強固な精神的な精神的結合は、エベール派とダントン派の処刑だけでなく議会の内部分裂によるロベスピエール派処刑(テルミドール9日のクーデター)をもたらした。恐怖政治において、国民公会とその内部組織である公安・保安委員会を革命政府体制の中心として明確に定めたフリメール14日法(フランス語版wiki)の効果が確実にあがっていたと言える[58]。
テルミドール後、逮捕されていた容疑者たちは釈放されたが、その多くはサン=キュロットだった[59]。また、8月末から議会外にて、「洒落者」「金ぴか青年団」と呼ばれる派手な服装で街を練り歩く若者集団が現れ、サン=キュロットやジャコバン派を襲うようになった[60]。
終焉
[編集]1794年12月24日、最高価格法が廃止されると食糧価格が高騰し、食糧不足が生じた[61]。いくつかのセクションの代表が国民公会に代表を派遣しパンの不足を訴え、食糧暴動も発生した。そうした動きに新エベール派のサン=キュロット活動家が入り込み、問題を政治化する。また、平和が到来するまで施行が延期されていた1793年憲法を理想的な民主主義の規定とする考えがサン=キュロットの間に広まっていた[62]。

テルミドール9日のクーデターを起こした人々であるテルミドール派は、サン=キュロットやジャコバン派に代表される不安定性の原因を封じ込めようとした[63]。1795年4月1日、パリの民衆は国民公会に押し寄せ、議場に乱入した(ジェルミナルの蜂起)。彼らは1793年憲法の実施、飢饉対策、拘束されている革命派の釈放を要求したが、蜂起を予想していた議会に対処され引き返すこととなった。この頃になるとサン=キュロット運動の主要な指導者は既に逮捕・処刑されたため、勢力が弱体化していたのである[64]。なおもパリで騒乱が続いたが、民衆は何の成果も得られなかった[65]。
5月20日、再びパリ中部・東部の民衆が国民公会に「パンと1793年憲法」を求めて押し寄せた。この時、議員が1人民衆に殺害されたが、場にいた民衆は比較的少数で武器を持つ者も少なかったため、民衆が議場に入った状態で議事は進んだ[66]。これをプレリアルの蜂起というが、今回もやはり民衆は成果を得られなかった。23日から24日にかけて厳しい捜査が行われ、武器を取って蜂起した者には銃殺が命じられた。また、民衆の要求に理解を示した旧山岳派議員は、処刑もしくは流刑となった[67]。内訳としては議員たちを含め逮捕者は132名、この中から34名が拘禁刑、18名が流刑、36名が死刑である。プレリアルの蜂起失敗はより広範な反動を引き起こし、その後4000人以上のサン=キュロットとジャコバン派が逮捕され、1700人があらゆる市民権を剝奪された[68]。この頃には三色徽章のみを政治的支持の印として認める法律ができていたが、ボルドーにて王党派の金ぴか青年団が王家の色である白い徽章を身に着け、街頭でサン=キュロットを打ちのめし歓喜した[69]。後に11月2日に発足した総裁政府は、「無政府主義者」と呼ばれだした過激なサン=キュロットと王党派を排除することとなる[70]。
こうしてサン=キュロットは徹底的に抑圧され、動きを封じられた。パリの民衆が再び武器を取って立ち上がるのは世代が完全に入れ替わった後、1830年の7月革命となる[67]。現在ではストライキの頻発などに、かつてのサン=キュロットやジャコバンの面影を窺うことができる[71]。
研究
[編集]革命期の民衆運動に関しては、20世紀初頭まで両極端な意見があった。エドマンド・バークらは革命期の民衆運動について「凶暴な恥知らずの女どもの入り混じった群衆」「手のつけられない野獣」「猛獣」と形容し、民衆運動を担った人々を犯罪者・浮浪者・乞食などの社会的落伍者とみなした。他方で、ジュール・ミシュレらは革命期の民衆を、王政から共和政への移行を推進する正義の担い手であり、フランス革命の価値を体現する一体的な存在としてとらえた[72]。

上記のような見方に対して疑問を投げかけたのがジョルジュ・ルフェーブルである。彼はそれまで革命史の研究対象から外れていた農民層を研究対象とし、「ブルジョワの革命」とは異なる自律的な「農民の革命」が存在することを実証した。第二次世界大戦後、この研究成果はアルベール・ソブール(英語版wiki)、ジョージ・リューデといった他の研究者に継承され、ルフェーブルがやり残した都市民衆に光が当たった結果、「都市民衆の革命」が存在することが明らかとなった。そして民衆運動を担った人々は犯罪者や浮浪者などではなく、職人や親方、商店主などであり、結婚をして家族を養う一家の主人でもあったことが実証された[73]。また、彼らを民衆運動に駆り立てた主な動機は食糧危機であったと指摘し、食糧をめぐる騒擾をどう理解するかがフランス革命の理解にとって肝要もあることが示唆された。特にソブールは、ルフェーブルの革命論を踏まえながら、1793年から94年(共和暦2年)のパリにおける「ブルジョワの革命」と「都市民衆の革命」の関連の仕方とその変化が論じられ、これは今日のフランス革命解釈に決定的な影響を与えている[74]。
他方、ソブールの学位論文はパリ民衆の研究において圧倒的な重みをもつがゆえに多くの批判に晒され、フランソワ・フュレら修正派と呼ばれる研究者から[75]政治的・イデオロギー的な反感などを理由に[76]標的とされた。それ以外の場でも、民衆運動の拠点をなしたセクションや人民協会の活動家を対象としてサン=キュロットの社会職業構成や社会意識を包括的に分析した部分に批評が集まった。リチャード・アンドリューズは1793年から94年におけるセクションの指導者たちの多くは小規模な職人であるプチ・ブルジョワではなく裕福なブルジョワであり、民衆運動がサン=渠論とによってなされたというのは政治的なレトリックにすぎず、正真正銘のブルジョワが自己の利害のために一般民衆を操作し、支配したのが民衆運動の実態であったとする[77]。これに対し、マイケル・ソネンジャーは、親方と生活を共にし彼らと考えや行動を共有する職人といったサン=キュロットのイメージは、政治的に構築されたイメージにすぎないと述べ、「サン=キュロット」という用語が1792~93年を通してジャコバン・クラブのメンバーに使用され続けたという事実を基に、サン=キュロットとは職人と固有の繋がりを持つものではなく、民衆や職人などのより広範囲にアピールするためジャコバン派が用いた言葉であったと結論づけた[75]。
そして、ソブールのサン=キュロット研究を内在的に批判し展開したのがアイム・ブルスティンであった。彼によれば、サン=キュロットは1793年から94年においては良き共和者であり、あらゆる政治的・道徳的美徳を含むポジティブな原則を具現し、ある種の心理的・感情的側面を示すものとして使用された。要するに、サン=キュロットとは変幻自在な概念であり、具体的な使用法においてはまったく異なる社会的カテゴリーを意味し得たとした[78]。
脚注
[編集]出典
[編集]- 1 2 マクフィー2022、P.214
- ↑ マクフィー2022、P.322
- 1 2 3 山﨑2018、P.122
- ↑ マクフィー2022、P.298
- 1 2 松浦2015、P.3
- ↑ ブルスティン2022、P.238
- ↑ マクフィー2022、P.249
- ↑ マクフィー2022、P.455
- ↑ ブルスティン2022、P.55-56
- 1 2 3 4 5 山﨑2018、P.119
- ↑ ブルスティン2022、P.97
- ↑ ブルスティン2022、P.86
- 1 2 松浦2015、P.8
- ↑ 山﨑2018、P.119-120
- ↑ ブルスティン2022、P.79
- ↑ 松浦2015、P.12
- 1 2 松浦2015、P.13
- ↑ ブルスティン2022、P.89
- ↑ 松浦2015、P.14
- ↑ 松浦2015、P.25
- ↑ 松浦2015、P.34
- ↑ 松浦2015、P.35
- ↑ 松浦2015、P.26
- ↑ 松浦2015、P.50
- ↑ 松浦2015、P.48
- ↑ 松浦2015、P.49
- ↑ 松浦2015、P.72
- ↑ 山﨑2018、P.107
- ↑ 山﨑2018、P.118
- ↑ 山﨑2018、P.120
- ↑ 山﨑2018、P.123
- ↑ 山﨑2018、P.125
- 1 2 山﨑2015、P.131
- ↑ 山﨑2015、P.131
- ↑ 山﨑2018、P.134
- ↑ 山﨑2018、P.136
- ↑ 山﨑2018、P.137
- ↑ 山﨑2018、P.139
- ↑ 『フランス革命下の一市民の日記』, p. 131.
- ↑ 山﨑2018、P.158
- ↑ 山﨑2018、P.159-160
- ↑ 山﨑2018、P.160-161
- ↑ 山﨑2018、P.161
- ↑ 山﨑2018、P.171
- ↑ 山﨑2018、P.172
- ↑ 山﨑2018、P.173
- 1 2 松浦2015、P.73
- 1 2 山﨑2018、P.175
- ↑ 山﨑2018、P.181ー182
- ↑ 山﨑2018、P.184
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- ↑ 山﨑2018、P.236-237
- ↑ 山﨑2018、P.237
- ↑ 山﨑2018、P.238
- 1 2 山﨑2018、P.239
- ↑ マクフィー2022、P.379
- ↑ マクフィー2022、P.383
- ↑ マクフィー2022、P.396
- ↑ 山﨑2018、P.301
- ↑ 松浦2015、P.3-4
- ↑ 松浦2015、P.4
- ↑ 松浦2015、P.4-5
- 1 2 松浦2015、P.6-7
- ↑ ブルスティン2022、P.44
- ↑ 松浦2015、P.6
- ↑ 松浦2015、P.7
参考文献
[編集]- 桑原武夫編『世界の歴史』10「フランス革命とナポレオン」(中央公論社、のち文庫)
- セレスタン・ギタール 著、レイモン・オベール 編『フランス革命下の一市民の日記』河盛好蔵監訳、中央公論社、1980年2月15日。ISBN 978-4120009174。
- 山﨑耕一『フランス革命「共和国の誕生」』刀水書房、2018年10月。ISBN 978-4-88708-443-8。
- 松浦義弘『フランス革命とパリの民衆 「世論」から「革命政府」を問い直す』山川出版社、2015年11月。ISBN 978-4634672413。
- アイム・ブルスティン 著、田中正人 訳『創られたサン=キュロット 革命期パリへの眼差し』法政大学出版局、2022年7月。ISBN 978-4588011450。
- ピーター・マクフィー 著、永見瑞木・安藤裕介 訳『フランス革命史――自由か死か』白水社、2022年7月。ISBN 978-4-560-09895-0。