価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。
法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。
※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
昔の自分はいつまで「自分」なのか?
自由至上主義の観点にたてば、形式的には、人には自分の自由を放棄する自由もあることを認めざるを得ない。しかし、ここで〈自由であること〉とはどういうことであるのかをもう少し厳密に考えてみたい。
それは第1には、私が、私に関する決定について、他者の介入や強制を免れていることである。この考えを拡張すれば、私と何の関係もない国会議員連中が勝手に制定する法律に、私が縛られる所以はないということにもなる。ちなみにそれがアナーキズムという思想の原点である。
しかし、それだけではない。一般に生身の個人は生涯にわたって不変ではあり得ない。あなたは、幼少期に自分について決定した事柄に、青年期、中年期、老年期になっても束縛されたいだろうか?
子供の頃に「僕は大人になったらぜったいガオレンジャーレッドになるんだ!」と固く心に決めたからといって、22歳になったいま必ず戦隊に就職しなければならないだろうか?
若い頃に熱烈な恋に落ち、「私はあなたのもの。一生あなたのしもべになります」と当時は真剣に告白していた(あるいはそのような手紙を送りつけた)相手から、その思いもすっかり醒めた30年後、「君あの時私のしもべになるって言ったよね。ここに証拠の手紙もあるよ。さあそれでは私の奴隷になりなさいよ」と言われたらどうだろう?
「いやいや若気の至りで」「黒歴史です」などと言って若い頃の自分に関する決定を撤回できなければならないし、もしできないとすれば現在の自分の自由へのとんでもない束縛になってしまう。
それどころか、昨日の私と、一晩寝て起きた今朝の私とが同一人格であると断言できるかも疑問である。
時々記憶が消失する人は、たまたま重要なアイディアを思いついた時に、将来の私にそれを知らせるための手紙を書いておかなくてはならない。今日の私が、他人に手紙やメールを送るように、明日の私にそれらを送らねばならないこともある。
私と他人との間に深い断絶の淵があるというなら、今の私と将来の私との間にも同じほど深い淵がある。私にとって他者とは他人であると共に、過去そして将来の私でもあるのだ。
つまり自由とは第2に、自分がいついかなる時にも自由であること、つまり現在の私が過去の自分に束縛されないこと、現在の自分が将来・未来の自分の自由を封じないことでもあるのだ。
