無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。


著者の本をもっと見つけたり、似たような著者を調べたり、おすすめの本を読んだりできます。

著者の本をもっと見つけたり、似たような著者を調べたり、おすすめの本を読んだりできます。
華厳経には、到底凡夫のなし得ない修行ばかりが説かれているが、
観世音菩薩の章では、ただ観世音の名前を唱える行が説かれている。
これなら易行だし、誰でも実践可能だろう。
それにしてもこの観世音菩薩、なんと我らにとって懐かしく親しみやすい菩薩だろう。
ところで、華厳的な利他行と空性の悟りは、
果たして両立するものなのか?
空性を悟るという事は、自我が滅することと同義である。
自我がなければ、他我もないという事になってしまう。
他者への共感が発揮されるには、むしろ強烈な自我および個性が必要不可欠である。
ここに華厳経の重大問題が潜んでいる。
これは、わたくし個人の私見ではなく仏教学者の津田真一先生の指摘するところである。
逆説的だが、華厳の徒は衆生が存在する限り永遠に悟ってはならないのであり、涅槃に入ることも許されない。
なぜなら、涅槃に入れば菩薩行は続行不可能となるからだ。
これが津田先生の指摘するcriticalな事態なのである。
華厳経と涅槃に入る一切の宗教教義は両立不可能二者択一不可避なのである。
いったい、これをどのように捉えるか?
わたくしにも難しいのであります。