木口小平(きぐちこへい)のラッパのお話(1894)
 死んでもラッパを離さなかった木口小平のお話。日清戦争(1894年)のときの逸話である。朝鮮半島の中央部、現在のソウル郊外の天安市(チョナンシ)付近で日本軍と清軍は対峙した成歓の戦いで戦死。軍部による創作説が根強い。この木口の話は物悲しい。当初は全く別の人名が伝えられ、のちに訂正されたが生前の写真も判明しない。階級として陸軍二等兵であるからもっとも下級の兵隊であるが、この武功が全国に広められたあとも、死後の特昇などの扱いを受けていない。これらは、戦前の軍隊における下級の兵隊の扱いを象徴しているというのは言い過ぎだろうか。詳しくは以下を参照。木口小平について正露丸のラッパのマークがこの逸話に由来することはしばしば指摘される。

広瀬武夫大尉の話(1904)
 広瀬大尉(1889-1904)の話というのは日露戦争中の旅順港閉塞作戦において、閉塞船福井丸において行方不明となった部下の捜索をくりかえすうちにロシア軍の砲弾を受けて亡くなったというもの。このお話は部下の救出のため上官が危険をかえりみず捜索。犠牲になったというお話であり、自己犠牲だけを強調する軍隊でありがちなお話と少し違った要素を感じる。
 

白瀬矗(のぶ)中尉の南極探検(1912)
 この広瀬大尉のお話とまた異なった意味を感じるのは、南極探検にでた白瀬中尉(1861-1946)のお話。南極点を目指し1912年1月28日に南緯80度5分まで到達。しかしここで無理をせず断念し、無事生還した。借財と義捐金により行われた探検である上に後援会が義捐金を飲食で費消したことにより、帰国後の白瀬は借金の返済に追われた。ちなみに1909年、アメリカのロバ-ト・ピアリーが北極点到達。南極点へは1911年12月14日、ロアール・アムンセン(1872-1928)率いるノルウエー隊が到達。しかしロバート・スコット(1868-1912)率いる英国隊は1912年1月18日、南極点到達後、悪天候により遭難、全滅している。スコット隊と異なり、南極点に到達できなかったこと、しかし生還したこと、講演会の問題など、評価は分かれるかもしれないが、各国が南極点到達を競うなか、白瀬自身はよく頑張ったように思える。

乃木希典(まれすけ)夫婦の自殺(1912)
 明治天皇の大葬の日に自殺(1912年9月13日)した乃木希典(1849-1912)。陸軍第三軍司令官として日露戦争旅順要塞攻略戦で勝利したものの、自身の二人の息子のほか、多くの将兵の犠牲者を出したことへの責任をとることを希望した乃木は、自刃を明治天皇に止められる。その明治天皇が亡くなったことで乃木は自殺を選択したとされる。遺書において乃木は西南戦争(1877)の折りに連隊旗を奪われたことを自刃の理由に挙げた。乃木は西南戦争前年1876年10月下旬に生じた一連の不平士族の乱にあって、官軍として鎮圧側で戦うが、不平士族側に立った実弟を亡くしている。


爆弾三勇士(1932)
 昭和7年:1932年の上海事変時のお話。日本陸軍の一等兵3名が、上海郊外で対峙した国民革命軍に対して自爆攻撃をかけ突破口を開いたことを称えた逸話である。肉弾三勇士ともいう。爆死したことは意図的でなく事故だったとする指摘もあるが、真偽は判明しない。自爆攻撃をかけてということで称えられたのだが、事故だった(導火線が短かすぎた)が、それを軍部は美談化したという説もある。第二次大戦末期の特攻攻撃を思い出させる。
 戦争の前線において、先頭で突撃する行為は、敵と味方から前後から撃たれる銃弾の間を進むという話なので、爆弾三勇士でなくても、戦死となる可能性は高い。

 

桜井(さくらい)の別れ(1336)
 湊川(みなとがわ)の合戦(1336)に際して楠木正成(くすのき まさしげ)が嫡子正行と桜井で今生の別れをしたというもの。後醍醐天皇への忠義を示す逸話として用いられるが、脚色説が根強くある。このとき東上してきた足利軍に対し、新田義貞と楠木正成の連合軍は圧倒的に劣勢。死を覚悟した正成は正行と別れたとされる。湊川の戦いは、圧倒的に不利な戦いの象徴。それでも死を覚悟して戦いに向かうことを、忠義とみる見方がある一方、現代から見ると不合理なことを美徳としている印象はある。実は正成らの様々な合理的な進言が公家たちの反対で受け入れられず、結果として正成たちは、圧倒的劣勢の不利な戦いに赴くことになったとされている。

 昔から「桜井駅の別れ」ともいうが、ここで駅というのは電車の駅のことではなく、官道に沿って間隔を置いて設けられた中継地点のこと。駅で馬を乗り継ぐことで文書を早く伝達することが可能になっていた。「駅伝」競争の駅伝で、タスキを渡すのはまさにこの馬を乗り継ぐ様を示している。

 

植民地思想に関わる第二次大戦前の主な事件